偕人の苦悩と、あやめの決断
―多数の狼達に追われた末に、あやめだけが古墳の内部に閉じ込められていた、あの時。
勾玉から放たれた強い光の中、あやめは何が起こったのか分からないまま、ただ立ち尽くしていた。
周囲の景色の一切が消え、視界を覆い尽くすのは真っ白で清浄な光だった。
そして次に気が付いた時、あやめの目の前には小さな透明の珠のようなものがひとつ、ふわりと浮かんでいた。
珠から眩く放たれた光は、次々に可憐な花の花弁に形を変え、舞い落ちながら消えていく。
その珠の中には何かが入っているように見えたが、それが何なのかは判然としなかった。
少し離れた場所に、闇鋏を手にした偕人が呆然と立っているのが見えた。
「お前……嘘だろ? 」
「……偕人さん? 」
そこはまるで夢幻のような場所だった。
力を失くした偕人の手から闇鋏が離れ、その姿が八咫烏の朔夜へと戻っていく。
翼を広げた朔夜が静かに、そしてうやうやしくあやめの前に下りてきて言った。
「朔夜さん……ここは何処なんですか……? 」
あやめは状況が掴めず、戸惑いの表情でそう訊いた。
「あやめさん、その珠に触れてみてください。説明するより、おそらくその方がずっと早いはずです」
あやめは困惑を隠しきれなかったが、頷き、珠に向かってそっと手を伸ばした。
小さな宝珠のような塊は、あやめの手が触れるか触れぬか分からぬ距離で、目が眩むような強い光を放った。
光が消えた時、そこには尻尾を丸め、眼を閉じている小さな碧い狼の仔がいた。
狼の仔は宙にふわりと浮いたまま、すやすやと穏やかな表情で眠り込んでいる。
不意に狼の仔の眼がぱっちりと開いた。
あやめと目が合った瞬間、狼の仔は嬉しそうにあやめの腕の中に飛び込んできた。
「で、それがこの空を翔る狼の神、真神の風丸で、それをあの勾玉から引き出したのが、めでたくもあのあやめさんだった、と。端的に言えばそういうわけですね」
「いや! よく見ろ! こいつは、まごうことなくただの犬っころだ! こんなにふさふさで見た目も、別に今は碧くもないしな! 」
偕人が風丸を抱えてお腹を見せながら取り繕うように言った。
だが、その眼は動揺の余り、若干泳いでいる。
大和が冷めた目で、朔夜に言った。
「……朔夜、どうしますか。この人完全に自分を騙していますよ」
「……」
「あやめさん、可愛そうに。神域にまで行ける、ものすごく珍しい巫女になったせいで、こんな男にしか嫁に貰ってもらえないかもしれないなんて。僕が早く男を教えてやるべきだったかなー」
しれっとした大和の言葉に、横で偕人が盛大に噴き出した。
「はあ? お前、何悪趣味なこと言ってんだ?! 」
「やだなー。そうしたら巫女になんかならなかったじゃないですかー例えばの極論の話ですよ。もう手遅れですけどねー」
「……」
「で、さっきの質問に戻りますが、偕人が本当に彼女をこのまま護れるとでも思っているんですか? 月城の方々にお預けになった方が現実問題としては賢明な判断と言えるのではないですか? 現存する文献も僅かだと聞いています。今後何が起こるか分かりませんしね」
「……」
「……また、沈黙ですか」
大和が呆れたように言うと、朔夜が黙り込んだ偕人の頭の上に乗って、その顔を覗き込もうとした。
偕人は追い払う素振りもなく、口を開く。
「正直言って、どうすべきなのかが俺には分からん。だが、ひとつだけよく分かっていることがある。……生きている人間にとって一番重要なことが、お前らには何かが分かるか? 」
「重要なことですか? それはまた唐突な質問ですねー」
大和と朔夜が首を傾げながら、両者は共に顔を見合わせた。
「人が生きている中で、一番重要なのは自由であることだ。自分が何処へ行き、何をしようが誰にも干渉されない、阻害されない権利、そうだろう? 」
「で、その為に現実逃避して話を先延ばしにしてきた、そういうわけですか。それにそういう思想だけは性格には似合わず革新的な人ですねー」
「……」
「だったら、どうせなら自分が嫁として貰って、その偕人の言う、自由とやらを存分に謳歌させてやればいいじゃないですかー。金に物を言わせた、物凄い額の結納金でも積んで。見合いも回避できるし、名案かもなー」
大和の言葉に、偕人が再び盛大に噴き出した。
「さっきから聞いてりゃ、お前は何言ってんだ! 俺とあやめがどうかなるわけねーだろ! いい加減にしろ! 」
「性格が捻子くれた偕人には相応しいかとも思ったんですけどねー。戸籍上は自分のものになっても、触れられない穢れなき妻って言うのもオツかなぁーと」
偕人が思わず大和を殴り掛かりそうになったが、すんでのところで朔夜が止めた。
「朔夜、こいつを真剣に一発殴らせろ! 言いたいことを好き勝手言いやがって! なんで俺があやめと……! 」
「やだなー、これだからろくに女性とのお付き合い経験の無い男は、頑なで面倒臭いからやなんですよねー。それにその動揺ぶり……冷血漢を装ってる、ただの小心者のくせに、実は意外と本当に好きだったりしたんですか? 」
「……好きじゃねーよ、あんな寸胴のことなんて! 」
そう言った瞬間に、偕人の右足の脛に、牙を剥いた風丸が勢いよく噛みついた。
「いてえええええ! 何すんだ、風丸!! 」
「風丸は喋れないだけで、こちらが言っていることは、筒抜けで全部分かってるみたいですから、迂闊なことは言わない方がいいですよー。特にあやめさんの悪口とか。あ、もう遅いかー手遅れだなー」
「で、風丸の散歩に行っただけなのに、偕人さんはどうして家を出る時より負傷したうえ、足を流血しながら帰ってくるんですか? 」
「風丸に噛まれたんだよ。ちゃんと躾けとけ! 」
あやめは畳の上で正座し、目の前に手当された足で胡坐をかいた不機嫌そうな偕人と、行儀よくおすわりをした風丸を並べて座らせると、両方を交互にじっくりと見た。
そして一言。
「偕人さんがまた誰かの悪口を言ったんじゃないですか? ……特に私とかの」
風丸の眼がきらっと輝き、水を得た魚のように、喜び勇んでわんわん鳴いた。
「ほうら、やっぱり……」
「……誤解だ。ちょっと待て」
さえない顔で、弁解不能な状態の偕人が言う。
「ただでさえ貧血で倒れるのに、貴重な血を更に無くしてどうするんですか? ちゃんと結界を直す為に使わないと駄目でしょうに」
「……! 」
大和が驚いたように、あやめを見た。
「あやめさん、『あれ』を見たんですか? 珍しいなー。偕人は頼まれたって、滅多にやらないのに」
「……え? 」
「あれは、下手すると死にますから。魍魎を闇鋏で叩き斬る方の『影斬り』には問題は無いが、結界を直す方の『影縫い』は話が別なので。やろうとすると、やる側が血で繋がれて完全に一時、無防備同然になる。ある意味自分の身と引き換えに近いせいで、偕人の兄弟も次々死にましたからねー。人間を勘定するようで好ましくはないが、まあ、あっち側への行方不明者の数が数十人規模とかにならない限りは、滅多にふるわない力ですよー一族の人間にだって限りがあるし」
「……大和、いいから黙れ! 」
偕人が顔をしかめながら遮るように言った。
それとほぼ同時に偕人が立ち上がりかけたが、あやめがその着流しの袖を強引に掴んだ。
「偕人さん! 逃げないで下さい! そんな大事なこと、どうしてちゃんと言ってくれなかったんですか?! 」
「……大和の戯言をいちいち真に受けんな! いいから俺を離せ! 」
「嫌です! 離したらまた逃げるじゃないですか! 絶対、離しませんからね! 」
あやめの鬼気迫る気迫に押され、偕人がたじろぐ。
「そこまで危険だって知ってたら、私だって……」
あやめがそう言って思わず俯いた。
「あの時はお前が助けかった奴も助かったし、別に今更問題にすることはねえだろ! 」
「それはただの結果論です! 」
「……」
「これからは私も一緒に行きますから! 」
「は? お前何言ってんだ! 」
「私、風丸が出てきてから、少しずつ分かり始めているような気がするんです。自分の中の力の事。まだ使い慣れていないけど、これを上手く使えれば、きっと……」
一部始終を見ていた大和がぼそりと言った。
「あーこれは限度額いっぱいの結納金の献上確定かなー」
偕人が真っ赤になって、大和に怒鳴った。
「だから勝手なこと言うなって言ってんだろ! 黙ってろ! 」




