それはきっと思ってはいけないこと
―きっかけは数日前。
「最近、織姫先生の話しないよね? 前は『少女のゆめ』が発売される度に、あんなに毎日のようにしてたのに」
授業終了後、女学校の教室内で、使い込んだ風呂敷で教科書を包みながら、あやめが下校準備を始めようとしていた時だった。
少し離れた席の級友の桐生咲子が、何時もと同じ、軽い調子で声を掛けてきた。
あやめが顔に濃い陰を作りながら、視線を落として呟く。
「……うん、本人にだいぶ前に夢を壊されたから」
その表情への陰影の付き具合と、今すぐにでも俗世から解脱していきそうな黄昏ぶりに、ただならぬものを感じ取った咲子が半歩下がりながら、言葉に詰まる。
「えっ、本人に夢……?! あっ、ううん、何でもないから、私がさっき言ったことはもう忘れて! そういえば、月城先生とまた一緒に住むようになったんでしょ? 」
咲子は自分が持ち出した会話の方向性を変えようとした。
突然語られた偕人の名に、周囲で帰り支度をしていた、級友達の視線が一気にあやめと咲子に集中した。
当のあやめにとっては、話題そのものがさっきまでの織姫の話とは、何ら大差がなく、更に偕人の名が持ち出された事で、余計に顔が曇る。
「その話はちょっと……」
そんなあやめの反応は、相変わらず一切、顧みられることはなく、偕人が勤務していたあの頃と変わらず、女生徒達が再び色めきだった噂話を始める。
偕人がこの女学校の教職を退いてから、もうかなりの時間が経過したのにも関わらず、相変わらずその影響力が軽視出来ない程のものだというのがよく窺えた。
あやめは内心げんなりしながら、一度だけその級友達の集まった集団を見やったものの、勿論自ら話には加わろうとはしない。
「ねえ、もし月城先生から望まれて、正式に結婚のお願いがあったら、あやめはどうするの? 」
不意の咲子からの言葉に、あやめは質問の主の、感性を疑うような衝撃的な顔をした。
「……な、な、何で急にそんな質問を? 」
「有り得ないわけじゃないと思うけどなー何となくー。一旦出て行ったのに、戻ってきたのは、どう考えてもあやめの家が、居心地が良かったからでしょ? たまにそういうご縁がきっかけで、って話も聞くし」
「……違うと思う。それにうちに居着いてる男の人なら、他にもいるし」
あやめは作り笑いで、曖昧に流しながら、そう言った。
「……すればいいじゃない」
戸惑うあやめの前で、咲子が急に真顔になった。
「え……な、何を? 」
「結婚すればいいじゃない。あんな凄い人、中々いないし。そうなれば友達として、私も自慢になるから」
勝手知ったる咲子からの言葉の羅列に、あやめは危うく眩暈を覚えかけた。
「なっ、何の根拠も無いのに、無責任に話を進めないで! だから、そんな事はあり得ないんだから! 」
あやめが慄きながら、何とか事を収めようとしたが、咲子からの言葉は更に続いた。
「……根拠、無いかなぁ? 月城先生が学校を辞められてから、明らかに元気が無かったように見えたけど? 」
「それはただの思い込みだよ! それに今まで居た人が、何も言わずにいなくなったら誰でも気になるから! 」
「……で、何で不自然なくらいに、過剰反応してるの? 」
「し、してないって……! 誰でもそんなこと言われたら驚くよ! 大体、どうして私だけにそんなことを言うの?! 」
「だって、憧れるじゃない。恋愛結婚に! 憧れてる人は多いのに、実際にする人は少ないしー」
「勝手に私を、夢と希望の投影対象にしないで! 」
「いいじゃない、想像するくらい。面白いし」
「面白いって何が?! 」
咲子からの言葉に、あやめは危うく思考停止しかけた。
それからあやめは酷く居心地が悪そうな表情で、一瞬言いにくそうに迷った後で、思い切って再び口を開く。
「期待を裏切るかもしれないけど……私、前に月城……先生のお見合い写真、見たよ? 」
「え?!! 何時?! 」
「少し前……その時は全部断ってたけど、相手の人達は皆、凄くお金持ちそうな、品の良さそうな方ばかりだったよ。だからとても私じゃ釣り合わないし……それに、他の人では誰にも代われない、特別な仕事をしなきゃいけない人だったから」
「……」
「その為に、何時かまた急に、遠い何処かに行ってしまう気がするから」
だからそんなことは、最初から思ってはいけない気がするんだ、とあやめは微かに伏し目がちにそう言った。




