後悔先に立たず
「あやめさん、すみません。今夜も迷惑をかけまくっていますね。あいつらが……」
風呂上りに蚊取り線香を焚きながら涼んでいた、あやめの部屋の窓から朔夜が入ってきて言った。
「お父様もお酒の相手がまた一人増えて楽しそうだからいいですよ。大和さんも実はお酒が好きなんですね。あんまり遅くまで騒いでたら、兄様が止めてくれるでしょうし」
―もっともそれはあくまで希望的観測の話だが。
あやめが立ち上がって、寝床と蚊帳の準備を始める。
朔夜が手際よくそれを手伝う。
「あ、偕人さんの部屋に蚊帳をかけておいてあげなきゃ。酩酊した状態じゃ無理だろうし」
「そんなに気を回さなくていいんですよ。限度もわきまえず浴びる程酒を呑んでる奴のことなんて」
「……そう言われても、やらないといけないような使命感にかられる私って変なのかなあ。……世話とか焼き過ぎ? 」
あやめは独りで偕人の部屋に入ると、漠然としながら呟いた。
偕人の部屋の中は古びた文机が置かれているだけで、殺風景だ。
元々この家は和洋混合の造りで、あやめの部屋は洋風の部分にあたる為、内装もそうなっている。
だが、偕人の居室となっている縁側に面したこの部屋は、床の間付きの純日本風のしつらえになっており、あやめの父親からの心ばかりの気遣いにより入れ替えられてまだ間もない、青い畳からは強いイグサの匂いが強烈に部屋中に充満していた。
襖を開けて、押し入れに乱雑に突っ込まれていた蚊帳を引っ張り出す。
「偕人さん、物を持たない主義の割には片付けは苦手なんだ……裁縫はすごく上手くて器用なのに。人間っていい大人になってても、何もかも全部が完璧に出来るわけじゃないんだね……」
そんなことを呟きながら、部屋の隅に畳まれた布団を見た。
「余り触りたくないけど、敷いておいてあげた方が親切だよね、うん」
そうしてあやめが広げた布団の皺を丁寧に伸ばしていた時―。
あやめは不意に強い力で背後から羽交い絞めにされた。
思わず悲鳴をあげかけたが、大きな掌がその口元を覆う。
そして耳元で聴き慣れた男の低い声がした。
「なんだ、新手の夜這いか? 周到に俺の床の準備までして。お前、俺が嫌いなんじゃなかったのか? 」
―はああああ?! なんでまたこのいつぞやと似たような展開に?! しかもなんか方向性の間違った嫌な感じの悪化の仕方してるし! ってか、酔っぱらうと何やっても許されると思ってるのかあああ、お前は!
その時、障子の開け放たれた目の前の縁側に面した廊下を通り過ぎようとする大和の姿があやめの視界に入った。
ここぞの好機とばかりに、あやめが拘束されて動きずらい腕と目で、必死で救出を訴える。
―やっ、大和さん! 助けて下さい!!! この変な人から早くーーーー!
だが、当の大和は深酒して酔った顔で、若干面喰いながら一言。
「直球ですねー。昼間僕が不用意に焚き付けたのがいけなかったのかなー。酒の力を借りないといけないとか、梯子を外されると、免疫の無い奴って本当に面倒なんだなー」
あやめにとっては意味不明で絶望的なただの感想らしきものを口にして、大和の姿はさっさと見えなくなった。
―駄目だ。腐っても偕人の身内なんだから、期待するだけ最初から無駄だったことを忘れてた……。
援軍が見込めないと知ったあやめは、次に自らこの状況を打破する為の行動に出た。
何とか苦心して身体をひねりながら、口を覆っていた偕人の掌をずらしながら言った。
「は、離して下さい! もう! 」
「俺が自分の部屋で何をしようが勝手じゃないのか? 」
相変わらずの最低の理屈に、偕人に一時でも同情した自分は愚かだったと、あやめは心底思った。
「ここにいたのはお前がそうしたかったからだろ? 」
「それは蚊帳を出してたからです……! 」
「別に理由なんかどうでもいい」
―どうでもよくない!!! 話聞いてないし!
偕人は酔っているせいか、力の加減が出来ないらしい。
再び、あやめの口元が全て覆われかけたので、反射的にあやめが言った。
「……か、和稀さんって誰なんですか?! 」
「死んだ俺の双子の弟だけど? ……お前、なんでそれ知ってんの? 大和から聞いたのか? 」
酷く酔った口調で、うわ言のように偕人が言った。
「ふ、双子?! 偕人さん、双子だったんですか? 」
次の瞬間、怒り狂った朔夜が突撃同然に飛来し、偕人の後頭部を蹴り上げた。
「天誅―――――――! クエエエエエ(死ね)! 」
朔夜からの怒りの鉄拳制裁に、偕人が断末魔か絶叫に似た呻き声をあげて、のけ反った。
頭部からは鮮血がほとばしる。
―で、僅かに遡ること、数分前。
用を足してすっきり爽快な大和は、厠を出たところで朔夜とすれ違った。
「ああ、そうだ。忠告しておいた方がいいのかなー」
「何ですか? 」
「向こうの部屋で、酒癖の悪いうちの当主がいたいけな女学生を襲っています」
偕人の部屋を指差しながら、大和が平然と言う前で、朔夜が血相を変えながら、飛び立った。
―で、現在に戻る。
「あなたという人は! あっ、あやめさんに手をついて謝りなさい! この狼藉者がぁ!! 」
朔夜が追いかけまわし嘴でつっつきまくるので、偕人は堪らないとばかりに逃げ回った。
その中央であやめが呆然としたまま座り込んでいる。
「や、やめろ……そんなことをされると……」
「そんなことをされると、何ですか? 弁解は聞き入れませんよ? 」
「……吐く」
「きゃあああああ!!!! 」
偕人が真っ青な顔で口元を押さえながら、廊下へ飛び出した。
そしてまっしぐらに厠へと駈け込んでいく。
あやめは乱れた浴衣姿のまま、暫くそこに座り込んでいたが、よろけながら立ち上がった。
そして廊下に出て濡れた何かを踏んづけた。
恐ろしく嫌な感覚だった。
直感が教えている、これは……。
恐る恐る足の裏を見て、そしてあやめは察した。
それが何であるかを。
「いやあああ! 廊下に点々と吐いたのが落ちてる! 偕人さんの馬鹿――――! ちゃんと片付けて下さい! 」




