ねずみの夫婦
みなさんこんにちは。
玄人の「玄」に素人の「素」。つなぎに占め良く野原の「野」
玄素野でございます。
本作は去年(2014年現在)、学園祭の文芸誌にて発表しなかなかの好評を得た、それなりに自信があり、且つ気にいってもいる話でございます。
ある夫婦と、そこに関わる怪異とそれを知る者―――是非、ご賞味ください。
ねずみの夫婦
妻とは去年、死に別れた。
妻の名前は『夏弥』と書いて、『かや』と云う。
彼女と知り合ったのは高校二年生の春だった。かといって、特別ロマンチックな出会いがあった訳でもなく、二人の苗字が偶然にも『は行』の後半であり、席が近かったことだけが接点を持った始まりであって、それ以外に至っては『好きな歌手が同じだった』とか『部活が同じだった』とかそんなありきたりた青春の一ページすらも無かった。ちなみに私は高校生の頃は『オカルト研究部』に入部していて、そこで奇妙な友人ができたりもしたが、まあそれはどうでも良いことだ。
交際が始まったのは、同じ年の秋である。木枯らしが吹いて少しばかり肌寒くて、銀杏並木の帰り道を肩寄せ合って歩いていた時に、ふと良い香りがしたので道の脇をのぞいてみたらパン屋の看板が見えた。彼女が
「行ってみようよ」
と誘うので、ふらふらと着いて行った。布団を叩く渇いた音に耳を傾けながら、落書きで彩られた路地裏を抜けて、茶色く塗られた板チョコレートのような扉を開ける。入店してすぐに店員さんに「当店でのみお召し上がりいただけます」と忠告されてしまって、しぶしぶ席に座った。そんなタイミングで告白をされた。彼女がムードとかそういった物を気にしないのは知っていたけれど衝撃的だったし、なにより告白なのに遠慮がちな台詞のかけらのひとつも無いことには耳を疑った。
「私の夫になりなさい」
「え・・・?は?」
「直接言わない日本語の表現の美しさに気付いて欲しいなあ」
「いろいろと段取りすっぽかして何言ってんだお前。ていうか、おもいっきり直接言ってるじゃん」
「うるさい。イエスかノーかで答えなさい」
「まあ・・・イエスで」
「んー。じゃあ、なんか食べよう」
こんな感じで、私たちは始まった。受験までの一年と半年。思い切り青春を謳歌して、全力で受験に臨んだ。無事に二人で同じ大学に入学して、社会人となって同じ企業に入社した。思えば長い間一緒に居たようだ。
結婚を意識し始めたのは入社して三年経った・・・つまり彼女と交際を始めてから八年経った年から。だ。
実は彼女の実家というのが代々、寺を継いでいて、結婚するとなるとそれは婿入り。自然、私は住職となる流れだった。私はいっこうに構わなかったのですぐにでも彼女の実家に挨拶を。と思っていたのだが、思わぬところに壁があった。
私の親族だ。
普段は正月やお盆にしか我が家(我が家は一族の宗家である)に来ない割に、口ばかりだしてきた。さらに寺の跡継ぎとなると、それは反対を煽る物だったようで。しかし、そんな時に私の親父(そのころには御袋はすでに他界していた)は口やかましく首を突っ込む親族を一喝して、黙って送り出してくれた。
そんな親父が結婚式の次の日に脳卒中で急逝したときには人目をはばからずに泣いた。
私からもらい泣きしてしまっていた夏弥を慰めながら自分も泣いていて、はたから見たら泣いている女性を、男が泣きながら慰めているというなんとも格好悪い画になってしまっていた。後日、同僚に笑われた。
父の死の悲しみから立ち直るのには、そう時間を要さなかった。
もともと淡白だった性格も手伝って、私と妻は親父の急逝後、仕事にすぐに復帰できた(住職の仕事は私たちの暮らしが安定してからでいいと、お義父さんが言ってくれた)。記者の仕事をしていた私達は、同僚という関係でもあったが、しかし実を言うと妻の業績は私のそれの遥か上であって、私なんかは写真部の方々が撮影してきたものを現像して記事として使える物かどうかを判別すると云う地味な仕事だった(大事な役割ではあるのだが)。お蔭様で残業の毎日。心配した夏弥が仕事に手を貸してくれたこともあった。と、そんなエピソードを同僚たちに話してみたら、次の日の朝から『寝ず見の夫婦』と仇名をつけられていたこともあった。由来を尋ねてみると、『寝ずに写真を見つづけている夫婦』であり、さらに私達夫婦の名前の後ろに『鼠』を付け加えると、どちらも日本の現存種の鼠の名前になるから(私の名前は初鹿という)だ。と、彼らは答えた。なかなか上手くできていたので私も気に入りはしたが、夏弥はそれ以上に喜んでいて、次の年の年賀状に『鼠の夫婦は年を越しました』と大々的に、一際目を引くように載せていた。その年が丁度うまい具合に子年だったのもあって、社内でのウケはなかなかだった。
結婚生活の中で、私達は連休を利用してたくさんの所へ出掛けた。
それは有名な料亭があることで知られている町であったり、観光名所が町おこしとなって近年栄え始めた地方であったり、とんでもない高額で値付けされるような夜景が見える都市であったり。本当に、忘れてしまうほどの数の様々な場所へ出掛けて行った。
しかし、一番、心に残っていて、且つ私の中を温かくしてくれたのは『買い物に行った後の帰り道』だった。
*
両手に提げられたビニール袋の紐が手の平に食い込む。
なあに対した痛みでは無い。痛くないと言ったら嘘になるが、人に言うほどの事でも無い。中を覗いてみると、ジャガイモが二つにニンジンが一つ。安売りしていた牛肉が1トレイ。そして少し土がついた玉ねぎが一つ、牛乳が二パック入っていた。
「カレーか」
「ビーフシチューでしたー」
前を歩いていた夏弥がにこっと笑いながら振り返った。夕暮れ時の橙色の風が、彼女の濃い茶色の髪を煌びやかに舞わせている。
「カレー以外のああいうどろっとした物、お前作れたんだなあ」
「失礼ねえ・・・去年の冬にホワイトシチュー作ってあげたジャン」
「いや、だってお前あれは」
言いかけて止めた。本当は彼女が牛乳と生クリームの分量を四人分の量と間違えて作ったせいでちょっとしたスイーツが出来上がったと云う面白いエピソードなのだけれども、わざわざ喧嘩の種を作ることも無いなあと思ったからだ。
「こっち持つ。貸して。」
暇になってきたのだろうか。夏弥が左隣まで来て、私が右手に持っていたビニール袋をひったくって代わりに彼女の左手を握らせてきた。
「虫が鳴いてる・・・秋だね。そろそろ」
夏も丁度いいくらいに涼しくなってきた今日この頃で、コオロギの羽を鳴らす音が耳に流れこんでくるのが心地いい。夏弥も同じようなことを思っていたようで、目を閉じて耳を澄ましている。
「ちゃんと目は開けて歩いてろよ。ずっこけるぞ、おっちょこちょい」
「雰囲気考えてよアホ亭主」
「お前にだけは言われたくないわ」
苦笑した。
すーっと、目の前すぐのところを紅い蜻蛉が泳いでいく。
「えーっと・・・オニヤンマ?」
「あれは――夏茜だろうな」
「私、オニヤンマと羽黒蜻蛉しか知らなーい」
「なんで羽黒蜻蛉知ってるのかが限りなく謎なんだけど・・・」
「私の実家って、今はビルばっかりだけど昔は田んぼがいっぱいだったからね。『お寺さんの御嬢さん』なんて言われてちやほやされてたのよ。それで、畑仕事帰りのおじいさんが「珍しいのが居た」って言って持ってきてくれてたの」
懐かしそうに目を細める夏弥。夏茜はまだ近くをとんでいた。
「あ・・・そうだ」
「ん?なに?」
「そのおじいさんさあ、お盆にオニヤンマ捕ってきたことあったか?」
「んー・・・どうだったかなあ。でも、お盆は生き物捕っちゃダメって言われてたし、そういうところは守ってたと思う。なんで?」
「お盆はキュウリとナスの馬作るだろ?オニヤンマってそれと同じでな、お盆の時に死んだ人乗せてくるから捕っちゃいけないんだよ。人の顔があの虫にはついてるから、鬼って言われてんだよね。ま、俗説だけどね」
「でた~オカルト雑学!」
「嫌な言い方するよな、お前」
それに、オカルトじゃなくて民俗学だよ。民間伝承。
ふと見ると、上り坂が見えてきていた。落ちかけていたお日様が見えなくなったのにもその時気付いた。今頃きっと、向こう側で待っている筈だ。
「さあ、あと少しです」
「そうだな」
坂を上って、また降りて。すこし行けば我が家である。
土地は高くは無かった。高い土地を買っても仕様が無い、いずれ売ることになるのだから。
「私たちは今きっと、この辺なんだよね」
つないでいた手を離したかと思うと、坂の中腹より少し低い辺りまで登って行って、さっきのように振り返りながらそんなことを言ってきた。
私が「解らない」とでも言いたげな顔をしているのを見かねたのか、彼女は一番星が瞬き始めた空を、遠く眺めて、続けた。
「私たちの一生をこの坂に例えるならってことだよ。登って登って還暦。頂上に行ったら後はなしくずしで付き合い続けるの。死ぬまでずぅっと」
「とげのある言い方を・・・」
「でも、私はそれでいいと思ってるから。だからあなたと一緒になったんでしょ?」
「俺も・・・そう思ってはいるけれど」
煮え切らない返事が気に入らなかったのか、自分の思い切った愛のある発言をなんとなくで流されたのが気に入らなかったのかは解らないが、頬を膨らませた彼女はさっさと登って行ってしまった。
仕方なくのそのそと着いて行ってみると、彼女は頂上でふと止まった。
「どうした?」
声を掛けると、気色に満ちた笑みで彼女は振り返った。
「今まで気付かなかったけどさ、あの遠くに立ってる二本の木。ねずみが向かい合ってるみたいじゃない?」
下り坂を目でたどって、顔を上げていく。ちょうど、道が途切れて住宅街にぶつかり、目線が空に飛ぶくらいのところにそれは確かにあった。
橙色のお日様をバックに、二本の・・・杉の木だろうか。それぞれがそれぞれの方向にとがった頭を少しだけ垂らして、出しゃばった枝がそれぞれの木に二本ずつ。ちょうど「ねずみ」の耳と前足の位置から突き出ている。確かにそれは二匹のねずみだった。大きさの違う、向かい合って相手をいたわるような。まるで夫婦のような。
「ホントだ・・・へえ。ねずみ・・・ね」
苦笑した。
隣の夏弥がくすっと笑う。今日、社内放送で二人同時に呼ばれたとき、「ねずみの夫婦」とひとまとまりで呼ばれたことを思い出したのだろう。
手持無沙汰だった右手を入れていたズボンのポケット。何かが入ってきて、私の右手を握った。右隣で夏弥がはにかんでいた。
恥ずかしさを紛らわすためか、彼女はうつむきながら
「あの木、私たちみたいだね」
と言った。
私は少し間をおいてから、
「ねずみの夫婦・・だな」
と返した。きっと、こう言ってほしかったのだろう。そう思ったからだ。
私たちはそのまま手をつないで坂道を下りて行った。
頭上で烏が鳴いていた。
ビーフシチューは上出来だった。
この十数日後である。
夏弥が居なくなったのは。
無論、私に愛想を尽かして出て行ったわけではない。お惚気ではないが、仲の良さは交際当初に負けず劣らずだったはずだ。
彼女は取材に行った紛争中の某国で、ゲリラに射殺されたそうだ。
「この度は――本当に残念です」
喪服姿の部下だ。初めて見るが、やはりまだまだ若い。似合ってしまうものでは無い。
慣れないのか、出会いがしらの一言も非常におぼつかない。これもまた、慣れてしまっていい物では無いけれど。
私が何も返さない事に気まずくなったのか、彼は一度頭を下げると私の前から居なくなってしまった。
「夏弥・・・」
彼女はあの長方形の狭い部屋の中で眠っている。
向日葵のような笑顔だけは見える。決して動きはしない、弾むようなあの笑い声も聞こえてこない、ただの紙だけど。
額縁に入れられた彼女は、溢れんばかりの白百合と、大輪の白菊に囲まれている。
なあんだ・・・幸せそうじゃないか。
「初鹿―――おい。初鹿」
呼ぶ声が聞こえて、ふと振り返ってみると、付き合いの長い、同僚の瀧野が手招きをしていた。
「住職が・・・いや。お前のお義父さんか。呼んでるぞ。行って来いよ」
「しかし、来てくれた人には誰が応対するんだ?」
「永榮さんが代わりにやってくれるってよ。だからさっさと行って来い」
「解った。お義母さんにありがとうございますと言っていた・・・と、伝えておいてくれ」
私は寺の裏手に回った。
お義母さんが代わってくれるなら、心配は無用だろう。いくばくか私よりは同僚も挨拶がしやすいだろう。お義母さんは、とても強い人だから。私なんかより、ずっと。
「初鹿君。こっち。こっちさ来い」
この鬼灯寺(鬼灯は夏弥の本姓)の縁側には、裏庭が面している。立派な日本庭園なのだが、昨年の雑草取りを手伝って以来ほったらかしなようで、今じゃ荒野だ。その裏庭の少し奥。池の方から、私は声を掛けられた。
「鯉に餌やっとるけ。初鹿君も一緒にやらんか」
お義父さんはそう言うと笑顔で、食パンの耳を掲げて見せた。
黙って受け取ると、お義父さんは満足そうな顔をして、池の手前に胡坐をかいて腰掛けた。袈裟が汚れてはしまわないのだろうか。
私も続いて、隣に腰を下ろした。
池の中では鯉が、私たちの気も知らないで悠々と泳いでいる。
進行方向を切り替える為に起きた波紋であっても、その時の私には鬱陶しく思えた。
試しに餌を、ずっと留まっていた一匹の鯉に向かって垂らしてみる。
途端に尾ひれを返して逃げてしまった。
水面が揺らぐ。落ち着かず、震えている。
「それじゃあ駄目だに。そんな心じゃ、鯉は逃げるけえのお。もっと笑顔作らな。そうでもねえと、生きもんは近くに寄うてはこんて」
快活そうに、高らかに、お義父さんは私の心を読んだかのようなことを言った。
そこからはしばらく沈黙が続いた。
その間聞こえるのは、この寺の名物。水琴窟の音色だけだった。
その沁みるような音色は、私の中の何かを溶かし始めていた。
一粒一粒が私の中にあるいびつな形の石を。少しずつ。少しずつ。
不意にお義父さんが口を開いた。
「娘によくしてくれて、ありがとなあ」
「そんな・・・」
改めて言われるとなんだか照れくさい。けれどそれ以上に、その言葉を掛けられたことが悲しかった。
「できの悪い・・・とは言わん。むしろしっかりもんじゃったけえの。初鹿君にやってしまうのがもったいなかったぐらいじゃに」
「本当に、俺には勿体ないくらいの妻でしたよ」
「戯言じゃ。本気にするねえよ」
お義父さんは笑っていた。
「わしゃあの、初鹿君と一緒になってからの夏弥は、昔、キミに知り合う前に比べたら、たんと生き生きしとったように見えた」
夏弥は私と知り合った当初は、クールビューティーと言うか寡黙というか、悪く言えば地味な奴だった。きっと、お義父さんはそのころの彼女と比べて、思い返していたんだろう。それはそれは、ほんとにもう、彼女は変わったのだ。
「だからこそじゃに。わしゃあ、悔しゅうてならん。夏弥もそうじゃろう。あげんところでわけわからんうちに撃たれて死んじまったからに。そりゃもう・・・泣いとるろうにのお・・・」
お義父さんは悲しそうな顔の一つこそしていなかった。けれど、握りしめて震えている左の拳が、その無念さを物語っていた。それを見たとたんに胸の奥から何かが込みあがってくるのを感じた。同時に、お義父さんとは違う別な悔しさの塊が「何か」の中に垣間見えた。
私は思い出していた。変わり果てた彼女と対面する、一時間前の事を。
「お義父さん・・・俺、一つだけ・・・一つだけ悔しく思っている事が在るんです」
「・・・おう。行ってみや。話聞くのがわしの仕事じゃに」
私は―――
「夏弥は、飛行機に乗って。旅客機に乗って帰ってきました。けどそれは、人としてじゃなかった(・・・・・・・・・・)――――!」
異国で死亡した場合、その死体は『物』として運ばれる。料金であっても、それは乗機のそれではなく、運搬のそれである。
その国の為に。無知な多くの人々の為に。死地に赴いて不幸にも、夏のその一刻に花開き、枯れて行く向日葵の花のような儚い命を散らせた者にする待遇ではない筈だ。
ある種の規則と常識は、刻に「人」そのものを「人」として成り立たせない。
「夏弥が一人の人として帰ってこれなかった事―――俺にはそれが一番悔しい――!」
溜まっていた物が堰を切ってあふれ出した。私は、彼女がこの国にあんな姿で戻ってきてから一週間。一度たりとも涙を流せなかった。両親は既に他界。唯一の家族をも失った。拠り所が、無防備に泣きわめける場所が何処にも無かった。
それができた今。私は何にも遠慮をせずに、無防備に還れたのだ。
池のほとりの菖蒲が風に揺れて、朝露を水面に注いでいた。
お義父さんは私に、後を継ぐのを勧めなかった。
ただひたすらに「ありがとなあ」と、寂しそうに笑っていた。あるいはその笑みというのは私に向けられたものでは無いのかもしれないけれど、私はその言葉をそのまま受け取った。
私は職を捨てた。心残りが無かったわけでは無い。けれど、このまま、これまで通りに、淡々と過ごして、たくさんの事を忘れて死んでいくのが、どうしようもなく怖かっただけである。そして私は放浪者とあいなった。かといって、私の古い友人のように戸籍を捨てたわけでは無いけれど。家と金品はすべて売り払い、残ったのは思い出だけ。少し大きめのリュックサックにそれを詰めて。
私は二人の跡を辿って行くことにした。
私達の面影を捜す為に。
何も――――忘れない為に。
*
スチール製の引き戸は建てつけが悪かったようで、ぎしぎしと嫌な音を立てて私を招きいれた。
「いらっしゃい」
吊り下げられた『○×駅西口○×町観光案内センター』の看板の奥に、人のよさそうな笑顔が見えた。棚に所狭しに並べられたパンフレットから、印刷物特有の臭気が立ち込めている。思わず顔を歪めそうになったが、折角の笑顔に失礼だと感じて、急いで笑顔を繕った。受付のおばさんは不思議そうな顔をして、訛り混じりに
「タクシーけ?バスじゃったらあと一時間はせんと来いへんよ?」
と教えてくれた。しかしそれは知っていた。
「ありがとうございます・・・・・地図を一枚、いただけますか?できるだけ細かいやつ」
この町には丁度、三年ほど前に来て、郷土料理を食べて帰った。妻と一緒に。
じつはこのおばさんの事も知っていたりする。
「あいよ。二百五十円ね」
ビニールで梱包された地図を受け取って、真鍮色の大きめの硬貨と交換する。
「お釣り、二百五十円ね。楽しんでってねえ。祭りもあるで」
お釣りを受け取って、会釈を返して引き戸を開けた。陽の光が眼に痛くて、思わず目を瞑った。そのまま、ビニールを地図から剥がして頭の上で広げる。こんな時には日傘にもなったりするのだ。物は使いようで、どんな物にも変化する。
取り敢えず直射日光の来ない所を捜そう。
ぐるっと周りを見渡すと、空を眺めている大きな向日葵の奥に、バスの停留所の小屋とおぼしきものが見えた。地図を畳んで、速足で転がり込む。夏場の日陰は偉大だった。首にかけたタオルで汗をぬぐい取って、リュックサックからスポーツ飲料の入ったペットボトルを取り出して傍らに置く。停留所の席は今、二人分席が埋まっている。
「あっついなあ。」
別に後悔という訳ではないけど、多少の勿体なさはあった。
妻と来たときには冬で、心地よいくらいの場所だった。しかしまあ物は使いようだし、また、場所も同じように季節による物なのか。と、そんな風にも思う。
「えっと・・・徒然庵はどこだっけか」
先刻買った地図を舐めるように目を通す。私が目的地としている「徒然庵」というのは郷土料理をだしてくれる小料理屋だ。もちろん「つれづれあん」と読む。一度来ているから場所くらい覚えているだろうと踏んでいたのだが、どうも思い上がりだったらしい。
「何年も前だし・・・駅もすっかり変わっちゃってるしなあ」
如何せん観光興業で栄えはじめている町である。宿泊施設関係の企業は、ほとんどが土地の安いうちに買っておこうという腹積もりの連中なので(考え方は間違っていないと思うし合理的だけれど、私はそういうのは好きじゃない)、恐らく方々に出回っているのだろう。駅前にあったはずの広い田んぼが売地になっていたのは、そういった状況を顕著に表していると思う。
私は座っていた剥げかかった緑色の椅子から腰を上げた。
座ってぼんやりするのもいいかなと思ったが、さすがにまだ二十九なのでそんな年寄じみたことはしたく無かった。
炎天下に進み出るのに少しの躊躇いはあったが、まあ、古い友人が言っていたように避けては通れないのが陽の光と人間トラブルなので、ここは推して参ることにした。
停留所の屋根の影から、足を、陽炎のうねるホットプレートに一歩踏み出すと、じわりと足先から暖かい物が伝っていって、どっと暑さを感じた。そしてそのままもう一歩を踏み出そうとした。
するとだ。急に服の裾を何かに引っ張られた。同時に、ペットボトルを置き忘れたのに気付いた。ひょっとしたらペットボトルが後ろ髪を引っぱったのかと面白い事を思って振り返ってみる。
ペットボトルを持った、おかっぱの少年が居た。
年のころと言えば、恐らくはまだ、五、六歳といったところだろうか。短く、顎と額の辺りで切りそろえたおかっぱが私を見上げている。浴衣のような服を着ていて、どこかの丁稚奉公人かと錯覚したが、今は現代であり、それは無いに等しかった。何故か懐かしいような気がした。
「あ・・・」
先刻、観光案内センターのおばさんが言っていたことを思い出した。
そう言えば今日は、祭りがあるとかなんとか。
ああ、それならばそうだ。合点がいく。
少年は相変わらず私を見上げてはいるが、ペットボトルを渡してくれる様子が無い。ただただきょとんとして私を見ている。
取り敢えずペットボトルを返してほしかった。
「あ・・・ありがとう。それ、俺に持ってきてくれたのか」
おかっぱが横に揺れた。つまり返しに来てくれたわけでは無いことが判明してしまった訳だ。
ま、いっか。
別に開けたばかりのものでは無かったし。名残惜しいものでも無い。持っていたとしても中身が無くなってしまったらポイするのが関の山だったところだ。そうなってしまうならいっそ、子供の遊び道具になった方が良いだろう。諦めてその場は立ち去る事にした。
重くも軽くもない足取りで、待ち遠しいところへ足を進めた。
暖簾は上がっていなかった。
私の知っている徒然庵は既にそこにはなかった。それどころか隣に建っていたはずの和菓子屋も無かった。形も無く。跡も無く。
「そっか・・・ここもか」
ここにたどり着く道々で、改めて感じた事。
「薄々気づいてはいたけど―――改めて考えると寂しいよな」
もう、私と夏弥の思い出は、ここには何も残っていなかった。
あの時半日かけてまわった民俗博物館は閉館。昼食をとった蕎麦屋さんは後継者が居ないために閉店。小腹を満たすために立ち寄った肉まん屋のあった商店街はシャッター街と化していた。閑古鳥が鳴くなんて騒ぎではなく、烏さえも寄りついていなかった。
農作業をしていた御爺さんに訊いてみるとどうやら、町の自治体の資金の横領が発覚して以来町を出る者が相次いで、昔から過疎化の傾向があった町ではあったが、とうとう破綻してしまったようである。「観光業の件はどうしたのか」と訊くと嫌そうな顔をして首を横に振り、その為の資金が横領されていたことを話してくれた。今思うと駅前の田んぼが売地になっていたのも、ひょっとしたらこの事が原因なのかもしれない。
「昼飯・・・どうしようかな。―――なあ、正太。お前はどこか良いところ、知らないか?」
おかっぱ頭が縦に揺れた。
さっきの少年は私の後に着いてきていた。ペットボトルを抱えたまま。
彼はシャッター街を過ぎたあたりで急に懐から和紙を取り出すと、そこに墨汁で書かれているえらい達筆な字を見せてくれた。同時に自分の事を指差して、「僕だよ。これ、僕の名前だよ」とでも言いたげな目で訴えてきたのでお為ごかしに(子供相手に『お前』と呼ぶのが変な気分になってきたので)、「これ、『せいた』って読むのか?お前の名前?」と尋ねたら、とても嬉しそうな顔をして、首を縦に振ってにこにこ笑っていた。無邪気な笑顔にほだされて、私は少年の同行を図らずも認めてしまったのだ。
なるべく独りで居たかったんだけどなあ。
まあ、それはともかく。私は頷いて自信満々に先頭切って進んでいく正太に連れられて、町からだんだんと山の方に近づいて行った。
季節は夏。青い若葉が、燦々と降り注ぐ陽の光を浴びている。眩しいくらいの緑の山が眼に沁みた。
鳶は高く舞う。
しばらく歩くと正太が歩みを止めたので、おもむろに、見上げていた頭を正面に戻した。
吊り下げられた暖簾には『勿忘草』と、これもまた達筆で記されていた。建てつけの悪そうな引き戸をゆっくりと開いて中を覗く。内装は古民家をそのまま使っているようで、良い味わいを出していた。囲炉裏には網が掛けられていて、その上に平らなパンのようなものが幾枚か敷かれている。
「なんば用かね」
「ひっ!」
急に後ろから声を掛けられて、思わずおののいてしまった。振り返ると皺が深い白髪の御婆さんが腰を少し曲げて、私を訝しむような目で見ていた。
「えっと・・・ここは、なんのお店・・・なんでしょうか?」
「なんのもなにも、『粉焼き』しかねえでよ。お客さんか?食いてえなら中さへぇれ」
御婆さんは腰をさすりながら、私を促しながら、顔にとどいてもいない暖簾を邪魔そうに払いのけて店内に消えて行った。
「どうする?」
正太に尋ねると、待ちきれないというような顔で私の服の裾を引っ張って入店を促してきた。尋ねるまでも無かったことに気が付く。おかっぱの上にぽんと手を置いて、少しだけくしゃくしゃと撫でると、満足そうな顔で正太は微笑んで、私を引っ張って行ったのだった。
『粉焼き』というのはここらで特産品になっているお米をすり潰して、粉にしたものを水とよく練った後、円盤状にして、網に敷いて炭火で焼く食べ物らしい。焼き終わったら、醤油を塗って海苔に挟んで食べるのも良し。みたらし餡をかけてスイーツにするのも良し。などなど、食べ方のバリエーションは豊かだそうだ。
「美味いか?」
胡坐をかいた私の足の上にちょこんと座って、一心不乱に粉焼きを貪っている正太にそう尋ねると、持っていたそれを少しちぎって分けてくれた。口に放り込んで噛んでみると、中から濃い漬物の酸味が、口の中に広がった。
「へえ・・・こんなのがあったんだな。知らなかった。前に来たときは、見なかったけどな」
口に残っている粉焼きを咀嚼しながらそんなことを言うと、御婆さんは囲炉裏に向かってせわしなく動かしていた団扇を止めて、
「あんた、ここさ来たことあるのけ?」
と、別段興味はないが場を取り持つための義理行為だよと、丸わかりな平坦な口調で尋ねてきた。あまり話したくない事ではあったけれど、私も場を取り持つ事にした。
「はい。何年か前に妻と二人で」
「ほじゃ、やっぱりその子はあんたとその嫁さの倅か」
「ええと・・・・まあ、そういう訳では無いんですが」
「なんとねまあ!不倫か!」
「いえ、そういう訳では断じてないです」
御婆さんが見せてくれた初めての心からの表情だったが、その理由があまりにも下世話すぎてさすがに残念な気持ちになった。けれど、嬉しい事でもあった。
「親子に見えたってよ、正太」
御婆さんが奥の部屋に行ってしまったのを見送ってから、私は正太の頭を撫でながら呟いた。
私と夏弥の間に、子供はいなかった。何故かと言えば、二人とも記者の仕事が多忙に次ぐ多忙で、「一区切りついたら」にでもしないと、決して子供を育てていくことなどできなかったからだ。だからこうしている間に、親子のように見えているというのは、私にとって新鮮であって、同時にこの上なく嬉しい事だった。
そんな風に感慨にふけっていると、心地よさそうな吐息が耳に入った。もしかしてと思って正太の方を見ると、やはり気持ちよさそうな顔ですやすやと寝入っていた。幸せ。そんな顔だ。思わず、ぎゅっと抱きしめてしまった。もしかしたら正太が起きてしまいやしないかと、そんな心配もせずに。
この子はどうして、一人で居たんだろうか。なぜ、私に着いてきているのだろうか。
どうして。
こんなにも私に懐いてくれているのだろうか。
もし。
もしもだ。
夏弥が生きていて、仕事も一区切りついて、こんな可愛らしい子供ができて、ほのぼのと平凡に私達らしく、過ぎて行くなんともないような毎日を暮していられたとしたら。その時の。その時の私の気持ちは――――
こんなにも満たされず、寂しくて、複雑なものだっただろうか。
空しくなって、正太の寝顔から目を逸らした。
囲炉裏の中でくすぶっている火が、私のように見えた。
正太が目を覚ますのを待ってから、私は勿忘草を後にした。
何処に行くというあてもなく、寝ぼけ半分だった正太を背負って、あちこちを周った。
そして気付くと、陽が傾き始めていた。鳶の姿より烏の影が目立ち始め、さびれた町が、もっと寂れて見える。
そんな逢魔が刻の頃合いだった。背中で大人しくしていた正太が、小山の赤い鳥居の前で、急に私の背を叩いて、降ろせと促してきたのである。
「どうした?正太の家って、この辺りなのか?」
彼を降ろしてあげたあとにそう尋ねると、一つ頷いて、鳥居をくぐり、そこから先に続いていた石段を跳ねるように登って行った。
その時、私は或ることを思い出した。それは、ここに来た事があるという記憶。
夏弥との思い出だった。
「正太!」
私は駆けだした。遥か上で、舞うように登り続ける正太の小さな背中を追って。
数年前に来たとき、彼女は私より先に頂上まで登って、私を待っていてくれた。そして私が来るまでの間、一人の少年と遊んでいたそうだ。お参りをし終えて帰る道中、そこで引いてみた御神籤の内容で、談笑していた筈である(・・・・)。
こんな曖昧な表現を使っている理由。
それは、私が確実に着実に彼女との思い出を、記憶を、無くし始めていることの表れだった。
「こんなところで気づかされるなんて―――!」
だからこそ、私は走った。ゆっくりなんてしていたら、きっとその間に抜けて行ってしまう。
必死で登って、頂上にたどり着いたとき。二つ目の鳥居の奥。そこに正太の姿は無かった。
暗くなってきた神社の手前に、私は呆然と立ち尽くした。
そして思った。
ああ。私はまた、独りなんだな。
風が通り過ぎて行った。すべてをかっさらって行ってしまうかのように、私の中を駆け抜けて行った。
「折角だからお参りでも、していこうかな」
古ぼけた紅白の大縄が下げられた本坪に近づき、手を伸ばす。同時に風が吹いて、大縄が私の手から逃れるようにのたうった。もう少しだけ近づいて、思い切り手を伸ばして捕えてからぐっと握りしめた。力任せに右に左に揺らす。渇いた鈴の音が、暗がりの中に響いた。
二礼二拍手。こんな時でも作法を忘れないのは、私が日本人だからだろうか。それとも私だからだろうか。すくなくとも、この時の私にはその答えを導き出すことができるはずも無かった。
心に余裕が無い。こんな私を見たらきっと、お義父さんやあいつは笑うんだろうなあ。
手を合わせて目を閉じる。暗かった周りが、暗闇に変わった。
それからどれくらい経ったのかはわからない。
風に乗って、声が聞こえた。
『失う物が在るなら、残っている物もきっとあるさ。大事な物、わすれないでね?』
ゆっくりと目を開けた。正太が居るような。そんな気がしたからだ。
けれど、私の目の前にはさっきの紅白の縄が静かに揺れているだけだった。
一度として聞いたことは無いけれど、あれは確かに、『正太の声』だった。
それにしても、どういう意味なんだろう。正太もどこかに行ってしまったし、私には最早行き場が無かった。
「宿。みつかるかな」
最近伸びっぱなしの髪の毛を上から下へと掻いて、リュックサックを背負い直して振り返った。
さあ、次は何処に行くんだったかな。
お金も、おろしてこなくちゃな。
暗闇に目を細めた。石段の終点。神社の二つ目の鳥居の真ん中から、何かが登ってくるのが見えた。
「重たいなちくしょう・・・よっこらせ。あ~あ。やっと着いた。寝床だ寝床」
木箱を背負って、深編み笠を被って江戸時代の商人のような男だ。
って・・・・あれ?
「ん?あれー?・・・・初鹿?」
見覚えのある男だった。大学卒業後、すぐに戸籍を捨て、行方知れずになった私の親友。
「やあ、久方ぶりだな。元気にしてたか?初鹿」
道祖尾無似、その人だった。
*
「そりゃあ、『鼠童』だな」
まるで、三日はなにも食っていないかのようなスピードで、三百六十円の駅蕎麦を平らげた道祖尾はそう言った。
道祖尾無似。私の大学生時代の親友であり、同じサークルの仲間。現在は日本全国津々浦々をふらりふらりと渡り歩いている・・・らしい。
詳しいことは全く解らない。会ったのでさえ、何年振りかである。
「なんだよ、その『鼠童』って。そんな伝承あったっけか?」
私も学生の頃に調べてまわったから、多少の知識は有している。けれど、「鼠童」の事に関しては、思い当たる事と言えば、鼠小僧ぐらいだった。
そうして尋ね返すと、彼は唸ってから、口に咥えていた爪楊枝を手に持ち替えて続けた。
「昔からあったにはあったんだけどな。それも江戸時代の初めごろから。学者様の方々が集め損ねてたみたいでさ。たまたま俺がここに来たら、掘り出し物が出てきたってところだよ」
「ふーん・・・じゃあなんだ?「正太」と「鼠童」、なんの関わりが在るっていうんだ?」
「だーから、その子供が「鼠童」だっていってるんです」
物わかりの悪い子供を相手するような態度をとられた。昔からこういう奴ではあるが、変わらなさ具合に一抹の不安を感じざるを得なかった。三十路を前にしてこんなようでは、先が思いやられるというか。
「あの神社、目根積神社って言ってな。元は「めねずみ」って読んで、鼠を愛でる「愛鼠」と書いたんだってよ。で、その神社にまつわる話が「鼠童」って訳だ。聞きかじりの昔話だから昔から知ってたみたいに偉そうに言えたもんでも無いんだけどな」
そこまで言うと、道祖尾は座っていた椅子の横にぴったりと添えて置かれた木箱から、折り畳まれた古びた紙を取り出して、それを私に見せてくれた。
中を開くと、見慣れた顔が私を見ていた。
「正太・・・」
そこに居た正太は笑っていたが、暖かさが無かった。今日見せてくれた、あんな笑みでは無かった。もっと、なんというか無機質な感じ。
穴が開くくらいに見つめていたのを見かねたのか、道祖尾は私に質問を投げかけてきた。
「で、お前はなんて言われたんだ?鼠童に」
「何って・・・『大事なものを忘れるな』って言われたけど。どういう意味なのかはよくわかんね」
私はすぐに答えを返した。すると道祖尾はにやっと笑って、
「そっか。・・・・はは。まったく、的確過ぎて気味が悪いなやっぱし」
と言って、コップの水を飲みほした。そして、再び爪楊枝を口に咥えると、滔滔と語り始めた。
「あるところに神社があってな。そこに捨て子があったんだよ。神主さんはそいつに正太って名前を付けて、育ててやった。そのうち、正太は神社に住んでいた鼠と仲良くなって、町の人に奇妙な芸を見せたそうだ。それを聞いた地主が正太を無理矢理連れてきて芸をさせようとして、はずみで鼠を殺してしまった。それを見た正太が怒ってその場で舌を噛み切って死んじまったって話だ。つまり愛鼠神社は供養神社だってこと」
そして、最後の方に付け加えるように、
「あれは人を導く」
と、呟いた。
道祖尾は私に正太の肖像を渡すと、「家に帰れ」と一言言って去って行った。
奴がどこに行ったのかなんてのはわからない。もう二度と会えないかも知れないというのにも関わらず、えらく淡白な別れだった。もう一つ不満だったのは、蕎麦代を払わないで消えたことだが、別れた直後には動き出していた私にとってそんな事を逐一考えている暇は無かった。終電にぎりぎりに乗車して、完全に電車がストップした後は駅と線路を辿って歩き続けた。
懐かしいところへ帰ろう。その一心で。
結局、我が家に到着したのは、その日の真夜中だった。
いや。正確に言うと、到着はできなかった。
我が家のあった場所には何もなかった。
ゴールのない到着など、できるはずも無いのだ。
正太の言ったことが疑わしくなって、道祖尾もたぶらかしただけなんじゃないかと思い始めて、終いには何も信じたくなくなった。
もうここにはなにも残ってなんかいない。
夜の闇が、私の暗い気持ちをふくらませてゆく。
私はそこで立ち尽くす他なかった。飽きもせず何時間も、ずっとずっと。
辺りが薄ら明るくなってきた頃、私は車にでも轢いてもらおうかと、冗談四割真面目六割の気分で、ふらりと我が家のあった場所の手前の道路の真ん中まで飛び出した。しかし、時間が時間でどうにもならず、いつも買い物のたびに夏弥と登っていた坂を登ることにした。理由なんてなかったし、期待なんかもしていなかった。
一歩一歩。確かめるように、踏みしめる。そして進む。
そういえば、私は今、この坂のどの辺りに居るんだろうか。もう登り終えて、下っているところだろうか。ひょっとしたら、まだ頂上にすら着いていないのかもしれない。そんなことを考えながら。
頂上に到着した時、ふと首筋が暖かくなって、足元が照らされた。おもむろに振り返る。
光の筋。
朝日が昇ってきていた。雲の切れ間から光が差し込み、私を照らしていた。
頬を、つぅと何かが走り抜けて行った。「え?」と、慌ててそれを拭ったけれど、決して止まることは無かった。
「なんでだよ・・・・止まれよ・・・!」
そう怒鳴って、登ってきた太陽を睨みつけた。
その時。
私の中の氷のように固まってしまった心が一気に溶け出して、堰を切って洪水のようにあふれ出した。
そこには、鼠の夫婦が寄り添いあっていた。
相手を労わるように、励ますように、なだめるように、愛するように、見つめ合うように。そんなかたちの二本の木があった。
頭の中で、正太の笑顔が映し出され、夏弥があの神社で遊んだという少年と重なった。
そっか。正太。お前は、夏弥の事を。夏弥との思い出を、忘れないでいてくれたんだな。
そして、道祖尾が教えてくれた鼠童が生前に行っていて、怪異化してもなお人々にしていたことを思い出した。
あの子は鼠を通じて、対象の人が今最もすべきことを教えてくれるという芸を見せていたそうだ。その方法は不明だし、どういった雰囲気だったのかは知る由も無いけれど、今は、「大事なものを忘れるな」という言葉は、その芸だったんじゃないかと思う。いや。きっとそうだ。
「こんなところにあったのかぁ・・・・どうして早く」
気付けなかったんだろうか。
朝焼けの空から、雨が降ってきた。天気雨。狐の嫁入りだ。
その雨は一瞬で収まり、一瞬で私の中のわだかまりを。暗い物を全て流してくれた。
なにも無くなんかなかった。ちょっとだけ、探すところを間違えただけだった。
正太にお礼を言おうと思って、道祖尾に貰ったあの紙を開いてみた。
「お前も、喜んでくれるのか」
絵の中の正太は、一昨日魅せてくれた満足そうな笑顔だった。丁度、神社に行ったときに最後の一礼を忘れていたのを思い出して、正太をにぎったまま、太陽に、鼠の夫婦に、深々と頭を下げた。
雀の鳴き声が聞こえ始めた。
長かった一日が終わりを告げて、また新しい、計り知れない一日が始まった。
跡を追うことをやめた男は真っ直ぐ前を見つめていた。
*
縁側で猫の頭を撫でながら、私は水琴窟の音色に耳を澄ませていた。
お義父さんの後を継いでから、もう三年になる。この仕事にも、やっと慣れてきた。
「初鹿さーん。お客様ですよー」
お義母さんだ。
「有り難うございます。すぐにそちらに向かいますので、持っていてもらってください」
大声で返して、猫をそっと寝かせてから腰を上げた。袈裟の皺を払って振り返ると、三年ぶりの深編み笠が居た。
「よっ久しぶり。初鹿」
「道祖尾・・・変わらないな」
「お前はエラく変わったな・・・あんなに虚ろだったのに、今はすごくはっきりしてる」
「充実してるからな」
「そうか」
道祖尾は腰を下ろすと、悪戯っぽく笑った。
「お前、この寺に摂社作ったんだな」
「ああ」
心地よい空気が流れた。
たった一、二言の懐かしいことを呟いただけで、いろいろな事を思い出した。
「『鼠童』。会えると思ったか?愛鼠神社の摂社作れば」
「少し・・・な。会えたらいいなっていうくらいのもんだけど。結局会えなかったよ。無駄だった」
俯いてしまった。もう一度、正太に会えたらいいなと思って、私はこの鬼灯寺に摂社としてあの神社を迎えたのだ。私は今、少しだけ沈んでいた。
「そうでも無いぜ」
そんな私に、道祖尾は励ますようなことを言った。そして、腰を上げて開けっ放しの襖の陰におもむろに手を伸ばした。
「あ・・・」
奴の手に引っ張られるように、おかっぱ頭が顔を出した。
顔が急に暖かくなって、私の眼の周りを熱くさせた。
おかっぱ頭は私に近づいてきて、私にぎゅっと抱き着いた。
自然に私の口から言葉が零れた。
ずっと待ってたんだ。これくらい、言わせてくれ。臭いかもしれないけれど。
「おかえり」
羽を休めていた夏茜が飛んで行った。
如何でしたでしょうか?
感想は人それぞれでしょうけれども、なにか感じ取っていただけたら嬉しいです。
これと平行軸にあたるお話が、連載物と、短編物にも他に御座います。
おいおい投稿していこうと思いますので、どうぞその時もよろしくおねがいいたします。
ありがとうございました。
中途半端な暇つぶしを届ける、玄素野でした。