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泥酔して抱きつき耳元で囁くとかやめてください!

 その晩、家族が揃って夕食を終えた居間では、あやめの父と偕人が晩酌をしていた。

 しかも聞くに堪えないような大声でふたりで騒いでいる。

 おかげであやめの怒りは、もはや頂点に達しかかっていた。

「お父様もお酒を呑む相手がいるのが珍しいからって、どうしてあんな人を……」

 こめかみが痙攣しまくるのを抑え、あやめは苛々しながら襖越しに、ちらっと居間の方を見やった。

 狭い家の中なので音が筒抜けなのだ。


 このまま夜半過ぎまで騒がれたら幾らなんでも近所迷惑ではないか。

 そう思い、あやめは思い切って立ち上がった。

 ―兄様もお母様も言えないなら、自分が止めに行くしかない!

 あやめは決意を新たに廊下に出た。

「あんな人をどうしてうちになんか……」

 平穏な生活を壊されたことへの恨みをぶつけてやらなければ気が済まないと感じた。

 居間へと続く廊下の途中で、あやめは暗がりの中、急に背後から誰かに抱きしめられた。

「いやああ! 離してえええ! 」

 そこにいたのは泥酔した偕人だった。

 結い上げていた長い髪を解き、ゆったりとまとめただけの、薄い浴衣姿のあやめを羽交い絞めにしたまま、深酔いしたろれつの回らない舌で、偕人が言った。


「……酔った、あやめ、俺の部屋どこ? 久しぶりに呑むとやばいな」

 ―何がやばいだ。やばいのは間違いなくお前の頭の中だけだろ! 耳元でわけのわからない囁きをするのはやめろ!

 あやめは全力でそう思った。

 願わくば振りほどいて蹴り飛ばしたいところだった。

 だが、男の力の方が上回っていてあやめは身動きが取れなかった。

 だから、精一杯の抵抗の為、叫んだ。

「酒臭い! 離れてください! 」

「ばーか、海老茶式部(えびちゃしきぶ)のお前みたいなガキに興味なんかねえよ……うっ、気持ち悪くて最低だ。吐きそう。もう駄目、このままここで吐く」


 余りある衝撃を与える偕人の言葉に、あやめは身震いしながら思わず絶叫した。

「いやぁ! ここで絶対に吐かないでください! って、なんで人の肩でいきなり吐こうとか普通に出来るんですか?! 早くこっちへ。早く! 」

 ―なんなの、この人―――――!!

 意識を失いかけている、千鳥足状態の偕人を引きずりながら、あやめは泣きたくなっていた。






 結局、あやめは偕人が厠で無様に吐く間、辛抱強く付き合った。

 しかも背中をさすって介抱することまで。


 今、問題の偕人は全て胃の内容物を吐ききってすっきりしたように、仰向けの状態で布団の上で眠り込んでいた。

 ―嫌すぎる。こんな人になんか、絶対関わりたくないのに!

 あやめの中にあるのは、その気持ちだけだった。

 しかし、何故今、こんな自己中な男に、自分は姿勢を正して正座しながらうちわで仰いで風を送ってやっているのか。

 ―くううう、こいつのことが嫌いなのに、自分の人の良さと親の教育が憎い。単なる酔っ払いにまでこの過剰とも言うべき気の遣い方! 自分のことが自分で一番よく分からない! しかも多分、こいつは明日の朝、このことを欠片も覚えていないだろう! 間違いなく私にはそれが分かる!

 次々身に降りかかる不条理さに、あやめは思わず吠えたくなった。


「私……何やってるんだろ……」

 眠りこけた偕人を前に、あやめはぽつりと呟いた。

 部屋の中に焚いた蚊取り線香の匂いが漂う。

 裸電球の灯りが鈍く、室内を照らしていた。

 その時、それまで微動だに動かなかった偕人の身体が急にぐらりと大きく動いた。

 寝返りをうち、大きく手を伸ばしてきたのだ。

 危うくあやめの膝にその手が触れかけたので、あやめは思わず驚いて飛び退いた。


「もう! なんなの! 」

 無意識に、あやめの口から不満の呟きが漏れた。

 その時だった。

「……和稀(かずき)


 不意に偕人の声がした。

 目の前の迷惑千万な男が目を覚ましたのかと思い、あやめはその顔を覗き込んだが違っていた。

「……」

 次の瞬間、あやめは息をのみ、言葉を失っていた。

 偕人の閉じた両眼から、一筋の涙が伝っていた。

 眠りの淵にいて意識の混濁したような状態の偕人が言った。

「和稀……俺が代わりにあの時、死ねばよかったんだ。……なんで俺なんかが生き残った」

 男の低い声で語られる、その言葉は鮮明にあやめの耳に届いた。

 あやめは驚きの余り動けなくなったまま、ただじっと偕人を見つめることしか出来なかった。






 そっと(ふすま)を開き、偕人の眠る部屋から出てきたところで、あやめは兄の颯弥と遭遇した。

「あやめ、なんでまたあの野郎の部屋から! 」

 明らかに狼狽する兄に、取り成すようにあやめが言った。

「兄様、違うから! 飲み過ぎで気持ち悪がってたから、寝かせただけです! 迷惑な人だけど今日はとりあえずこのままそっとして寝かせてあげようよ、随分疲れてるみたいだから」

「あやめ……? どうしたんだよ? 」

「なんでもありません。さ、もう行きましょう」

 そう言って颯弥を促し、あやめはその場を離れた。

 立ち去る時、一度だけ偕人の眠る部屋の方を振り返りながら……。






 自室に戻ったあやめは、部屋の中で羽づくろいをしているカラスの姿に微笑んだ。

 それは偕人が家の前で倒れていた日、空から落ちてきた三本足のあのカラスだった。

「お前、すっごくおとなしいね。怪我が大したことなくてよかった。もう元気になったんだからここから出て行って自由になってもいいんだよ? 窓は何時も開けておくからね」

 だが、カラスは窓の方を見ようともせず、あやめにそっと寄り添うようにくっついた。

「一緒にいてくれるの? かわいい……鳴き声はギョローって言って、全然かわいくないけど! 」

 あやめはカラスを抱き上げると、くすくす笑った。

「……ただ夢を見ていただけ? あの人、何だったんだろう」

 あやめは俯いて、ぽつりとそう呟いた。

「やだな、私、何を気にしてるんだろ!ただの聞き違いなのかもしれないし! 」

 あやめは自分が見たものを心から打ち消すようにかぶりを振った。

 外からは虫の音が微かに聴こえてくる。

 あやめは部屋に吊るされた蚊帳(かや)をめくりあげると、カラスに()いた。


「一緒に中に入る? ちょっと狭いけどね」

 言葉が分かるのか、カラスは畳の上を歩いて移動し、蚊帳の中に入ってきた。

 あやめは布団の中にうつぶせに横たわり、上半身を上げ、カラスを撫ぜた。

「きっと、ただの聞き間違いだよね……」

 布団の中で目を閉じ、まどろみに揺られながら、あやめはもう一度だけそう呟いた。

海老茶式部(えびちゃしきぶ)とは、海老茶色の袴を着た女学生を、紫式部とかけて、からかって当時の人達が呼んだ呼び名です。

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