風花舞う頃には(第四部開始)
まだ夜が明けきらぬ、朝もやの薄暗い中、一人の男が自分の隣に立つ、少女を見つめていた。
少女の手には店の名が筆書きで記された、大きめの提灯がぶら下げられており、その中では細い蝋燭の灯りが、心許なさそうに揺れていた。
娘は薄い着物を見に付け、裸足に草履を履いただけの寒そうな足で、そっと男の傍らに寄り添っていた。
「……もう、お別れですね」
少女が寂しげな口調でぽつりと言った。
その声に促されるように、横にいるまだ年若い男が、再び少女を見やる。
「……ごめん、何もかもが初めてで、加減の仕方が分からなくて、きつい思いをさせてしまったんじゃないか? 」
悔いるような男の言葉に、少女が上目使いで男を見つめながら、何度も首を横に振った。
徐々に空が白んでくるにつれ、男が心苦しそうに少女を見た。
簡素にまとめ上げられた黒髪と、そのうなじから続く、ほっそりと痩せた、骨の浮き上がった首元が痛々しくすら見えた。
昨夜初めて見た時の姿とは、今のこの朝見る姿はまるで別人のようだ、と若い男は思った。
今の自分とは大して年の差が無いはずの、目の前のこの少女の表情にはまるで生気が無く、顔色はこのまま今にも雪が舞い降りてきそうな、冬の大気の中に溶け込んで消え入りそうな程に、青白い。
時々、足取りがふらついているのが見て取れ、それでもしっかりと少女が自らの意志で、地を踏みしめようとしていることだけが、強く伝わってきた。
―見送りはいらないと言うべきだったな。
若い男は苦く後悔しながら、けれどほんの最後のひと時だけでも、この少女と離れがたく感じてしまう、相反する気持ちのせめぎ合いの中で、そのどちらも選べぬ自分を酷く不甲斐ない、と心の底から思った。
外と隔たれた門の間近までついて来て、少女はその場で立ち止まった。
そうして、そこで男に向かって、深々と一礼する。
顔を上げてから、少女が最後に男の顔を見つめながら訊いた。
「また、私に会いに来てくれますか? 」
凛とした澄んだ少女の声色に、若い男が頷く。
「雪椿……必ず、また来るよ」
若い男は夕べの事を改めて思い出しながら、少女への想いを胸に、切ない眼差しでそう言った。
「……よく考えれば、あの時の朔夜の横槍は、確かに余計だったが、今思い返すと、あれを別に、俺が気にしてやる必要も無かったな」
可愛らしい人形が大量にぶら下げられた、完成したばかりの、吊るし飾りの全体を最後に整えながら、偕人が不意に思い出したように言った。
「えっ……! 」
いきなりの言葉に戸惑うあやめの前で、偕人が至極当然というように更に言う。
「お前、前に俺も大和も、結婚するなら、どっちも絶対嫌だとか言ってただろ? 」
「……な! だから、何でそんな極端な二択なんですか?! 」
あやめが絶句寸前の表情で言った。
ふたりのやりとりを聞きつけて、奥の部屋から大和が顔を覗かせた。
「ん、僕を呼びましたかー? もしかしてー」
「呼んでないから、お前は余計なことは気にせず、向こうで来たるべき正月に向けて、立派な門松を作る為の構想でも練ってろ、な! 」
顔を出してきた大和を、偕人が無理やり部屋の中へと押し戻す。
―歳神様を迎える為の、毎年恒例の煤払い時期も近付いた、師走の初旬の頃。
早めの夕食を済ませた後で、偕人と大和が揃って立ち上がった。
「じゃあ、行くか」
衣紋掛けに掛けられていた、丈の長い、毛羽立った外套を羽織り、偕人と大和が美月家の玄関に立った。
「自警団の当番の夜回りとは、これはまたいい按配に、師走を感じますねー」
「大和にとっては本業みたいなもんだろうが。いいから黙って付き合えよ」
あやめが見送りに出てきて、心配そうに出て行こうとしている二人を見た。
「綿入れを押し入れから出してきますから、羽織っていきますか? それだけじゃ寒いかもしれないし……それとも箪笥から何か出してきて、もっと中に着ていった方が……」
心配そうにあれこれと考えあぐねるあやめの手を、偕人が振り払う。
「いいからもう何も構うな! 子供じゃないんだから、この程度の寒さは、どうってことねーよ! 」
「だって、気になってしまうんだから仕方がないじゃないですか! 今夜も凄く冷え込んでいるし! こんなお正月の直前に、わざわざ風邪をひきたい人なんて誰もいませんから! 」
隙間風が吹き込んでくる、がたつく玄関の横引きのガラス戸を開きながら、あやめが見送りに外へ出ようとしたが、偕人がそれを手で無理やり制止した。
「いいから、お前は家の中にいろ。冷えるのは俺達だけでいい」
偕人からの言葉に、あやめが優しげに微笑んだ。
「身体が温かくなるものを、何か用意して待っていますね」
あやめがそう言った時、その足元からするりと風丸が飛び出してきた。
「何だ、お前、珍しく俺達についてくる気か? 毎回、気まぐれな奴だな」
偕人が面倒臭そうに、風丸に言う。
その時、あやめが偕人の服の下から僅かに覗いた、腕に嵌められた、見覚えの無い、石をくり抜いて作られたと見受けられる腕輪に目を止めた。
「それ……どうしたんですか? 」
「腕輪を持て余していた持ち主から、憲兵団の連中が譲り受けてきたから、使ってみることにした」
「……? 」
偕人の言葉に、不思議そうな顔をしたあやめの前で、風丸を伴って男二人は玄関から外に出た。
玄関の戸が閉まると、男達は互いに申し合わせたように、一旦そこで背後を振り返り、美月家の屋根の上に祀られた、かがり火が焚かれた屋根神の祠に向かって、暫し手を合わせた。
祠の側では、朔夜が三本の足を器用に瓦に引っかけながら、惰眠をむさぼりつつ、うつらうつらとしているのが見える。
「……」
偕人が何か思ったように、腕輪をした右手で、祠に灯されたかがり火が家の塀に形作った、目の前の自分の影に向かって手を伸ばした。
すると、壁をするりと通過した腕が、本来であれば届く筈の無い、屋根の上の八咫烏の足を掴んで、直後に朔夜が影の中から、強引に引きずり出された。
突然のことに、悲痛な烏の鳴き声と共に、周囲に朔夜の黒い羽が、空中に派手に散乱する。
「あー、それ、そうやって、使うものだったんですかー」
傍観していた大和が感心したように平然と言った。
「……ああ、使い方に気が付くまでに毎回時間が掛かるのが難なんだよな。法則が分からんことにはやりようがない」
闇を介して容赦なく引っ張り出された事に衝撃を受けている朔夜を無視して、男二人が腕輪に視線を落としながら会話を続ける。
「?!!! な、なななな、急に何をするんですか?!!! そ、それにその翡翠の腕輪は……! 」
朔夜が偕人に向かって、慌てながら非難混じりに叫ぶ。
「面白かっただろ? 」
朔夜を掴んだままで、偕人が当然のように訊く。
「今の相手の立場を考えない、子供の悪戯のような迷惑行為の、何処が面白いんですか?! 」
「いや、俺達は面白いよ」
「……」
朔夜が実に不満そうな眼差しで沈黙した。
だが、偕人がそれも気にも留めずに、有無を言わさず朔夜を闇鋏へと変えた。
「この先の自警団の集合場所までは、雑魚を蹴散らしながら向かうか」
「新月は毎回面倒ですからねー」
月明かりの無い、朔の空を仰ぎながら大和が応えた時、不意に強い北西の風が、二人の斜め後ろから、強烈に吹き付けてきた。
同時に、二人が身に付けた外套が大きく煽られながらはためく。
「野盗集団のような憲兵団も、時には有用な時もあるらしいな」
腕輪を改めて眺めつつ、強風に攫われそうになる髪を、鬱陶しげに抑えながら偕人が言った。
「人伝で怪異的な話は、直ぐに広まりますからねー。おかしな事象が出ると、持ち主の本心としては気味が悪くて手放したくて仕方ないんでしょうけど、放棄してしまったら最後、何か自分自身に障りが出て、祟られるのではないかと恐れていますしー」
大和はそこで一旦言葉を区切り、風で乱れた外套の襟を直しながら、再び言葉を続けた。
「そこで僕らが陸軍の名のもとに回収してあげれば、大概、相手からは手放しで感謝されますよー。幸い蔵のある古い家はここらにはまだまだ多いようですから、また何処かで何かが新たに出るようなら持ってきますよー」
何時もお読み下さりありがとうございます。
今回の冒頭のエピソードの意味については、今後次第に詳細が明かされていきます。
2月21日にこのシリーズの初めての番外編を掲載しました。
作品一覧にありますので、もし宜しければそちらもご覧いただけたらと思います。
※衣紋掛けとは、ハンガーの古い呼び名です。




