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想いは伝えられず(第三部開始)

 ―あやめの土埃で汚れた頬に、涙が伝い落ちていく。

「大和さん……」

 あやめが発した(かす)れかけた呼び声に、大和が表情を(やわ)らげる。

「あなたが僕を戻してくれた。だからもう何も怖がらなくていい。もうそんなことはさせない」

 あやめが告げられた言葉に頬を染め、大きく(うなづ)きながら駆け寄り、大和が腕を開き、それを優しく受け止めた。

 そして見つめ合った二人の身体がゆっくりと重なっていき―。



「とかいう、(きわ)どい最低な夢でも見たとか? でもそんな心配は杞憂(きゆう)なんですけどねー」

 いきなりの大和からの言葉に、油断していた偕人が横で盛大に麦飯を噴いた。

「はあ?! 朝からお前の中の勝手な妄想を話すのも大概(たいがい)にしろ! たまには聞く側の人の迷惑を考えたらどうだ! 」


 普段通りの美月家の居間の、朝食時の風景だ。

 今日の献立はとろろ芋のかかった麦飯と付け合わせの沢庵(たくあん)と、焼き魚と、昨日の晩御飯の残りの根菜の煮物が、温かな湯気を立ち昇らせながら、食卓には並んでいる。


「最近、悩んでるみたいじゃないですかー。だからてっきり理由が僕には言えないようなことなのかとー。態度の割には、何時も言われたことを人一倍気にするしー」

 だからそう思ったんですよー、と、ほぐした焼き魚のサバの身を箸ではさみながら、大和が笑顔で言った。

「……年中、女の事しか頭に無いような、最低なお前と一緒にされてたまるか! 」


 偕人が顔をしかめながら、ちゃぶ台の脇に置いたままのネクタイに手を伸ばす。

 それから、くるくると巻き込みながら、手際よくシャツの襟元(えりもと)でしめた。

「上手くなりましたねー」

「そうですね。偕人さんは見て盗む人みたいだから、器用なんですよね。すっかり洋装も着慣れてしまったし」

 丁度その時、袴姿のあやめが入ってきて、同じく感心したように言う。

「服飾は俺の仕事の一部だからな。こんなもんは別に大差ねえよ」

 背広の上着を羽織りながら、平然と偕人が言う。


 あやめの兄の美月颯也は少し離れた場所から、周囲とはなるべく眼を合わさぬように、黙々とひたすら無心で麦飯を()き込んでいた。

 前回の酒癖の悪い偕人との、えげつない一件で余程、()りたのか、最近では偕人ともう一人の憲兵については、この場に最初からいないものとして扱うことに心に決めたらしかった。

 縁側と庭を挟んだ塀の向こうからは、毎日夜明け前には確実に活動を始める、近所に住まう、トシをはじめとする何人かの老女達が嬉々として覗き込んでいた。


 その時、あやめがじっと見てくるのに気が付き、偕人が戸惑いながら()いた。

「何だ? また、何か言いたいことでもあるのか? 」

「いえ、(しゃべ)らなければいい人なのになー、と思って」

「はあ?! 」

「喋らなければ、偕人さんは活動写真かつどうしゃしんにも出られそうなのに、喋ると壊滅的に印象が悪くなるというか、だから何というか余計に無念さが募ってしまって……何処をどう間違えてそうなってしまったんでしょうね」

 ため息混じりにあやめが言う。

「言っとくが、俺は自分の顔なんざ好きじゃねーぞ? 食っても昔から太れねえし、華奢(きゃしゃ)なのは、男にとっては別に何の得も無いしな」


「じゃあ、もしかして僕みたいになりたいとかー? 」

 瞬間的に、偕人が(こぶし)で壁の柱を殴った。

「……」

「……大和、今、何か言ったか? 聞き逃したんだが」

 偕人からの冷淡な問い掛けに、大和が青ざめて首を横に振った。







「……全く、気に入らねえ! 」

 革鞄を脇に抱え、家を出て、革靴の足で勤め先の役所に向かって足早に歩きながら、偕人が悪態をついていた。

 背後から飛んできて、その頭に乗ってきた朔夜が訊く。

「どうしたんですか? 今日も朝からやたらと血圧が高そうですねえ」

「何で夕べ俺が見た夢を、大和(あいつ)に言い当てられなきゃならないんだよ! おかしいだろ! 」

 偕人のその言葉を聞いた瞬間、朔夜が盛大に噴き出した。


「お前、何笑ってんだよ!! 」

偕人(あなた)は、おかしいのが今の自分だということに対して自覚が無いんですか? 」

「はあ?! 」

 偕人が朔夜の足の一本を無理やりに引っ張り、自分の顔の前に引きずり下ろした。

「俺がおかしいとか、どうしてそうなるんだよ! どんな理屈だ! 」

「……」

「その哀れなものを見るかのような眼差しはやめろ! ってか、自分から訊いておいて急に黙るのはよせ! 」

「大和さんに嫉妬(しっと)ですか? 」

 瞬間的に偕人が面食らったように硬直して、その場に立ち止まった。


「は……? 今、何て? 」

「だから、嫉妬してるんでしょう、大和さんに。あやめさんのことで」

 念を押すように朔夜に言われ、偕人がたちまちのうちに赤面する。

「し、嫉妬?! ちょっと待て! 」


 あからさまに狼狽する偕人を尻目に、朔夜がため息混じりに言った。

「あなたぐらい、外見と内面が伴わない人も他にいないですよねえ。単に傍観(ぼうかん)しているだけなら面白いんですけどねえ……直接関わらなければ」

 そう言った朔夜を乱暴に放り出し、偕人は真っ赤になったまま、口をへの字に結んで、再びすたすたと歩き始めた。

「あれ、何も言い返してこないんですか? 」

 態勢を立て直し、再び頭の上に乗っかろうとしてきた朔夜を払いのけながら、偕人が叫んだ。

「いいから、お前は黙ってろよ! 」

「恋情というのは、神にも人にとっても、何時の世でも得てして厄介なものですけど、たまには素直になったらどうなんですか? 」

 朔夜の言葉を無視して、偕人は仏頂面のまま地を蹴って走り出す。

 その背中に向かって、朔夜が早口で更に続けた。

「伝えない理由が、自分が兄弟のように何時死ぬかもしれない身だと自覚しているせいなのなら、尚更ちゃんと想いを伝えておかなければ、後で後悔することになるかもしれませんよ! 」


「うるさいな! もう俺についてくるな! 俺は大和(あいつ)みたいには出来ないんだから仕方ないだろ! 」

 朔夜はやれやれと言わんばかりに、付近の民家に植えられ、紅いたくさんの花を咲かせた山茶花(サザンカ)の生け垣の上に下りると、そのまま逃げるように遠ざかっていく偕人の後ろ姿を見送った。




活動写真は明治・大正期における映画の呼称です。(wikipediaより)

実際の大正期はまだ蝶ネクタイ+立ち(えり)のシャツ(スタンドカラ―とも言う)が主流だったようですが、この小説の中では作者の趣味により、現代と同じネクタイのイメージで書いています。

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