淘汰されていく風景
「少し外を見てくるよ」
花街全体を揺らした先程の揺れに、拭いきれぬ気掛かりな違和感を感じた、結城時政はそう言いざまに立ち上がった。
「時政様……」
自分を呼び止めた声に、時政がゆっくりと振り返る。
「最近、店の者から、この界隈に憲兵や警察が頻繁に出入りしていると聞きました。他のところがそうだったように、いずれ解体されていくのかもしれません。それが時代の流れなのかもしれませんが……」
哀しげにそう言う雪椿に、時政が大きく息を吐き出した。
「……そうか」
「もし本当にここが無くなったら雪椿はどうする? 故郷へ帰りたい? 確か北の、海に近い辺りだと言っていたね」
時政からの問いに、雪椿は黙って首を横に振った。
「もう故郷へは戻れません。親も私を売った後ろめたさで、会いたがらないはずですから、他の兄弟達の為にも、私は居ない方がいいのです」
「……」
目の前の娘が見せた、儚げで淋しげな様子に、近付いてきた時政がそっと腕を伸ばし、自分の外套を羽織ったままの、雪椿を抱きしめた。
「時政様……」
「その名で僕を呼んでくれる、君を離したくない。君と過ごすことで、僕は初めて自分に与えられた名を好きになれたんだ」
直に伝わってきた温もりと穏やかな言葉に、雪椿の両眼には微かに涙が滲んだ。
「……これからどんなことがあっても側にいてほしい。必ず迎えに来る。だから何があっても、それをどうか忘れずに覚えておいてほしいんだ」
身体を離し、そう言い残すと雪椿を部屋に残したまま、時政は独り廊下へと出た。
「……」
そこで一度だけ雪椿の部屋の方を振り返り、時政は自分の中でせめぎ合う複雑な感情に、再び緩い息を吐き出してから、頭を振ってそれを打ち消してから歩き出した。
この花街の中にある幾つも立ち並ぶ、妓楼や茶屋は、内部にある複雑に入り組んだ通路で、互いが繋げられていた。
だから、歩き回っているうちに、気が付くと既に隣の店の方へと入り込んでいる、ということが度々起こり得る。
この時もそうだった。
「何だか騒がしいな……何かあったのか? 」
館内を歩き回る内に、時政は廊下をばたばたと慌ただしく駆けていく、何人かの女達とすれ違った。
何事かとその姿を見送りながら、時政が周囲を改めて見回す。
―そういえば、此処へ来るようになってからも、雪椿の部屋以外からは、殆ど出歩いたことが無かったな。こうしてじっくりと、中を眺めるのも初めてだな。
籬と称される、格子が整然と並ぶ、表の張見世とは趣きが異なり、花街にある建物の多くは、内部が朱塗りで統一されていた。
けれど、その色が創建当時よりも褪せているところが、やたらと目に付き、外側に比べると修繕もろくに成されない為か、その一見華やかな印象とのちぐはぐさが、何とも形容し難い、独特の廃れた雰囲気を醸し出していた。
その時、物陰から何かが動く気配を感じ、時政は反射的に振り返った。
そこにいた存在に、時政は驚き、思わず大きく目を見開いた。
「風丸は何処だ……? ここはまるで無秩序な迷路だな。あの犬……俺の仕事を増やしやがって」
面倒臭そうに髪を掻き上げながら、偕人が言った。
「継ぎ足しを繰り返してきた、無理やりな増改築の名残ですよー。他じゃ頻繁に遭った大火に見舞われる事もなく、奇跡的に残った末のものらしいのでー」
大和が周囲を見回しながら応える。
「法の規制が厳しくなっていく一方で、ここのような前時代的な花街は、今後は狙い撃ちの標的にされて、淘汰されていく一方だろ。それが逃れられない宿命だろうからな」
「まあ、それについては否定しません。僕自身はこの昔ながらの、色町の華やいだ雰囲気は嫌いじゃないですが、対外的に見ればそうも言ってられませんしー」
「……国策としてはそうだろうな」
「ええ、そのせいで、ここの処遇も現実問題としては、何らかの対策を考えざるをえなくなってきました。僕が最初に此処に来たのもそんな理由からです。法規制を盾に、花街全体を取り壊すのは、そう難しいことではありませんけどねー」
「……だが、実際には簡単に壊すわけにはいかなくなった理由があった、ってことか? 」
「話が早くて助かりますよー。まあ、大方そんなところですねー。解体してどういうことが起こるかが分からないものには、簡単には手が出せませんからー」
「で、ここには何があるんだ? どうせろくなもんじゃないだろう。さっきの揺れもそのせいか? 」
「さあ? それは実際に見てみないと、僕にも何ともー。確証が持てないので、これからそれを実地で試そうと思ってるんですよー」
大和が直ぐ側の硝子窓を介して、そこから見える庭を顎で指し示す。
「何だ……? 」
「この庭石の並び、ちょっと気になりませんかー? ここに何度か来ているうちに気が付いたんですけどねー」
「……」
偕人が庭石をじっくり眺め始める前に、大和ががらりと戸を開けると、大股でそのまま庭に下りていく。
何時の間にか、微かな雪混じりになっていた、凍てついた空気がたちまち吹き込んできて、その風圧をもろに食らって顔を歪めた偕人の髪を揺らした。
「古い書物の中で何度か見たことがあるような気がするんですよねー。この石の並べ方は。だから、さっきも風丸が反応して、むずがって、雷撃になったのかなーって」
そう言い掛けた大和の言葉と、目の前の石のありように、偕人がその場に硬直する。
「これは、大がかりな要石の結界の外側の……」
「ですよねー。僕も見つけた時は、嫌なものがあるものだと思いましたよー。もっとも、やり方自体が古すぎますから、偕人と色々なものを遡って調べ始めることがなければ、最初に見ただけでは気が付かなかったでしょうけどー」
「……」
「ついでによくよく聞いてみると、時代の経過と共に、大半の記録は失われていたようですが、ここの人間達の間には口伝として語り継がれてはいたようですねー。曖昧だけれど、そういう形では残り続けてきた。よくある事です。ただここの場合は、隔離されているという特殊な環境下であるが故に、余り情報が外には出なかったようですが」
そう言いながら、大人の掌ほどの石が並んだ中の、中央の大きめの漬物石のような大きさの石を裏返す。
「……」
その裏側には古びた呪符が貼り付けられており、石もろともほぼ中央に深い亀裂が入り、ひび割れていた。
「残念ながら、僕等はまた気が進まない形での残業確定みたいですよー」
「賽が投げられっ放しになっているところに、また俺を連れてきやがったな、お前は。確かにこれは風丸の奴のことなど後回しだ」
大和の言葉に、面倒そうに偕人が苦々しい表情で言う。
「……で、朔夜。ようやくお前は、心を入れ替えて、俺に付き従う気になったのか? 結構な心がけじゃないか」
庭の中にある剪定された威厳を感じさせる、松の木を背にしながら、偕人が当然のように言った。
その老齢な太い枝のひとつには、八咫烏が三本の足で掴まっていた。
「偕人にこちらの意志を一切お構いなしに、その腕輪で引きずり出されるのは、もう御免ですから。だったらつかず離れずにいた方がましですよ」
嫌々という感情を全面に押し出しながら、朔夜が応える。
「この腕輪が本来の能力以上に役に立ったらしいな」
「……」
ため息混じりに朔夜が飛び上がり、偕人の頭に乗った。
憎々しげにその頭の上で、朔夜が何度か三本の足を数回踏みしめた。
「痛ええええ! 朔夜、俺の頭に爪の先を刺すな! だったらおとなしく肩に乗ってろ! 」
庭から廊下側へ戻ってきた大和が、他の人間の姿が消えたのを確認してから、床板の一部を素早く外しにかかった。
「下に下りる為の入り口を探すのが、今回は酷く難儀でしたよー。けれど、人海戦術が可能な憲兵団が、こういう時こそ役立つ時ですねー」
「まあ、そうだろうな」
「では、忘れられたままになっていた、花街の裏側を見に行きましょうか」




