乙女心と無神経男
翌朝、目を覚ましたあやめは、改めて昨日のことを思い出し、心臓が炸裂しそうになっていた。
抱き上げられた時に耳元で聴いた、偕人の低い声が蘇ってくる。
あやめは蚊帳の中で真っ赤になりながら、うろたえていた。
―どうしよう、どうしよう、どうしよう!
「……」
おかげであやめは身支度を整えるまでに、何時もより三十分は余計にかかってしまった。
もっとも、朝は元来早めに起きる性質なので、この点に関してはむしろ何の問題も無い。
―それより一番の問題は……。
あやめは袴に着替え、何とか髪を結いあげた。
それから居間へと続く廊下をそろりと歩いていった。
ちゃぶ台のところに、偕人の後ろ姿が見えた瞬間、あやめは危うく心臓が止まりかけた。
「あやめ、どうしたんだ? 」
あやめは背後から掛けられた声に、思わず飛び上がりそうになった。
「にっ、にっ、兄様! 」
「な、なんだよ、その反応。変な奴だな―」
あやめの兄が明らかに不審げな眼差しを向けてくる。
「な、なんでもありません! とにかくなんでもないですから! 」
本当に?とでも聞きたそうな、いかにも何か言いたげな目を兄はあやめに向けたが、それ以上は何も詮索してこなかった。
「よく分からないが、早く朝飯を食べた方がいいんじゃないか? 遅刻するだろ」
「そっ、そうですね……! 」
促されるように、あやめはちゃぶ台の端に正座した。
無意識でも丁度向かい側にあぐらをかいて座っている偕人の方に目が行ってしまう。
その時、偕人が目を上げてあやめに言った。
「何だ、お前顔が真っ赤だけど熱でもあるのか? おかしくねーか? 」
―おかしいのはお前だ、お前なんだ。一体誰のせいだと思ってるんだ!
あやめはそう叫びたい気持ちを堪え、ひたすら平静を装いながら目の前に並べられた箸をとった。
「じゃあ、ごちそうさん。俺は先に行くからなー」
食事を済ませた偕人が立ち上がって、あやめには目もくれずそう言って居間から出て行った。
偕人からの自分に対する態度が何の変化も無いことに、あやめは愕然とした。
―この人にとっては、昨日のあれは大したことじゃないのー?! 強引にあんなことまでしておいて!
女学校に登校後、教室についたあやめは、今度は向ける相手の無い、壮絶で不毛な苛々を募らせていた。
「どうしたの、般若みたいなすごい顔して? 」
隣の席の同級生、桐生咲子が心配そうに言った。
「私、そんな顔してる? 」
「してるしてる! 眉間に皺! なんかあったの? 」
「なんにもないよ! 」
「どうしたの? なんか怒ってるの? 」
「怒ってないよ! 全然! そう、怒るわけないよ、あんな人に。怒るだけ無駄だし」
「はあ? 誰の話? 」
「ううん、なんでもない。本当になんでもないから! 」
そう言い掛けた、あやめは次の瞬間、思わず机に頭がめりこみそうになりかけた。
残念ながら今朝の時間割は朝の一限から、和裁で他の誰よりもあやめが一番会いたくない人物が何食わぬ顔で教室に入ってきたからだった。
―夕べのことなんか、もう全部忘れてしまえたらいいのに!
あやめは心底恨めしくなりながら、そう思った。
「美月あやめ! 宿題を忘れてきたのはこの中でどうやらお前だけのようだが、やる気のない奴は罰で廊下に立ってろ! 馬鹿が! 」
授業開始直後の教室内で相変わらずの口汚く偕人に罵られ、あやめは危うく頭の中が沸騰しそうになった。
宿題を忘れたのは確かに自分の落ち度だったのは認めざるを得ないが、余りにも納得いかない気がした。
それでも、この最低男の顔を見ながら同じ教室にいるよりかは幾分ましだと思いながら、あやめは廊下へ出た。
廊下はがらんとしていて、自分以外には誰もいなかった。
廊下越しの教室から、複数の教師達の声が聞こえてくるだけだった。
その時、廊下の奥で何かが横切ったように見えた。
「……? 」
気のせいだったのだろうか、と思い掛け、あやめが視線を戻そうとした時、自分の間近に誰かの影を感じて、あやめは思わず飛び上がりそうになった。
「……! 」
そこに居たのは、十歳くらいと思われる端正な顔立ちの少年だった。
木綿の織られ方から一目で上等と分かる藍の絣の着物を着た少年は優しい眼差しで、あやめと目が合うと微笑んだ。
「……あなた何処からこんなところまで入ってきたの? 」
そう言い掛けたあやめの前で、少年の姿が幻のようにかき消えた。
あやめは呆然と硬直し、暫くそのまま動けなかった。




