黙ってお前も察しておけと
―茶屋の軒下で繋がれたままの、風丸は退屈だった。
この花街のあらゆる場所に漂う、匂いと空気は非日常で独特だ。
だから最初は、この遊里の中央を真っ直ぐに貫く通りを、伏せの姿勢でじっと眺めるだけでも面白かった。
だが、道行く通行人を眺めるだけの繰り返しにも、流石に飽きてきた。
役人と憲兵の、あの二人連れは、未だここに戻る気配が無い。
退屈しのぎに、風丸が両耳をぴんと伸ばし、ゆっくりと顔をもち上げる。
そうすることで同時に、これまではいまひとつ、自分の中で確証が持てなかったことが、やはり気のせいではないのだ、と風丸は悟った。
さっきから断続的に感じ続けてきた、ここに僅かばかりだが漂い続けている、覚えのある『馴染み』の感覚……。
それを確かに感じ、風丸が五感の全てを張り巡らせながら、更に感覚を研ぎ澄ませる。
―居所は掴めないが、確かに何処かにいるのは間違いないらしい。だから自分はそこに行こう。
風丸がそう思った瞬間、妓楼の壁際にある、石の車止めに駒結びにされ、風丸を繋いでいた紐の一部が、はらりと解けていった。
こうして思い描いた通りに様々なものの形を変えさせるのも、あの飴細工の一件以来、随分慣れていた。
だからこの程度ならば容易い。
そうして、風丸は遠吠えをしながら、新月の空を仰いだ。
―遠く離れ、存在だけを感じられる仲間に、自らの位置を知らせ、かつ互いに呼び合う時に、野性の狼達がそうするように。
彼方の闇に向かって、響き渡ったその一匹の狼の声に、偕人が思わず顔を上げた。
「風丸が退屈過ぎて、限界のようだから迎えに行ってやるか」
「じゃあ、頃合いですから、僕等もそろそろ本当の目的を果たしに行きましょうかー」
大和もそう言いながら、ゆっくりと立ち上がる。
「何だ、さっきの落雁で、お前の用件は全て済んだんじゃないのか?! 」
そう言いながら、偕人が思わず、大和が小脇に挟んだ化粧箱に目をやる。
「……まさか。誰が終わったなんて言いましたかー? 本来の目的はこれからですよー。幾ら名物でも、ただの落雁を目当てに、忙しい中こんなところまでは、わざわざ来たりはしませんからー」
「待て! 風丸のことはどうする! 自由気ままな風丸を、あのまま野放しにして放っておけば、また確実に何かやらかすだろ?! 俺には嫌な予感しかしねえよ! 」
「まあ、仮に何かやらかしても、多少の悪さくらいなら、ここじゃ許容範囲ですよー。どうせ客は酔っ払いばかりなんだしー。それに人目を引いてくれていた方が、僕等にとっても色々と都合がいいですからー」
襖を開けて、廊下側に顔を出しかけていた偕人が、想定外の反応を見せた、大和に対して驚いた顔をした。
「……お前はこの後、俺に一体何をやらせるつもりだ? 」
偕人がそう言い掛けた時、離れた部屋の方から、次々に大きな調度品が倒れていくような、どすんとした音が連続で響き渡った。
「ここの内部を見たくて、ああして好き勝手に駆け回るくらいなら、大したことにはならないでしょうしー」
大和がそう言い掛けた時、今度はこの部屋に面した廊下から見える、建物の中央に設けられた中庭を挟んだ、向かいの廊下側から、幻の青い稲妻がほとばしるのが、はっきりと見え、偕人が青ざめた。
「おい……雷は大したことだろ、どう見ても」
「……」
「もういい、お前が行かないなら、手遅れになる前に、俺が風丸を止めに行く! 」
偕人が青ざめながら、そちらに向かって迷わず駆け出そうとしたが、大和がそれを制止した。
「待って下さいよ。手遅れなのは、僕等も同じですからー」
「は……? 」
「こうまで自分達が注目されていると、動きづらいどころじゃないですよーほら」
そこには惚けた眼差しで、壁や柱に寄り掛かりながら、二人の若い男のことを、じっと見つめる女達の姿があった。
今夜の客であろう男と寄り添って歩く、何人かの娼妓達ですら、自らの務めを忘れ去ったように、男から手を離し、思わず足を止めているのだから、度を過ぎているのは明らかだった。
「これは凄い効果だなー。偕人を花街に連れて来るとどうなるかは、僕自身も前々から興味があったんですけど、更にその予想の上をいってますねー」
「……」
「大奥に入った、徳川将軍にもひけをとらない存在感ですよー多分」
「だからその変な例えはやめろと! しかも、毎回適当に思いついたようなことを、そのまま適当に俺に言うのはやめろ! 笑えねーよ! 」
「歩く顔面凶器が、今更、何言ってんですかーやだなあ」
「……不名誉な二つ名を、断りも無く、勝手に俺に付けるな」
「最大限の敬意を込めてるつもりなんですけどねー」
「……絶対嘘だろ」
いけしゃあしゃあとした大和の言葉に、偕人は酷い頭痛を覚えながら、思わず拳を握りしめた。
周囲から恋い焦がれられる視線を、一極集中的に集めながら、偕人が何かを思い出したように嫌そうに口を開く。
「大和……さっきの話だが……」
「んー、一体どの時の、どの話のことですかー? 」
「お前が訊きたがっていた、俺の経験が無い事が云々(うんぬん)って事だが……」
酷く言いづらそうに偕人が言う。
「だったら、わざわざそんな遠回しな言い方なんかせずに、単純に童貞の話って、言えばいいじゃないですかー」
超然とした大和からの返しに、自分を抑えることに最早限界を感じた、偕人がこめかみを痙攣させながら叫ぶ。
「その悪趣味な童貞を言いたくないからだと、黙ってお前も察しておけよ! 」
だが、大和はあっさりと、その言葉を無視した。
「……で、手遅れの童貞が、どうしたって言うんですかー」
「……その枕詞で、お前が更に、俺を限界まで追い詰める気なのは、よく分かった」
「まあ、僕はこう見えても、さっきのことで、まだ相当怒ってますからねー。このまま何処かの部屋に、偕人を放り込んで、その貞操を今夜限りに失わせて、後悔させてやりたいくらいの、危険思考は持っていますよー」
にこやかな笑顔で、そう言ってのけた大和に、脊髄反射的に逃げられぬものを感じた、偕人の背中には冷や汗が伝い落ちていった。
「さっきの話は、俺が先走っただけだったことは認めただろ! まだ根に持ってんのか、お前は! 」
迫りくる、切羽詰まった危機感を感じた、偕人が焦りながら叫ぶ。
「へー、認めた、って言うんですかねー。あれでー」
何時にも増して、何処か狂い壊れ始めたかのような、大和の言葉を聞きながら、偕人は内心さっきの自分の失言を今までになく、本気で後悔し始めていた。
「……」
突き刺さるような、大和からの底冷えした視線に、この上ない居心地の悪さを感じつつ、偕人は暫く沈黙していたもの、再び深々としたため息混じりに口を開いた。
「こういう状況を、何度か繰り返してきて、俺はある時、自分で気が付いたんだが……」
そうして、偕人が周囲にいる、恋い焦がれるような、熱い視線を向けてくる娘達を、改めてぐるりと見回す。
「気が付いたって、何をですかー? 」
「俺がほぼ全ての女にとっては、遠巻きに眺めるだけの、単なる鑑賞対象にしか、なり得ないってことをだ。今のこの状況を見れば一目瞭然だろうが」
げんなりしながら、偕人が嫌そうに言った。
「あー」
心の底から納得したように、大和が思わず間の抜けたような声を出す。
「だから俺は自分の顔が好きじゃないと言ったんだ! 仮に顔が人より格段に優れていたとしても、実際には何も生まねえ! だから、もうこの話を持ち出すのは、今後一切やめろ! いいか、分かったな! 」
口から魂が抜け出ていくような、精神を病んだ青白い顔で、悲壮感に溢れた言葉を吐く偕人に、大和が再び冷めた目を向けた。
「理由が余りに馬鹿馬鹿しすぎて、確かに怒りはかき消えましたけど……それ、自分で言ってて、心の底から空しくならないんですかー? 」
「うるさい! だったら、お前はもっと俺に気を遣え! 」
偕人がそう叫んだ時、「追え」「向こうだ」などと口々に叫びながら、猟銃を手にした幾人かの、腕っぷしが立ちそうな男達が、慌ただしく廊下の向こうを駆け去っていくのが見えた。
同時に、物々しい空気に驚いた娘達の顔が、一斉に何事かと、それぞれの部屋の中に引っ込んでいった。
男達が去ったのを見届けてから、偕人が漠然とした疑問を口にした。
「……狼の神の真神は、猟銃の実弾には対抗出来るのか? 」
「さあ、本気になれば、銃身をへし曲げるくらいはやるんじゃないんですかー? 形を変えるのは得意みたいだしー。それに迂闊に手を出せば、またさっきと同じ雷で、逆に返り討ちにされなねないと思いますけどねー」
大和が何時も通りに、だるそうに適当にそう言った時、微かな揺れで、この茶屋内部の床と壁とが軋みを上げた。




