そこは急所です
潜伏先だった稲荷社を飛び出した後、縦横無尽に街の中を駆け続ける管狐の後を、憲兵団が怒涛の勢いで、大挙して追いかけるさまを前に、最後尾で追走する偕人はげんなりしながら青ざめていた。
「お前、どうするつもりだ。こんなことを続けると人目に付きすぎるぞ。前回の詰所の時のようには、ごまかしがきかんと思うが? 」
「んー、まあなるようになるかなーと」
「……本当に適当な奴だな」
前には立ち並ぶ家々の古びた瓦屋根の一部を時々壊しながら、駆けていく管狐の姿が見えていた。
互いの距離としては大したことは無いが、だが、本来の身軽さから高低差を無視して動く対象の捕獲は、現実問題としては容易ではない。
大和が手を挙げて合図を送ると、憲兵団が素早く三方に散った。
「たまに隙だらけのふりでもしていないと、やっていられないんですよー僕も。まあ、ここまで捕まえられないのは、流石に予想はしてませんでしたけどねー」
サーベルに手をやりながら、大和が言った。
「……お前、それは言い訳のつもりなのか? 」
偕人がげんなりしながら言う。
「じゃあ、ここらで本気を出してみますか! 」
「お前今まで本気じゃなかったのか?! 」
「管狐の能力を見極めてたんですよー。それにむやみやたらと市街地を壊されても困りますしねー。それに僕らじゃ近接戦には向いていますけど、逃げ続ける相手には、やっぱり色々と不利で厄介ですねー」
「あれ、偕人さん達ですよね、今の……? 」
大通り沿いに立つ、洒落た真新しいカフェーから出てきたばかりのあやめが憲兵団の男達に混じった偕人や、大和らしい人物の背中を目にしてそう言った。
「どうやらそのようですわね」
あやめの背後から進み出てきた菊乃が言う。
菊乃はあやめが最初に会った時以上に、今日はまた一段と豪奢な装いで、光り輝く紅玉のペンダントを首に掛け、両耳には重たげなアンティークのイヤリングをして、指には大きな金剛石が嵌め(は)込まれた、蔦の葉模様の指輪をはめていた。
「あやめさん、十中八九あれは見ない方がいい者達ですわ」
「……? 」
「関わったら最後、と、わたくしの中の冴えわたる直感が教えていますもの。さあ、あの者達のことは気が付かなかったことにして、中でお茶の続きに致しましょう」
首や腕を貴金属や宝飾品で飾り、コルセットできつく腰を締め上げたドレス姿のあやめは、菊乃に促されるまま、偕人達から背を向けようとした。
―うーん、何だか今回は菊乃さんの言葉が当たってるような気がするな……。
あやめがそう思い掛けた矢先だった。
偕人が何気なく周囲に目をやった瞬間、そこに立つあやめに気が付き、真っ先に声を上げた。
「あやめ! お前、なんでこんなところに! しかも、またその悪趣味な菊乃の着せ替え人形みたいな姿は何だ! 」
「菊乃さん……すみません。……どうやら物凄く見つからない方がいい筈の人に見つかりました」
あやめが顔色を失くしながら言った。
駆け寄ってきた偕人の前に、菊乃がずいと出てきて口を開く。
「あら、ごきげんよう、また会いましたわね、わたくしの弟」
至上の笑みを浮かべた菊乃に対し、偕人は天敵にでも遭遇したかのように即座に青ざめる。
「姉上……何故、あなたがこんなところに? しかも、またそんな姿で出歩いて、一族の中で評判が地に落ちている俺への風当たりを更に強くして、とどめを刺すおつもりですか? 」
偕人が努めて冷静さを装いながら言う。
「あら、出かけるのならこれくらい普通ですわよ? お前も着てみれば直ぐに、この素晴らしさが分かるはずですわ」
「……俺には女装の趣味はありませんから、分かりたくもありません。それに、そのどこぞの宮廷貴族のような御姿は、あやめはともかく、年齢的に振袖ですら、袖を通すのが憚られるであろう姉上には少し無理が……」
偕人が言葉を最後まで言い終える前に、その鳩尾に、微笑をたたえた菊乃が瞬殺的に、幾度か拳を叩き込んだ。
「あら、おかしいですわ。今、耳の中に、何か余計な雑音のような……そう、空耳が入ったようですわね? 何だったのかしら、大和? 」
白目を剥き、『俺は悪くない』という辞世の句だけを残して、砂の上に前のめりに突っ伏した偕人を前に、青ざめた大和がしゃがんで、横からその顔を覗きこみながら苦笑いした。
「だから、そこまで身体を張るのはやめた方がいいと、僕が何度言えばー。ああ、瞳孔がこんなに開いてー。もう手遅れかなー」
大和の言葉の直後に、偕人が真っ青な顔で、立ち上がりざまに再び叫ぶ。
「俺は菊乃に身内として、ありのままの事実を指摘してやっただけだろ! 」
今度は菊乃の手にしていた、鋭い孔雀の羽付きの扇子の先端が、偕人の喉を突いた。
が、実際には青い顔の大和が瞬時に、サーベルを引き抜いて、それを寸前で食い止めた。
「……菊乃様、このように男を庇うのは、僕の信条には大いに反しますが……どうかお収め下さい。そこは急所です。やれば、偕人が本当に逝ってしまいます」
だが、避けきれぬ衝撃波自体はそのまま標的だった当人に直撃したらしく、今わの際の言葉を残し、偕人が再びのけ反りながら昏倒した。
「……偕人さん達は、どうしてこんなところにいたんですか? 今日は憲兵団の方々と一緒に仕事なんですか? 」
その時、それまで傍観一辺倒だったあやめが、不意にそう訊いた。
唐突に掛けられた言葉に、再び立ち上がりかけていた偕人が思わず言葉に詰まる。
「いや、それはだな……」
言葉を濁す偕人を前にして、菊乃の眼が光った。
「お前、類い稀なる千里眼を身につけた、わたくしに何か見通されるのが怖くて黙っていますのね? 」
「……違います。だから、何故そう決めつける事が出来るんですか。ありもしないでっちあげた能力を理由にして、人に疑いの目を向けるのはおやめ下さい。今日は他に急ぎの所用がありますので、俺達はこれで」
偕人がげんなりしながら応える。
それから偕人は大和に目配せし、そそくさと立ち去りかけた二人の男の背中に菊乃が言った。
「お待ちなさい」
その言葉に、男二人がぴたりと足を止め、振り返る。
菊乃は最初に暫く実弟をじっと見つめた後、それから大和の方を見やって口を開く。
「そうして不自然にお前達ふたりが揃っているところを見るに、関わっても一文の得にもならないとは思っていましたけど……やはりお前達、わたくしに何か隠していますわね? 」
「隠しごとなど別に何も、言いがかりはやめていただきた……」
偕人がそう平静さを装いながら言い掛けた時、通りの向こう側から突如噴煙と爆音が上がり、直後に商店と思われた建物の何棟かが、あっけなく崩れ落ちていくのが見えた。
通りを歩いていた人々が、騒然とした中で何事かと一斉にわらわらと集まってくるのが見えた。
偕人と大和は目を見開いて硬直し、その衝撃的な光景に思わず釘付けになった。
もはや言い逃れが出来なくなった危機的な状況を前に、偕人と大和のふたりが別々の方向に目をやりながら、言葉を失ったまま、揃ってため息をつきながら青ざめる。
「……小さい割に、奴は意外と凶暴で破壊的らしいな。一番まずい形で市街地を破壊し始めたぞ、大和」
偕人が片手で顔を覆い、ばつが悪そうに呟いた。
「察するに、お前達、また何かやらかしましたわね? 」
「今回は俺は関係ねーよ! 元はと言えば、大和が……って大和、他人のふりしながら目を逸らすんじゃねえええ! 」
偕人が眼を剥いて、傍らの大和の軍装の襟元をぐいぐいと締め上げる。
その時、柴犬の成犬くらいの大きさの獣がこちらへ猛烈な勢いで駆け寄ってこようとするのを、あやめは見た。
「……! 」
依然、その口には、しっかりと白金で出来た、あの睡蓮の証を咥えている。
「な、何ですか、あれは?! 」
「ああ、お前には言ってなかったがこの前、収蔵庫の窓を破って逃げた、管狐だ。ここのところあいつを探していたんだが、まあ何と言うか、色々あってこうなった」
「そうなんですよー。何処を探しても見つからなくてー」
「どうして、逃げたのに今は、まっしぐらにこっちへ来ようとしているんですか?! 」
「ああ、奴は、光り物に目が無くてな。で、俺が推察するところ……奴の目当てはおそらく……」
偕人が着飾った菊乃とあやめを頭の先からつま先までを、黙って見つめた。
「罪なき民を巻き込んだ上、わたくしのこの大切な装いまでもが汚れようものなら、どういうことになるか分かっていますわよね、お前達? 」
慈愛に満ちた笑みを浮かべた菊乃からの言葉に、偕人と大和は互いに顔を見合わせた。
「どうやら状況は銃殺刑より、遥かに最悪な方向へ向かっているようだが、どうする大和? 」
「僕も今それを言おうと思っていたところなんですよー奇遇ですねー。管狐を引っ張り出したのは、元々は古書物保存課の失態なんですから、連帯責任ですよねー。まあ、どうなっても地獄の沙汰まででも、偕人も逃げないで下さいよー。どんな情け容赦ない地の果てでも、一人で行かされるよりは、幾らかはマシですからねー」
「たまにはお前と意見が合うこともあるらしいな。今、お前にそっくり同じ言葉を返してやりたいと思っていたんだ、俺からもな」
「……」
ふたりは物騒な会話の内容とは乖離した、現実逃避した笑顔で、暫く和やかに見つめ合った後、急に我に返った瞬間、真っ青になって鬼を見たかのような恐怖に満ちた表情で、両名共に一気に別々の方向に向かって駆け出した。
「早く責任持って、大和が管狐を止めろ! 管狐を捕まえる以前に、俺達が管狐に間接的に殺されるだろうが!! 逃げたきゃ他に行けよ、管狐えええ!!!! 」




