節操の無さ、再び
「でも良かったですね」
夕食の片付けをしながら、あやめが朔夜に言った。
「口では嫌がるようなことを言っていても、ああして毎晩大和さんとふたりで話に夢中じゃないですか」
「あいつがああなるとは私の想像を超えていましたからねぇ。一族の者達が使うことが出来た結界を『直す』ことだけに甘んじず、優秀な先人達のように自分で結界を作り出すことが出来るようになることを望むとは……」
朔夜の言葉に、あやめが頷いた。
「だから古い書物や遺跡の副葬品に出来る限り接することが出来る、役人になると言われた時は、びっくりしましたけど……でも、急にどうしてそうなってしまったんでしょうね? 私、ちっとも分からなくて」
「あれ、あやめさん気が付いていなかったんですか? 」
「……? 」
「和稀が私達の前に現れたあの時、あなたが偕人を止めてくれたからですよ」
思いがけない朔夜の言葉に、あたふたしながら、あやめの頬が微かに染まっていく。
「え……? わ、私のせい、なんですか? 」
「育った環境というものは、得てして本人が気が付かぬうちに、がちがちにその人間を縛りつけ続けるものです。影響されていないつもりでも……自ら他の道を探すという第三の選択肢があるのだと、あなたが力ずくで偕人に示してくれたことでようやく気が付くことが出来たのでしょう。けりがつかない方が良い時もあるんです」
朔夜の言葉に、あやめが躊躇いがちに口を開く。
「私、偕人さんはあの時のことを怒っているとばかり思っていました」
朔夜がふっと笑い、背後の居間の偕人の背中を振り返りつつ言った。
「それは本人にとっては気の毒な思い違いだと、私は思いますよ」
「気の毒な思い違いって何なんだろう……? よく分からないなぁ。朔夜さん笑ってるだけで具体的に何も教えてくれなかったし……」
あやめが歪んでがたつく雨戸を、腕に力を込めて何とか閉めながらも、そう何気なく呟いた時だった。
「あやめ……俺がやってやるよ! よし! 俺に任せとけ! はっはっは」
廊下の奥から、自分の出番とばかりに歩いてきた兄、颯弥が快活に笑いながら近付いてきた。
「あ、兄様……居たんですか」
妹の放った、すげなくつれない言葉に、颯弥が見る間に顔色を失くす。
「……お前最近酷くないか? 俺はお前のたった一人の大切な兄貴だろ! この兄さんにそんな暴言を吐くなんて……! 小さい時は毎晩顔を見つめながら温めつつ、添い寝してやったのを覚えているだろう? 俺は今でも本当は毎晩そうしてやりたいんだ! 」
颯弥が勝手知ったる様子で、鼻息荒く回想という名の妄想に入り込もうとしているのを、あやめが即座にばっさり斬り捨てる。
「兄様、気持ち悪いです。また蕁麻疹が出ると往生しますので、どうかあと最低でも三歩は後ろにおさがり下さいませ」
「お前がそうしてきつい責めを俺に向けてくるようになったのも、俗世間の垢にまみれたせいだな。きっとそうに違いない! だから俺は女学校へ行かせるのも本当は反対だったんだ! 特に偕人がお前に……」
「……その実妹への偏向した腐った愛情自体がおかしいと言っているんですよ、私は」
舌鋒鋭いあやめの言葉にも、ある意味筋金入りとも言える颯弥には余り効果が期待出来ないらしい。
「匂い立つ香しい金木犀の花のように小さくて可愛いらしかったお前が……」
「私はあんな猛烈な匂いを出したりはしません! 」
―駄目だ。偕人さんとは違う意味で、兄様も重症だ。病院に行かせないと、それも頭の方の……。
あやめが頭痛を覚えかけた時、背後から急に男の腕が伸びてきて、偕人が颯弥を羽交い絞めにした。
「俺を呼んだか? 待たせたな」
偕人の言動に、颯弥の時が一瞬止まる。
直後に我に返った颯弥が、慄きながら偕人に言った。
「な、何なんだ?! 一体何のつもりだ。何処の誰かも知れないような、あんたなんか俺は今も認めてないんだからな……! 」
衝撃で口を呼吸する金魚のように幾度も開ける颯弥の前で、酔った眼差しで偕人が囁くように言った。
「颯弥……お前よく見ると女顔でなかなか可愛いな。忘れられなくなる接吻の味を、俺が教えてやろうか? 」
空を切り裂くような颯弥の絶叫が響き渡った。
「ぎゃ――――――――――――――!! 」
「……偕人さん、最低ですね。また呑んでたんですか。相変わらずの酒癖の悪さに感心しますよ、もう」
最早動じることが無くなったあやめが真顔で言った。
「な、ななななんなんなんだよ! あんたは! 何処まで本気なんだよ! 」
颯弥がそう叫びながら勢い余ってすっ転んだ。
「俺は何時も本気だが? 同性同士は試したことが無かったが相手をしてくれないか? 」
偕人が酔った眼差しで、まだ起き上がれないままの颯弥にぐっと顔を近付けていく。
「い、嫌だ――――――! そんなん断固拒否するに決まってんだろ!! 」
思わず青ざめつつ這うように逃げ出そうとした颯弥を、酒に酔って力の加減が出来なくなった偕人が床板が跳ね返りそうな程、踏みつけながら抑え込んだ。
「人を踏むな! 足をどけろ、この酔っぱらいが! 」
鳥肌で皮膚がぶつぶつになった颯弥が、失神寸前でわめいた。
「そう嫌がるな、騒ぐと近所迷惑だろ? 」
「偕人の存在が、既に近所迷惑なんだよ! 」
「俺が近所迷惑だと? んなわけあるか」
「あら、月城さんじゃないの」
その時、塀の向こうから、年の割には妙に艶めいた一人の老女の声が響いた。
「あ、裏のトシさんだ。こんばんはー! 」
あやめが愛想よくお辞儀をする。
老婆トシの声につられるように、ご近所の年輩の婦人達が、各々(おのおの)の家の戸口から出て集まってきて、偕人の姿を目にするなり一斉に歓喜の声を上げた。
偕人が微笑を浮かべながら軽く会釈を返すと、寄り掛かった老女達が悶絶し、その人数分の重さで漆喰で出来た、あやめの家の塀が崩壊しそうにみしみしと鳴った。
「帰ってきてくれたのねえ……。嬉しいわぁ。月城さんがいなくなってから、私達めっきり火が消えたみたいになってたのよ。おかげで皆、持病の腰痛が酷くなってしまってねえ」
「本当よねえ。戻ってきてくれたのなら長生きのしがいがあるわねえ」
溜息混じりに、老女達が皺だらけの頬を染めながら目配せしあう。
その姿は実年齢に多少の隔たりはあっても、あやめの女学校の級友達の見せるそれとほぼ大差が無かった。
本人が無自覚な節操の無さを前に、あやめはもう何も言うまい、と心の底から思った。
「この通り、ご町内のご婦人方に俺は必要とされているのがよく分かっただろ? 納得したか? 」
偕人が事もなげな様子で言う言葉に、颯弥が噛みついた。
「近所の婆さん達まで、悉く顔で懐柔しやがって――――! 俺はお前なんか絶対認めねえ―――――! いなくなってせいせいしたと思ったら、また直ぐに戻ってきて当然のように居座りやがって―――――! 」
その時、不意にあやめは誰かが自分の後頭部をそっと撫でるのを感じた。
優しい掌の感触に、驚いて振り返ったものの、偕人が背中を見せながら、山賊さながらに颯弥を肩に担ぎあげて居間の方に連行していくところだった。
「……? 」
あやめは訳が分からぬまま首を傾げながら、ふたりのその姿を見送った。




