場の空気が氷点下
翌朝、ちゃぶ台の前でしかめっ面のまま、がりがりとメザシをかじっている偕人の横にあやめは座った。
おひつから自分の茶碗に玄米ご飯をよそいながら、あやめが声を潜めて偕人に言った。
「朝からものすごく不吉そうな顔してますね。寝てないんですか? 目のところ、すごいクマですよ」
「……ああ、職場が割れた以上は、近いうちに『あいつ』が何処かで現れそうな気がするからな。そう思うと眠れるわけがない。俺は逃げなければならない」
「火神さん、でしたっけ? あの憲兵さん」
「その名前を出すのはやめろ。俺の精神力を際限なく削る気か、お前は」
「……」
あやめはちょっと考えたように間を置いてから言った。
「少しくらいなら手伝ってあげればいいじゃないですか」
「お前、何勝手なことを……」
「そんな病んで弱ってる偕人さんは何だか似合わないし。それに結界の礎を直すのが、偕人さんの本当の仕事なんでしょう? 」
「……俺の本業は教師だ。そういえば、お前のその呼び方はなんなんだ」
「学校ではちゃんと『先生』って言いますよ。でも家では私の自由です。それにべろべろに酔っぱらって抱き着いてくるような悪辣な人を、世間一般では教師とは呼びませんから」
「……」
「それに本当の仕事が教師じゃないことくらい知っていますよ、私」
「……」
「どーも、裏口からお邪魔しますねー! 」
陽気な声が縁側からして、偕人とあやめは瞬時にそちらに目を向け、思わず固まった。
前回と全く同じ憲兵姿の男がそこに立っていた。
場の空気が氷点下まで一気に急降下する。
「大和っ……! お前どうしてここが……」
「やだなぁ、ちゃんとご町内の地図を頼りにして辿り着いただけだけじゃないですかー」
「そういう意味じゃねえ。なんでこの家のことが、お前に割れてんだよ! 」
「そりゃあ、検挙すべき対象がとんずらするかもしれないのなら、早めに確保するしかないですからね。犯罪者を捕らえる捜査の基本ですよー」
血の気が引いた青白い顔で、偕人はあやめの方を向くと、その両肩にそっと手を置きながら切なげに語りかけた。
「すまん、あやめ、俺は二度と戻ることの出来ない遥かなる旅に出ることにした。学校の奴等にはうまく言っといてくれ。じゃ、お前とは短い付き合いだったな」
「……ついさっき、本業は教師だとか、何とか説教臭いことを言ってた人は誰ですか? それを直後に完全放棄とか、ものすごい超理論的な理屈ですね」
「忘れてくれ。俺だって辛いんだ」
偕人は一目で嘘泣きと分かる涙を拭うふりをしながら、縁側に転がっていたつっかけを足に引っかけると、生け垣の横の木戸を開けて脱兎のごとく外へと走り出た。
「あっ! 逃げないでください!!! もう!!!! 」
あやめがそう呼ぶ間も無く、偕人の姿は見えなくなった。
「このレンコンの煮物、美味しいですねー」
「お口に合ってよかったです! こっちの昆布巻きもどうですか? まだたくさんありますよ! 」
「やぁ、これも絶品ですね! 超うまいです! ご飯がすすむなぁ! 」
「……大和……お前、何見ず知らずの人んちに、堂々と上り込んで朝飯食ってんだ! 」
ぜいぜいと肩で息をつきながら、偕人が言った。
「あ、偕人さん、もう戻ってきたんですか? 」
「三十分と持たなかったですねーやっぱりなー」
「……で、俺がいない間に、なんでお前らが和気あいあいと馴れ合ってんだ、おかしいだろ! 」
「……さっき自分で勝手に出てったのに」
「俺のことはいいんだよ! あやめ、お前こんなろくに素性も知れないような、訳の分からない奴に飯を食わせて餌付けすんな! 」
「何言ってるんですか、偕人さんも似たようなもんじゃないですか」
「……」
「それに、偕人さんが戻ってくるまで、待ってていただく間に他にやることもないし、お腹も空いてるって言うから、つい……」
「朝飯なんか自分の家で喰ってこいと言え! 」
「……でもお腹が空いてるって言う人を、無下になんか出来ないし。何だか可愛そうで」
「……」
「そういえば、偕人さん、二度と戻ることが出来ない旅にしては戻ってくるの早すぎないですか? もしかして、本当は他に行くあてが全く無いとか? 」
「うるせえ、黙ってろ! 」
偕人は不機嫌全開でそう叫んだ。




