これが全力
―翌朝。
この日は何人かの人間にとっては、とにかく色々と最低な朝だった。
寝床から起き出してきたばかりの、まだ眠気が覚めやらぬ颯弥は、居間に入るなり、『その光景』と場に漂う異様な空気に気圧され、即座に眠気が吹き飛んだ上に、硬直して足を止めた。
「……それ、ず、随分増えたんだな? 何だか凄い数じゃないか」
「え? 何のことですか? 兄様? 」
豆腐の味噌汁をすする椀を傾けた手の止め、あやめが平然と言った。
「い、いや。何でもない、多分俺は目が悪くなったんだろう。そう思うことにしておくよ。深く考えない方がよさそうだしな! 」
颯弥は無理やり軽快さを装ってそう言ったきり、最近身に着け始めた『波風立てずに場を済ます回避能力』を最大限に駆使して、お櫃からご飯を茶碗に自らよそうと、黙り込んだまま食事をかっ込むことに決めた。
その時、続いて居間に面した廊下から偕人が入ってこようとしたが、先程の颯弥と全く同じに、部屋の中の光景に足を止めると、その場で思わず立ちすくんだ。
あやめが偕人の姿を目にして、まるである種の見てはならぬものを見たような人間の顔をして、露骨に目を逸らす。
偕人はあやめからの無言の拒絶の意思表示にいたく傷ついたらしく、青ざめながらも口を開いた。
「……な、何だよ。あやめ。狼達を壁のように、両側にそんなにたくさん並べて……何も、俺をそんな目で見なくてもいいだろ? 」
「……」
言葉と視線を返してこないあやめに代わって、半ば居間を占有したに等しい、狼達の一団が偕人の方に凍てつく鋭い眼差しを向けた。
「昨日のあれは単なる事故みたいなもので誤解だって言ってるだろ! 」
「私だって信じたくなかったんです。でも、その動揺ぶりって……言われたくないことを言い当てられてたからですよね……? 」
「だから違うって言ってんだろうがあああ!!!! 」
偕人は真っ青になりながら、奥で幸せそうに普段通りに沢庵を食んでいる大和に向かって叫ぶ。
「大体どうして、下敷きになっていた側の、俺だけがこの扱いで、大和は無罪放免なんだ?! どう考えてもおかしいだろ! あやめ、俺のことをそんな風に見るな……! 」
偕人が強引にあやめの腕を掴もうとしたが、狼達がそれを遮るように割って入り、疾風のごとくに偕人の膝に体当たりしてすっころばせた。
そして他の残った狼が、前のめりに倒れた偕人の身体を次々に踏みつけて足跡だらけにした。
その光景を横目で黙って見ていた大和が、堪えきれずに危うくお茶を噴きかけた。
「……本当に誤解なんですか? 」
狼達に踏みつけられ下敷きになったままの、偕人の側に跪いて、あやめが恐る恐る訊く。
「だからそうだって言ってるだろ! 早く狼達を何とかしろ! 俺には男とどうこうするような趣味はねーよ! 」
狼達の下敷きになったままで、偕人が叫んだ。
「くそ、何で俺だけが何故こうも毎回、徹底的に差別されるんだ! 今は四民平等の時代じゃないのか?! 納得いかねえ! このまま甘んじていられるか! 不当な弾圧に対しては徹底的に抵抗してやるからな! 」
出勤後、偕人が役所の古びた机を、拳で強く叩きながら叫んだ。
「思うに、あなたがやると、僕と違って、冗談に見えなくなるからじゃないですかー? 」
大和の言葉に、偕人が即座に頭を抱え込みながら唸る。
「元はと言えば、最初から全部、大和のせいだろうが! 毎回、無駄に話を大きくしやがって! 今度こそきっちり責任とれよ! 」
怒り心頭な偕人からの言葉に、大和が何時も通りの笑顔で顔を突き出してきて言った。
「じゃあ、いっそ、暫く既成事実的に僕と付き合ってみますかー? 後悔させないくらいには、優しくしますよー」
偕人が大和からの俄かには信じ難い言葉に眼を見開いて、腰を引きながら、慄きつつ応える。
「……お前、正気か? 」
猛吹雪の中に薄着で放り出された人間のような顔で、偕人が言う。
「責任とれって言ったのは偕人じゃないですかー? やだなあ、だからお望み通りに、今度こそ、責任もってきっちりしようかとー」
「待て! 俺が言った、責任はそういう意味じゃねえ! 俺におぞましい想像をさせるなあああ! 」
「えーさっき自分でそうしろって言ったくせにー」
「言ってねえ! 」
「まあ、提案してる側の僕も正直言ってものすごく嫌なんですけど、無理すればぎりぎりいけるかなーって」
「ぎりぎりって、それは一体、何の尺度で何処をどう測った基準なんだ?! 」
大和の言葉に、偕人が真っ青になって叫ぶ。
「大体、大和は、何時もあてにならないような働きぶりしかしないくせに、何で今日だけは急に律儀に俺の言葉を守ろうとするんだ、おかしいだろ?! そのやる気をもっと他で使えよ! 」
「えー、だってたまにしか、その気になれないんだから仕方がないじゃないですかー」
「……ふざけんなよ」
偕人が振り上げた拳を、大和が易々と受け止める。
「前から思っていたが、大和……お前とは一度本気でやり合う必要があるらしいな」
眉間に青筋を浮かべたまま、偕人が低く言う。
「やめておけばいいのにー。でもやるなら僕も引きませんけどねー」
大和が笑顔でそう言いながら、一歩引きつつ、迷わず帯刀したサーベルの柄に手を掛ける。
それを目の当たりにして、見る間に偕人の顔から血の気が失せていく。
「おい、冗談だろ……? 何でサーベル(それ)なんだ? やるなら普通は素手だろ? 」
「そりゃあ、僕は常に全力、が座右の銘なのでー。半端なことは嫌いなんですよー。やるからにはこのくらいは、まあ当然かとー」
「丸腰の人間相手に、室内でいきなり真剣を抜くのがお前の言う全力か?! どう見てもただ卑怯なだけじゃねえか! 」
「問題ありませんよー。僕は古式ゆかしい、崇高な武士道精神からは、最もかけ離れた位置に立つ男ですからー」
「……」
大和が引き抜いたサーベルを笑顔で構える。
偕人が冷や汗をだらだらと流しながら諭す。
「待て、落ち着け! 話せば分かる! 」
偕人の言葉を無視して、次の瞬間、サーベルからの斬撃が空を斬った。
と、同時に斬撃がかすめた偕人の髪の一房がはらりと床に落ちた。
偕人が腰を抜かしそうになりながら叫ぶ。
「お前、今、一瞬本気で俺を斬るつもりだっただろ?!!!! 」
偕人からの激しく責め立てる言葉に、大和が笑顔で照れたように髪を掻き上げながら悪びれもせずに口を開く。
「えー人聞き悪いですよー。そんなわけないじゃないですかー」
偕人が精神的な圧迫から解放された反動で、白目を剥いて昏倒した。




