無垢な想いを君に(第一部完結)
「月城先生、退職されて本当に残念ね」
級友達が傍らで話す言葉を聞きながら、あやめはぼんやりと空を見上げた。
「元の先生が戻られることになったのはよかったけど」
「……そうだね」
あやめが心ここに非ずな声で言った。
「美月さんの家にお住まいだったんでしょう? 月城先生とその後お会いしたりはしていないの? 」
あやめは首を振って、曖昧に笑って見せた。
「突然うちに来て、突然いなくなったような人だから、よく知らなくて……」
―月城偕人が姿を消してから、既に二週間が経過していた。
和稀と遭遇したあの一夜が明けた翌日から、何となく気まずいまま、互いに会話らしい会話を出来なくなっていた数日後、偕人は唐突にあやめの前から姿を消した。
その後に伝え聞かされたのは、赴任先であった女学校からの離職だった。
偕人の姿が消えたあの部屋はまるで抜け殻のようで、僅かな荷物も全て無くなっていた。
級友達と分かれ、普段と同じ帰り道を辿りながら、あやめは独り街の風景を見つめていた。
夕闇の中、木製の電信柱に灯された裸電球が心許なさそうにともっている。
何時もの四つ角から、あやめの帰宅を待ちかねていたように、風丸がまっしぐらにこちらに駆け寄ってこようとするのが見えた。
自分の足元まで辿り着いた風丸を抱き上げた、あやめの手が微かに震えていた。
同じ風景でありながら、あの男の姿だけがそこに欠けていた。
「もう戻ってこないの……? 」
ぽつりと淋しげな呟きが、あやめの口から漏れた。
―あのお見合い写真の相手の人達……元々住む世界の違う人だったんだ。それに事情がろくによく分からないまま和稀さんのことを阻んだ私が許せなかったんだ、きっと……。
不意に背後から誰かが近付いてくる気配を感じ、何気なく振り返ったあやめは、思わずそこにいた人物の名を呼んだ。
「偕人さん……」
「さっき家に行ったが、まだ帰ってなかったから来たんだが」
何時もの聴き慣れた低い声に、あやめの中で安堵する気持ちがじんわりと広がっていく。
「どうして……」
「何だ? 」
「どうして今日は洋装なんですか?! 」
偕人は背広にネクタイを締めている姿だった。
「これはだな……あの」
やや面食らった様子で偕人が言葉を濁す前で、あやめが意を決したように口を開いた。
「私、決めたんです! 偕人さんにまた会ったら絶対言おうと思ってたことがあるんです! 」
「何だよ急に……」
「私、和裁は偕人さんみたいには上手く出来ないですけど、織姫先生にはなれなくても、巫女になったことだけにとどまらず、自分が向いていることを探します。そして自立した職業婦人を目指そうと思います! そう決めました! 」
「……で、どうして僕がこんなことをしなきゃいけないんですかー」
月城家の蔵に大量に保管されていた古書を前に、大和がげんなりしながら嘆きの声をあげた。
「文句を言うな。元々お前が不用意に、あやめをあんな古墳に連れて行ったことが、全ての元凶の発端だろうが! 巫女についての記述に行き当たるまで、お前は外出禁止だ! 」
偕人が大和に詰め寄りながら叫ぶ。
「でもおかげで止めてもらえてよかったじゃないですかー」
「……」
「僕と偕人しか、その場にいなかったら和稀を確実に斬っていましたよー。本当は斬りたくなんかなかったくせにー」
「……」
「ろくに話もせず、いなくなるようなこんな男の方がどうしてもてるんだろうなー世の中は不公平だなーでも言う前に玉砕したけどー」
そう言い掛けた大和の頭部を、偕人が殴りつけた。
「その話はもうやめろって言っただろ! ただの一時の気の迷いだ! もうそんな気はねえよ! 」
「どうしたんですか? 」
蔵の中に顔を覗かせた朔夜が不思議そうに訊く。
偕人が実に嫌そうな顔で、朔夜を遠ざけようとしたが、大和の言葉の方がそれより早かった。
「あやめさんの嫁取りの相談の為に意を決して、わざわざ僕に相談に来てまで、改まった洋装で行ったらしいんですけど、ご本人から『立派に独り立ちした職業婦人になりたい』と宣言されてしまって、言うに言われなくなって帰ってきたらしいんですよ―この人。あやめさんの危険回避能力の凄さには脱帽だなー」
大和の言葉に朔夜が思わず噴き出した。
「そんな面白い話なら、私にも詳しく聞かせてもらわなければ困りますねえ」
偕人が唖然と顔を硬直させた前で、大和が再び悠々と口を開いた。
「女学校は結婚でやめる生徒も多いと聞きますし、別に僕は自分の意志を貫いたっていいと思うんですけどねー。あやめさんに拒否されるかもしれませんけどー。でも、そういう自分の気持ちを見せて迷わせてしまうより、あやめさんには無垢なまま自分の人生を大事にしてほしいって、短期間でも教職についてると、誰しもがそんな人間になってしまうものなんでしょうかねー」
「うるさい! 俺のことを勝手に解釈して喋るのはやめろって言っただろ! 」
偕人は我慢が出来なくなったように、古書の束を壁の棚に乱暴に叩きつけると、大股で蔵から出て行った。
偕人の姿が見えなくなり、大和が再び言葉を続けた。
「消去法で『それしか選べなかった道』ではなく、自分にしか出来ないことで自らの進むべき道を探す。そうしたくなったそうですよーあの人」
「いい変化ですねえ」
朔夜が嬉しそうにしみじみ言った。
独り外へ出た偕人は初秋の訪れを感じさせる、形が崩れかけた雲のさまに目を細めた。
風が幾分伸びかけた髪を攫っていく。
偕人はこれまで感じてきたより、遥かに遠い先まで自分の未来が続いていくような感覚を、今確かに感じ始めていた。




