後悔と苦い言葉
「その姿……!? どうしたんですか? 」
借り物の人力車を、秋祭りの神社前に完全に無人にしたまま放置するわけにもいかず、独り置いてきぼりにされていたあやめが、飴の飛沫が身体中にべっとりと付いたままで戻ってきた二人の男の姿に、即座に驚いた声を上げた。
偕人と大和は揃って苦笑いしながら、二人の背後から尻尾を振ってついてきた風丸に一旦は何か言いたげに目をやったが、それ以上は特に何か言うことはせず、曖昧に流すことを選んだ。
「……いい、もう何も聞くな。どうせ、後で風呂で流せば落ちる」
「何だか甘くて凄くいい匂いがしますね……まるで美味しいお菓子みたいな」
香料が混ぜられた芳醇な甘い飴の香りに誘われたあやめが嬉しげに、そっと偕人に近付いてくる。
「言っておくが、それ以上は余り近付かない方がいいぞ、この通り冗談じゃなく本当に飴だらけだからな。その姿で汚れたくはないだろ? それともそんなに甘いものが好きなら、いっそ舐めてみるか? 俺の指を」
偕人が飴だらけになった指を差し出して、唐突に言った。
あやめが告げられた言葉に対して、思わず赤面する。
「も、もう! 偕人さん、急に何言ってるんですか?! そういう最低なのは酔っぱらってる時だけにして下さい! 何て言ったらいいか分からなくなるじゃないですか?! 」
上ずった声で、あやめが頬を染めたまま猛抗議した。
「……だったら、いいから早く人力車に乗れ! 帰るぞ! 」
ぶっきらぼうにそう言った偕人の背中に、大和がぼそりと呟く。
「慣れない趣味の悪い冗談を、自ら言い出しておいて、何、言った本人が何一番動揺して後悔してるんですかー? 顔どころか耳まで真っ赤ですけどー。だからやってられなくなるんですけどねー僕は」
「……結局、管狐は菊乃に横取りされた上に、ろくなことにならなかったな」
銭湯で全身に浴びた水飴をようやく完全に洗い流し、熱めの湯で満たされた湯船に、思う存分浸かった後、この銭湯の二階にある休憩所として解放された畳の部屋の中で、偕人がうんざりしたように言った。
「まあ、女狐と狐で、あいつらは存外似合いかもしれんが」
そう言った偕人に大和がすかさず言葉を返す。
「偕人は一度くらい、あの孔雀の扇子で、一思いに刺された方がいいんじゃないですかー? 一回くらい本気で殺られた方がいいと思いますよー」
少し離れた場所で壁にもたれ、片膝をついた姿勢の大和が冷めた目で言った。
美月家から程近くにある、高い煙突がよく目立つこの銭湯は、この二人にとっては既に馴染みだが、今日は普段と比べて他の客の姿が見えない。
それもあって、ある種の開放感を感じながら、瓶の牛乳を一気に飲みほした後で、偕人は日に焼けた古びた畳の床にごろりと寝転がった。
障子が開け放たれた窓からは、心地よい風が微かに流れてくる。
「……少し、長湯し過ぎたな」
偕人がぼんやりと天井を見上げながら言った。
のぼせて身体中が紅潮したような温度が下がらぬままでは、思考も何処となく曖昧になってくる。
「なあ、大和……」
「……何ですかー? 今日はもう面倒な話はやめて下さいよー。昼間、散々な目に遭ったばかりなのにー」
「……今後、俺に何かあっても、お前は盾になるようなことは考えるな。その時は迷うことなく俺を切り捨てろ」
「……」
「だが、それ以前に……」
偕人が身に着けた浴衣の内側に隠していた、ひしゃげかけた黄色い小さな紙の箱を取り出した。
「お前はまだこんなことを続けていたのか? 睡眠薬で死を請うようなことはするなと言っただろう! 」
「何だ、気が付いてたんですかー。てっきり、さっきの下の脱衣所で手癖の悪い人にでも取られたのかと思っていましたよー。別に睡眠薬くらいで、いちいち目くじら立てて問題視しなくてもー」
大和からの全くやる気のなさそうな返答に、偕人は忌々しげに身を起こした。
それから浴衣姿の大和の胸倉に掴み掛った。
「こんなものを常時持ち歩いているような人間を見過ごせるか! 」
「それは前からの癖で、何となくまだ手放せないだけですからー。やめようとは思ってましたけどねー。でもこうでもしていないと時々、正気が保てなくなりそうでー」
そこまで言って、大和は半眼を伏せながら一旦言葉を区切り、更に続けた。
「もっとも前より身体が薬に慣れ過ぎて、効きも悪くなってしまったしーそろそろ潮時かとは思ってましたよー。だからほっといて下さいよ、もう。この前のような無様なことは起こしませんからー」
偕人が鋭い眼差しで、大和を睨み付ける。
「……」
その時、偕人に掴まれ見据えられながらも、視線を逸らしたままだった、大和がようやく正面に向き直り、視線を上げた。
「化け物を斬り過ぎた薬物中毒まがいな身体でも、僕は強いんですよ? そのことを忘れてませんかー? 」
瞬間的に、大和は偕人の腕を捻ると、その身体を畳の床に、易々(やすやす)と一気に捻じ伏せた。
そのままのしかかったような姿のまま、大和が人畜無害で温厚そうな笑顔を崩さずに、声だけを低くして口を開く。
「ほら、その気になれば、簡単に形勢逆転だしー」
「俺の上から、早くどけ! 」
「だったら、僕からも言わせてもらいますが、偕人こそ、とっとと早くあやめさんと添い遂げてしまったらどうなんですかー? てっとり早くいっそ強引にこんな風にしたりしてー」
「俺にはそのつもりはないと言ったはずだ! その話はもうやめろ! 」
「……隙だらけの振りをして、ごまかし続けることが出来なくなりそうだから、偕人に忠告しているんですけどねー僕は」
「はあ? 何のことだ? 」
「別に……偕人はずっと分からなくていいですよー」
大和が視線を逸らしつつ、苦い表情で言った。
丁度その時、男二人からは少し遅れて、風呂から上がったばかりの湯上りのあやめが、二階へと続く階段を上りきり、笑顔で和室の入り口に足を踏み入れたところだった。
「偕人さん、大和さん、お待たせしてしまって……」
洗い髪を軽くまとめ、頬を上気させ、濡れた手拭いと小さな桶を手にした姿で、そう言い掛けたあやめが部屋の中の男二人の姿を目にして、硬直して立ち止まる。
そして次の瞬間、あやめは紙を引き裂くような悲鳴を上げながら、廊下を駆け下り、番台の横を通り抜けると、脇目も振らずに外に飛び出していった。
「……い、今、何か恐ろしく方向性が狂った誤解をしなかったか、あいつ」
「ですねー。まあ、たった一日で多額の借金を背負った上に、更に自分の想い人から男色の疑いまで向けられる、破滅的な突き抜け具合が出来るのは、多分、偕人をおいては他にいないでしょうねー」
大和からの冷めた言葉に、偕人が絶句する。
その時、開きっぱなしになっていた窓から、黒い翼を広げた朔夜が、酷く気難しそうな顔で入ってきた。
「ついさっき、あやめさんが何かとてつもなく恐ろしいものを見たような顔で、物凄い勢いで走り去っていきましたけど、何があったのか知っていますか? まさかまた、偕人が何か救いようがないほどに無礼な真似を……? 」
朔夜は当然のように、偕人に疑いの眼差しを向けた。
「だから俺のせいじゃねーよ! さっきのはただの誤解だ! 」
唖然とした偕人の背後から、心底哀れそうな眼差しで大和が近付いてきて、その肩に手を置いて口を開いた。
「余りに気の毒過ぎるから、僕が帰りにそこの店で、金平糖かラムネでも買ってあげましょうか? 気休めに」
「いらねえよ、馬鹿! 誰のせいでこんなことになったと思ってんだ、お前は! 」




