指先から伝わるもの
木立の中で他の者達と離れ、普段とは異なる、群青の三つ揃えの背広姿の大和が独りぼんやりと宙を見つめていた。
周囲の落葉樹の葉が風に吹かれながら、乾いた空気の中、幾つも散りながら宙を舞う。
そんな大和の頭の上に朔夜が飛んできて降り立った。
「この間あなただけに話したことを、まだ心配してくれてるんですかー? 」
「……」
「流石に少し堪えましたけどねー」
「……最近、ろくに眠れていないのではないですか? 」
朔夜からの言葉に、大和が苦笑いした。
「そんな風に見えますかー? 僕は自分では、そこまで脆くはないと思っていたんですけどねー」
「……」
「それに処断する以上は、今回も相応の覚悟はしていますから」
大和は半眼を伏せ、呟くようにそう言った。
「もう『これ』を返上しようかと思ってるんですよー。最近、こんなものがあるから、結局、僕は誰とも分かり合うことが出来ないのではないかと思えてー」
懐から取り出した金属製の『それ』を見つめながら、大和が言った。
その時、背後で枯葉を踏みしめる音が僅かに響き、大和が手にしていたものを素早く服の中に戻しながら振り返った。
「あやめさん……」
「これを菊乃さまからお渡しするように頼まれました」
近付いてきたあやめが預かった紙袋をそっと差し出すと、大和が渋々という表情で受け取った。
「隠したつもりでも、見事に見通されてしまっていますねー従者の資格が無いですねー僕は。今回ばかりは菊乃の言葉に従っておきますかー」
「それは何なんですか……? 」
「ああ、僕の心が折れないようにする薬ですよー。あの方はああ見えて、高名な薬師なんですよー」
「薬……」
「憲兵団に所属している連中には、決して根は悪い人達ではないと思っているのですが、ちょっと問題ありな気性の荒い者が多いので……おかげで僕とはそりが合わないことも多くてー。どういう状況であろうが、僕らの一族はそれぞれの時代に合わせて色々な場所にいなければならないので仕方ないんですけどねー」
その時、不意に大和があやめの名を呼んだ。
「何時か僕は巫女である、あなたを守る役には相応しくない側の人間になるかもしれない。もしそうなるようなら、その時はもう二度とこうして同じ時を過ごすことも無くなるかもしれませんねー」
「……それ、どういう意味ですか? 」
「現実的に何時かそう遠くない未来に、そういう日が来ることがあるかもしれない、ということですよ」
大和が遠くを見つめるような眼差しで静かに言った。
眠りから急激に目覚めた大和は、勢いよく上体を起こした。
全身から噴き出した嫌な汗が、次々と滴り落ちていく。
喉の奥が酷く乾燥しているのが感じられた。
「ここは……? そうか、あやめさんの家で……」
着させられていたのは、自分にとってはまるで見覚えの無いゆったりとした浴衣だった。
その時、寝かせられていた暗いこの部屋に面した、鈍い灯りのともった廊下から人の気配がして、大和が寝覚めの気分の悪さのまま苦しげな表情でそちらに顔を向けた。
「お前、職を辞すつもりなのか? 何があった? 」
「……そんなことまで、もう伝わってるんですかー早すぎるなー」
「余計なやりとりは無用だ。俺の問いに答えろ! 」
廊下で胡坐をかいた姿の偕人が苛立ち混じりに言った。
その時、もう一人の人物からのたしなめるような声が廊下から響いた。
「もう! そういうやりとりこそ、今の大和さんには余計ですから! 」
そこには、タライとてぬぐいを手にした、何かを決意したかのような眼差しのあやめが立っていた。
肌で感じられる周囲の空気は既に深夜のそれだ。
「あやめさん……こんな真夜中まで、まだ起きていたんですか! 」
あやめは偕人を押しのけて部屋に入ってくると、大和の傍らで跪いた。
「少しだけじっとしていてくださいね」
あやめはそう言うと、年頃の娘らしく顔を赤らめ、微かに指先を震わせながらも、手にした布で、汗で酷く汚れた大和の顔をそっと拭った。
「随分うなされていたみたいですね。お水も持ってきましたから、少しずつでいいので飲んで下さいね」
大和が戸惑いながら言葉を失くす。
「……」
「そんな奴は放っておけ! 俺の話の方が先だ! さっきまで憲兵の奴らが大量に押しかけてきて、お前だって相当迷惑しただろうが! 」
「もう終わったことです。それに皆さんにはきちんとお引き取りいただきましたし……そんなことを言いながら、本当は偕人さんが大和さんのことを誰よりも一番心配してたじゃないですか」
放心状態の大和の顔や喉元を丁寧に拭いながらのあやめの言葉に、偕人ががなった。
「俺が大和のことを気にしたりするわけがないだろ! 余計な話はやめろ! 」
「はいはい、大和さんを自分の部屋に寝かせて、自分は廊下で寝るって言ってたように聞こえましたけどね、私には。現にここは今朝までは偕人さんの部屋だったはずですけど」
「……」
あやめの言葉に偕人がふて腐れたように、思わず目を逸らした。
「汗で濡れたままで冷えてしまうと身体に障りますから、直ぐ着替えを持ってきますね」
そう言いながら立ち上がりかけたあやめの顔を、不意に大和がじっと見た。
思いがけず目が合ったことに戸惑いながらも、あやめが頬を染めたまま精一杯はにかんで見せる。
大和にはそれが目の前の少女が、異常な現実を前に強い不安に襲われながらも、気取られまいと心の奥に押し隠し、何とか相手を気遣おうする思いやりからくるものだということが分かった。
「大和さんが今、気にされなければならないようなことは何も無いんですから、このまま今夜はここでゆっくり身体を休めて下さいね」
大和は沈黙したまま自分の手元に視線を落とすと、自身の掌をじっと見た。
それから緩やかに口を開く。
「本当に僕はここに帰ってきたんですねー。もうあの時は二度と戻って来られないかと思っていたのに」




