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涙をこらえて

「言われた通り、ひとまず外には出てみたけど、帰れって言われたって、これじゃあ気になって帰れないのに……! 」

 憲兵団の詰所と幾つか他の役所が点在する敷地から少しばかり離れた場所に立つ、電信柱にくくりつられた電燈の下で、あやめは困惑気味にしきりに周囲を見回しながら呟いた。


 どうすればよいかを決められぬまま、ひとまずその場でしゃがみこんだあやめの足元に風丸が寄ってくる。

 つぶらな眼で自分を見上げてくる風丸の毛並みをそっと撫でながら、あやめは月明かりの失われた(さく)の空を見上げた。


 その時だった。


 あやめは周囲の空間全体が共振し、場が一変していくような強烈な波動を、確かに感じた。

「これ……『あの時』と同じだ! 」

 神隠しが起きた巨石の前で感じた、肌を直に突き刺してくるような、あの感覚。

 酷似した感覚に襲われ、過去の記憶を急激に呼び覚まされながら、同時にあやめの中には、ついさっき聞いたばかりの、要の言葉が思い出された。


「闇落ちする人間の眼って……まさか、大和さんが……! 」

 そう思い至った時には、偕人達から言われた言葉の何もかもを忘れ、あやめは元来た道を慌てて引き返し、一心不乱に走り出していた。


 風丸も何事かと後からついてくる。

 化け物達と闘うことを、これまでにも何度か繰り返してきたが、たった一人で立ち向かったことなど一度もない。

 だが、今は偕人も大和も側にはいないのだ。


 その現実を前にして、えも言われぬ心細さが押し寄せてくるものの、それでもあやめはまるで見えない何かに突き動かされるようにして、煉瓦(レンガ)造りの庁舎が立ち並ぶ敷地を囲う塀の横を走り抜けた。

 ―行かなきゃいけないような気がするから…!


 そして、抑えきれぬ荒ぶる動悸を体内から強く感じながら、開いたままになっている、金属製の錆びた門の間から中へと駆け込んだ。

 そこで一歩踏み出しかけたところで、あやめは見た。

 地中の至るところから次々と姿を現した、醜悪な化け物達が憲兵団の男達に舌なめずりしながら襲いかかる光景を。


 手足は骨がそのまま浮き出たように見えるほど細く、だが腹だけが飢餓で異様に膨れ上がったような姿の異形の化け物共は、極限状態になった己の飢えを満たそうかとでもするように、逃げ遅れた憲兵団の男達に鋭い歯で容赦なく喰らいついていた。

 男達の身体の一部が裂かれ、肉が引き千切られる音と共に、断末魔の絶叫が響き渡る。


「風丸! 皆を助けて!!! 早く!!!!」

 頭が真っ白になり、悲鳴にも似た声を張り上げたあやめに望みに応え、身体を大人の狼の大きさにいち早く変化させた風丸が素早く宙を飛び、化け物達に身体ごとぶつかっていく。

 風丸の牙が、化け物達を次々に引き裂いていった。


 天空からは(あお)(いかずち)がほとばしり、稲光と共にあやめを護ろうと無数の狼達が降りてきたが、余りに恐ろしい凄惨な光景を前にして、恐ろしさの余り、当のあやめの足はがくがくと震え、狼達に指示を出すどころではなくなっていた。

 生身の人間が化け物に喰われるということが、どういうことなのかを、あやめはようやく初めて理解した。


 ―礎を守り続けたのは、これを止める為だったの……? こんな恐ろしいことを止める為に、あの人達は……。

 偕人と大和の、二人の後ろ姿が思い出された時、熱いものが込み上げ、あやめの両眼に思わず涙が滲んだ。

 視界が涙で歪んでいく中、あやめはそれを自ら打ち消し、振り払うかのようにかぶりを振った。

 ―強くなると決めたのだから、泣いているだけでは駄目だ。

 あやめの中に、まるで何かに救いを請うように、うなされながらもがいていた、大和の姿が蘇った。

 今の目の前の惨状の原因となったことが、偕人達が話したように、大和自身にあったとしても、あやめには到底それを責める気持ちにはなれなかった。

 こんなことを自ら望む人間などいるわけがない。


 ―妾にされそうだと、追い詰められて苦しんでいたあの子もそうだった。(ほころ)んでしまった礎は、心が闇に近くなった人間を呼ぶ。そこに行きついてしまわなければならないほど、大和さんも苦渋し続けていたはず。

 その時、飛翔する風丸が取りこぼした、憲兵を襲っていた化け物の一体が、あやめに向かってきた。


 あやめは覚悟を決め、真っ直ぐ前を向くと、薙刀(なぎなた)を持つ手に力を込めた。

 ―迷うな。刺し違えてでも、絶対に止める。もう他の人達を襲わせたりはしない!

 次の瞬間、あやめの横をかすめるように、突然、凄まじい勢いで一本の矢が飛んだ。

 放たれた矢じりが、あやめの目の前で化け物に深々と突き刺さり、その姿が瞬く間に灰燼(かいじん)に帰す。


「わたくしの麗しい蝶を一人にして残すなんて……あの役立たずな男どもは……揃いもそろって……許しがたき罪ですわね」

 強烈な怒りが込められた女の声にあやめが思わず振り返った。

 そこには肩に闇色の八咫烏(ヤタガラス)を載せた姿の、(くれない)と白が鮮明に映えた巫女装束の女が立っていた。

 吹き付ける風に袖を煽られながら、その手には白木で作られた弓を構えている。

 燃え上がるような女の双眸(そうぼう)が、その怒りがいかばかりかを物語っていた。

「菊乃さん……! それに朔夜さんも……! 」

「あやめさん、今はまだそこから動かずに! また再び直ぐに同じような者達が来ますわ! 」


 菊乃は背後から新たな破魔矢をつがえると、あやめの背後目がけて放った。

 正確な軌道を描いた矢が何体目かを(ほふ)り、ようやく朔夜を肩に乗せたままの菊乃が近付いてくるのを確認すると、あやめも駆け寄った。

 忌々しげに、菊乃が震えながら口を開く。

「礎が開く時の、この空気……どれだけ経験しても慣れませんわ。全く、あの男達は……! 」


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