時政と雪椿
「結城時政様……今宵もお越し下さり、誠に有難う御座います。お待ちしておりました」
妓楼の二階の狭い部屋で、そこで正座して緊張の面持ちで待っていた若い男に、紅い着物を見に付けた娼妓、雪椿が深々と平伏した。
しかも三つ指をついた姿ではなく、畳に掌をつき、両手の人差し指と親指で菱形を作ったところに頭を下げ、話す時には顔だけを上げる、所謂正式な『拝』の姿だ。
雪椿の白塗りの顔と、唇に引かれた、艶やかなまでの真紅の色。
その両方が部屋に置かれた行燈の灯りの中で浮かび上がり、更に結い上げた雪椿の黒髪に差した、上等な鼈甲の簪が鈍い輝きを放っていた。
「そんなに仰々(ぎょうぎょう)しくされても困るんだけど……もうそんな真似はいらないと前にも言ったじゃないか。いい加減僕の言うことをきいてくれても……」
当の若い男、時政の方は、明らかに困惑顔だ。
酷く居心地が悪そうに、時政は持ってきた自分の鞄を開けると、そこから短冊のような形をした、細長い硯箱を取り出した。
雪椿の方もどうしたらよいか分からなくった、まごついた様子で、そっと顔を上げた。
「……」
「休んでいていいよ。今夜も横になりながら、側にいてくれるだけでいいから。僕はまだやらなければならないことが残ってるし」
時政は自ら口にした『残っている仕事』を始めるつもりらしく、場に不似合な背筋を伸ばし正座した姿勢で、机に向かうと硯で墨まで磨り始めた。
「……」
沈黙したままの雪椿に何かを感じたように、時政がゆっくりとこちらを見た。
「何かあった? 」
「時政様がここに来て下さるのが、とても嬉しいのですが……その……」
「僕がこの通り、何処からどう見ても若すぎるから、ここの代金をどうやって工面しているかが気になったってこと? 」
「……! 」
「そんなことを気にするのは、雪椿くらいじゃないか? ここじゃお金を落としてくれるお客ならなんでもあり、なんだろ? 」
時政が苦笑いしながら訊く。
「……」
「何も心配しなくていいよ。別に親の遺産を食いつぶしてる、ぼんくらの道楽息子って訳でもない。僕は少し特殊な仕事が出来る身で、ここへ来られるのもそのせいだから……最初は随分戸惑ったけど……でもあの時通された部屋が、ここでよかったと、今は本当にそう思ってる」
穏やかな愛情がそのまま伝わってくるような時政からの言葉に、雪椿が微笑を浮かべた。
「あの……もしかして、時政様は書道家なのですか? 」
雪椿におずおずとそう訊かれ、時政が返答に困ったような顔をしながら口を開く。
「そんな高尚なものじゃないよ。これは、むしろもっとややこしい仕事の為のものだから」
そう言ってから、時政は再び筆を取り、短冊状の和紙の上で、墨をたっぷりと含ませた筆を滑らせた。
「……今日は墨の伸びがいまひとつだな」
行書体で綴られた書いたばかりの文字を、やや不満げに眺めながら、時政が呟いた。
不意に気配を感じて、時政は横を見やった。
雪椿がかしずくようにしながら、こちらをじっと見つめていた。
「もう休むように言っただろう? 」
雪椿が告げられた言葉に、黙って首を横に振った。
「私を気遣って下さるのは有り難いのですが、お床入りも出来ず、ずっとこんなことを繰り返して、お努めを果たせないでいるのが、どうしても心苦しくて……」
「貰う物は、最初の夜に全部貰ったつもりだと言っただろう? 僕は君との時間を過ごしたいだけだし、それに肌を重ねて疲れ果てて早々に眠ってしまうより、こうしてそこにいてくれる、今の君を出来るだけ見ていたいんだ」
それでも、自分と似た何処か強情で、けれど気弱なこの目の前の少女が、このまま頑ななまでに、自分の言葉には従ってくれそうにないことを感じ、時政が一旦筆を置き、雪椿の方に身体ごと向き直った。
時政の眼差しに、自然と憂いが浮かぶ。
二人が向かい合い見つめ合ったままの、この座敷の部屋の中は、火鉢を置いていても、体の芯から凍える程、冷え冷えとしていた。
時政が立ち上がり、壁に掛けられていた、自分が着てきた、羽織るだけの丈が短めの外套を手にすると、それをふわりと雪椿の肩に掛けた。
「……」
それから時政はそっと雪椿の白い手の甲に触れ、言い聞かせるように言った。
「せっかく今日は下の寒い張見世に出なくて済むのだから、早く休んでほしいんだ。それが僕の望みだと分かってくれないか? 」
その先に自分の内に浮かんだ言葉に、時政は胸の奥が痛むのを感じた。
―こんなことは言えるわけがない、そう言えるわけがないんだ。
自らの中に、否応なく込み上げてくる気持ちを堪えながら、時政はそう思い続けていた。
「……」
その時、時政が何かを感じて周囲を見回した。
「……どうかされたのですか? 」
「何かが……」
訝しげな表情で、時政がそう言い掛けた時、部屋全体が微小な揺れによって軋んだ。
「地震か……? 」
だが、揺れは直ぐに収まり、何事も無かったように元に戻った。
「ここは土地が痩せているせいか、時々揺れるのです。こんなことが頻繁に……でも何時も直ぐに、今のように収まるのですが……」
雪椿の言葉を聞きながら、時政の顔が考え込むように歪んだ。
「僕は直感を信じる人間だけれど……何だかとても嫌なものを感じたな」
足元に視線を落としながら、時政が口を開く。
「ここには楔になる、要石があるからだとか……」
その意外過ぎる言葉に、時政が思わずまじまじと、自分の傍らの雪椿の顔を見た。
「……」
「実際に見た者は誰もいないのですが、昔から語り継がれてきた、そんな話があると聞いたことが何度かあります。ただの伝承に過ぎぬことだとは思いますが……だから夜毎、その石が啼く為に揺れるのだと……」
※『張見世』とは遊郭で、遊女が往来に面した店先に居並び、格子の内側から自分の姿を見せて客を待つこと。またはその店のことです。(コトバンクより)
※『拝』については「図解日本のしきたりがよく分かる本」(PHP研究所)を参考にさせていただきました。




