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この世ならざる存在とは、意外と近くにいる。
そうは言ってもその近さには個人差があることは言うまでもない。
例えば毎日すれ違っているかもしれないし、全く無関係で終わるかもしれないし、或いはある日突然背後に現れたりと様々である。
八上 良一はその中では三番目に該当しており、その首筋に生暖かい吐息を感じて思わず身震いしていた。
まさか、姉の誘いで始めたバイトの初日にこんな目に遭うことになるとは。
彼の頭の中はそんな思いでいっぱいどころか、パンクしそうになっていた。
繁華街の表通りから脇道に逸れた一本の狭い路地の中頃と言ったところか、傍目には人間が二人連なるようにして立ち尽くしているように見えることだろう。
しかし、実際のところは第三者らしき人影は愚か物音すらしないある種特異な空間を演出していた。
連なりの前方に立つ良一は声を上げることも出来ずに、ただ目を見開き声にならない悲鳴のようなものを上げることしか出来ないでいる。
後ろの人影は音もなく突如として良一の背後に現れ、主に精神的に優位に立ち大人しくしているのをいいことに手にしていた鞄を片手で漁り始めた。
その間もすぐ後ろでは荒い鼻息が耳に不快なリズムで飛び込み続ける。
どうやら物盗りだけのようで、いくつかお目当ての物品を抜き出すと
「声を出すか、暴れたら殺す。俺が居なくなるまでに振り向いても殺す」
とざらついた声で静かに警告を発し、スっと良一の背後から遠ざかる。
足音はしないが、気配は遠ざかりつつあるのが分かった良一は既に安心していた。
命を取られなかったから、そうだと言えばその通りだが、少し違った考えも彼の中で巡った。
あの男も不幸なものだ、と。
ゆっくりと振り返り、男の背中を見れば警戒するようなやや緩慢な動作の摺足で絶賛歩行中であった。
次に、視線をその上方に向けると何かが降って来る。
HALO降下の飛び出しの姿勢で、黒スーツに身を包んだ男である。
「おぉぉとなしくしやがれぇぇえええ!!」
掴みかかろうかと言うタイミングでそう吠えた黒スーツの男に気付いた男は、半歩後退る以上のことも出来ずにそのまま飛来物を受け止める形となった。
「っぶぁ!?」
無様な声を上げながら押し倒された男は完全に黒スーツの男にマウントを取られ、文字通りタコ殴りにされ始めた。
上方からの奇襲を受け、黒スーツの男を受け止めた際に頭部を強打しているのではないだろうか。
そんな心配しつつも良一は男に奪われていた携帯電話とは別に懐から携帯電話を取り出すと直ぐさま警察と救急に通報。
繁華街近くということもあるので、そう時間もかからずに到着するであろうと思われた。
「康正さん、そろそろやり過ぎなんじゃあ……」
通報する間も余念なく男を殴り続けた黒スーツの男に声を掛けると、ハッと我に還ったかの如く拳を振り上げた姿勢でピタリと動きが止まった。
その拳には相手のものと思われる血液が付着している。
「悪い悪い、ちょっと熱くなりすぎちまった」
とっくに気絶し時折痙攣している男の上から退いた黒スーツのは中央で分けた長めの髪を直しつつ男の懐を探る。
男から奪われた物品を手渡され、それらを手持ちのハンドバックに詰め込む。
それが終わるのを待っていた黒スーツの男に促され、その場を素早く立ち去る。
これら一連の動作の滑らかさからは慣れを感じさせていた。
既に、パトカーのサイレン音が二人の耳に入り始めていた頃合に、路地の奥の暗闇に溶け込むように二人の人影が消えた。
○●
春らしく桜が舞う並木道を歩く八上 良一はくわ、と一つ欠伸を噛むと取り出した携帯電話のディスプレイに目線を落とす。
ホーム画面にはメールの着信を知らせるアイコンが表示されており、それをタップしてメール画面を呼び出すと文面が表示される。
送信者は、実姉である八上 初菜。
同じ高校に通う先輩であり着用している制服から鞄、その中身の筆箱のペンの芯一本に至るまでを買い与えてくれた親同然の存在。
姉弟共々、親元を離れて同じ下宿先で暮らしているが初菜だが、部屋には居ないことの方が多い。
よって、こうして朝にメールのやり取りをすることで挨拶を交わしているのと同義なのだと良一は認識していた。
初めこそ慣れぬ事故か文面も長く質問事項も多かったことだが、最近では最低限のこと意外は書き込みがなくなっている。
「昨日はお疲れ様、今日はオフでいいわ」
事務的な文面のみで綴られることは、質問攻めされるよりは面倒がなくて良いと思える反面、どこか寂しく思ってしまうのは少々わがままなのかもしれない。
良一は返事を作成しつつそんな妙な気分を味わっていた。
「うん、今日家に戻ってくるなら時間をメールしといて、と」
返信のアイコンをタップし、送信完了の表示が出たのを確認してから制服のスラックスのポケットに携帯電話を仕舞う。
再び前方を向いた瞬間、一陣の風が頬を凪いで行った。
そして、数歩先を歩く女子学生のスカートが捲り上がり露わになった薄桃色の布が目線の中心に飛び込んだ。
「っ!」
可愛らしい悲鳴と共に女子学生はそれを両手でスカートを抑え、これ以上の痴態は晒すまいとした。
が、辺りを見回した拍子に後方で顔を真っ赤に紅潮させながら茫然自失とした様子の良一と目が合う。
「~っ!」
何かを言いたそうな何とも言えない表情のまま、良一に負けない程顔を赤らめた女子学生はその場から逃げ去って行ってしまう。
実に眼福、と言いたいところだが良一は年頃の女物の下着は見慣れている。
家に不定期で戻る初菜の洗濯物を一緒に洗濯することが多いからだ。
では何に目を奪われていたのかと言うと、真っ白な太腿である。
良一は脚フェチであり、特に太腿が大好きなのだ。
「って、途中から間違った解説入れるのはやめてくれよ姉さん!」
「ん?家にいる時、ニーソックスを履いた私の下半身を数秒に一回の割合でチラ見しているのは違うのか?」
気配もなく降って湧いたように良一の脇に現れたのは、件の姉である初菜。
一つ年上で同じ学園に通い、切れ長の気が強そうな目元が特徴的で、睨まれると割と怖いということは経験済みである。
何故割となのか、と問われれば簡単で本気で睨まれたことはないからだ。
しかし体型としても高校生にしては発育が良すぎるので、その性癖を持つ男ならば取り乱して罵って下さい!と言い出すやもしれない。
実際、中学時代から大いにモテていた。
「姉さんがこれみよがしにポーズをとったりするからだろうに……」
「なんのことかなー、それより、最近ちゃんと飯食ってるのか?」
「まぁ、程々にね」
一見すればは何の変哲もない、仲のいい姉弟の会話なのだが
「渡しておいた食費使ってないのか?ちょっと痩せたみたいだが」
「どこの世界の姉が一週間の食費って十万も寄越すんだよ……。使い切る方が難しいよ」
そう、自分で面倒が見れない時は良一の不自由のないよう本人曰くちょっと多めのお小遣いを渡している。
その額が実に現実離れしているのだ。
「折角地元を離れたんだし、噂のフレンチとか行けばいいだろう」
「俺は別に高いものが食べたいわけじゃないんだが」
そんな応酬をしながら、姉は鞄の中から銀行のデザインが印刷された封筒を取り出した。
「とにかく、またお姉ちゃんしばらく家を空けるから、これで美味しいもの食べてバイト頑張んなさいな」
「……ちょっと厚みがあるのが生々しくていやだな」
興味本位で中身を確認すれば発行されている中で最も高額な紙幣である一万円札が十枚。
「要らない分は貯金しとけばいい。あと、先月上げたお小遣いも全然遣ってないが、欲しいものとかはないのか?」
「いや、だからさ、何十万単位で振り込まれてても遣うアテがないんだってば……」
「新しい携帯電話でもいいし、テレビでもパソコンでも何でも買えるはずだろう?」
「いや、もう先月に入学祝いだってパソコンも買ってくれたじゃないか。わざわざ一番高いモデルのやつ、しかもモニターも複数つけて」
初菜は、良一の受験に当たっては自らが勉強を教え自分の通う大崎山学園に合格させたという自負がある。
そして半ば姉の力で合格した良一に対し、常軌を逸した褒美を与えようとしていた過去があった。
いざ合格が決まり住まいはどうするかと言う話が上がれば、学校の隣接した土地を買い上げ邸宅を建てようとしたのである。
何とか思いとどまるよう必死に説得を試みた結果、何か欲しいものを言えと言われた良一は自前のパソコンとそれを使用する環境が欲しいと言った。
それを聞いて得意顔になった初菜は任せといて!という言葉と共に携帯電話で誰かと連絡を取り始め、二日もした頃だろうか、初菜の部屋に荷物が届いたというので見に行ってみれば一見テレビかと見紛う巨大な薄型モニター複数個が連結された最新の未発売モデルが鎮座していたのだ。
何故未発売のモデルを先行で入手出来たのか、それには触れない方が良いと思い上辺は大袈裟に喜んではいたが、豪奢過ぎて逆に使うのに遠慮してしまう始末であった。
「あれ、ちょっと埃が積もってたが遣ってないのか? もっと新しいのが欲しいが言い出せないとか?」
「違うよ、豪華過ぎて使いこなせないんだよ」
「ほう、じゃあ今度お姉ちゃんがちゃんと使い方をマスターして手取り足取り、じっくりねっとりしっぽり教えてあげよう」
もしかしてそれはギャグなのか、という言葉を飲み込み別の会話にシフトさせる。
「で、昨日のアレはどうなったのさ」
「あぁ、アレ。 アレはこっちがちゃんと処理しておいたから安心していい」
初菜は事も無げにそう語る。
アレ、とは昨晩に良一が関わった事件のことを指していることは二人の間では態々確認をとるまでもない。
基本的に隠し事はお互いにはなく、極めて仲は良いのだ。
「結局、一度も当たったことないんだけど……本当に居るのかな」
「居るから、あぁやって囮まで出してるんじゃないか」
「死にかけたけどね……。 あと、変装って必要だったのか?」
純朴な質問に初菜は悪戯っぽく笑みを浮かべた。
何とも、悪そうな顔が似合うこと似合うこと。
「当然。 むしろなかったら作戦にもならない」
「勘弁してくれよ……」
良一のため息混じりの抗弁も、到底聞き入れられたとは思えない。
それでも、大人しく受け入れる気はないというアピールだけはしておかなくてはならない、という男としての小さな自尊心がそうさせたのである。
無論、自己満足以上の効果は得られなかったわけだが。
●○
大崎山学園。
有体に言ってしまえば、そこそこの進学実績を持つ私学。
とは言っても受験の倍率で言えば人気校に当たるので見た目の偏差値よりも入りにくいのが現実である。
そこへ良一が入れたことは、彼の中学時代を知っている人間から見れば異例の出来事だと証言されるほどの快挙であった、と彼自身も自認している。
人気の理由は多数あるが、一番はやはり女子の制服が可愛いということだろう。
周りの高校では基本的に言い方は悪いが古めかしいデザインの制服が多く、許されるならば他の地域の学校に態々受験するケースもある程だという。
そんな中、進学実績もありながら制服もオシャレだという学校、つまり大崎山学園があるのだから、地元の中学生からの人気を集めているのである。
「おーっす、良一」
教室に着き、鞄の仲の教科書を机の中に移す作業中に後方から声を掛けられた。
いつも通りの能天気な挨拶で、良一はそれが誰なのかがすぐに検討がついた。
「よぉ、つねっち」
今野 常吉。
何とも古めかしい名前とは裏腹にモデルなんかをやっている、長身のイケメンである。
染色などの頭髪の加工が禁じられている大崎山学園の校則に則り、普段から染めてー染めてーと言いながらも彼は律儀に黒髪で過ごしている。
「あれ、もしかして染めた?何か茶色くない?」
「日の当たり加減だろ。ちょっと色素薄いみたいだしよ」
常吉との話題の三割は頭髪の、それも染色の話が占めている。
朝出会ったらまずは染めた?と聞かれるのが最早テンプレートと化していた。
そもそも、彼との最初の会話もお前髪染めてね?と聞かれたところから始まっている。
「そっかー、染めたら言えよな。 速攻で生徒指導に垂れ込むからよ」
「絶対言わないしまず染めないから、安心しろ」
「それよりさ、昨日の晩に最近隣町で出没してた強盗が捕まったんだってな」
「みたいだな。 ボコボコにされてて、確保された時は気絶してたんだろ」
良一はそれに自分が関わっていたとは口が裂けても言えない。
それは初菜との約束であり、バイト先の掟でもある。
「おっかないよな。 夜道歩いてたら、いきなり後ろに立ってきて脅されて、財布やら盗られるんだぜ」
「そうだな。 でも、被害は若い女性ばかりだって言うし、俺らはあまり関係ないだろ」
言い聞かせるような良一の言葉に、常吉は少しムッとしたような表情を見せた。
「おいおいおい、それは言っちゃあいけないだろう」
お前は何もわかっちゃいない、と芝居がかった所作で力なく笑う良一。
その笑いは乾いており、力が篭っていなかった。
「ともかく、犯人も捕まってめでたしだよホント」
「でもさ、まだ終わらないんだろうな」
「何が?」
例の強盗は最近世間を賑わせたが、それよりも前から解決していない事件が世間を騒然とさせていた。
「連続失踪事件」
連続失踪事件。
大崎山学園のある左馬市を中心に頻発している事件で、既に失踪者数は二桁を越えているにも拘らず一切の詳細が掴めていない怪事件として、様々な脚色や尾鰭が着けられ若者の間で話題に上がっている。
被害者は女性、だったはずが男性の失踪者も出始めているのも、事件の調査の迷走に拍車をかけた。
最近のニュースの報道では、一部失踪者同士で交友関係が認められたことも公表されていたが、それがどう関わっているのかは判明していない。
「まだウチの学校の生徒は被害に遭ってないみたいだな」
「だねー。 でさ、隣の左馬商の子が一人居なくなった、ってのは知ってるか?」
常吉の思わぬ情報に、良一は驚きを隠せなかった。
左馬商、正式名称は県立左馬商業高等学校。
大崎山学園からは自転車で数分の距離にあり、当然学区は同じある。
「ウチから被害者が出るのも、時間の問題なんじゃないのか……」
「かもね。 今までは皆北左馬の人だったのが、こっちの南左馬に移って来てる」
「物騒だな、ホント」
話がひと段落し、沈黙が訪れる。
それも長くは続かなかったが。
「ねーつねっち、ちょっといいかな?」
「お、さやカーンじゃん。 おっす、どしたの?」
髪をポニーテールで纏めた、活発そうな雰囲気を醸す女子が現れ常吉に話しかけた。
しかし、その活発さは良一にとっては少々苦手な方面に現れていた。
それほど派手ではないが化粧を施し、不自然ではない程に染色しているような髪色、そしてどう見ても短すぎるスカート丈。
巷ではビッチと呼ばれる人種に相当するのだろう。
「今日さ、放課後に左馬商の女の子と遊ぶけど来る? こっちは四人なんだけど」
「いいねー、じゃあ横山とかに声かけとくわ」
「了解。 じゃ、後で集合場所とか連絡するから」
傍に居た良一には目もくれず、さやカーンなる女子は去って行った。
ふと、化粧なんかしなくても十分可愛いんだろうなぁ、などと考えてはみたが彼女の思考ではすっぴんイコール恥ずかしいという方程式が成り立っているのだろう。
「……良一も行くか?」
「はっ?」
常吉の突飛な提案に思わず声が裏返る。
「別に俺も、言えばさやカーンも構わないって言うと思うけど」
どこまで真面目なのかは推し量ることは出来ないが、間違いなく面白がられていると感じた良一はそれ以上の返事を寄越さなかった。
ここで、いいの?行く行くー、と言って溶け込めるような度胸も自信も持てないのは悪いことではない。
良一は自分にそう言い聞かせた、そのタイミングに予鈴が始業を告げた。
●○
一日が、恙無く終わろうとしていた。
眠気と空腹に耐えて午前中の授業を受け、昼食を挟んで午後の授業はさらなる睡魔との戦いに終始していた、そんな一日だ。
今日も実によく戦い抜いた、そう自分を褒めてやりたいと考えていた良一だったが、事態は急展開を迎える。
「じゃ、行こっか」
朝、常吉に話しかけていた女子、さやカーンの無駄に明るい声が周りに響いた。
それに応える高身長イケメン男子三人。
その内の一人が友人である常吉で、残り二人は遠巻きに見たことがある程度の交友とも呼べない関係性にある。
「横山も石田も、急に悪かったよマジで」
「いいさ、つねっちの誘い出し」
「つか、横やん女の子に飢えてるもんなー」
「ちょっと変なことしないでよね」
集まった五人の中で四人のコミュニティーが形成され、早速おいてけぼりを食う良一。
何とも言えない気恥かしさで既に汗をかき、一刻も早く帰りたいと希った。
何故、こんなことになってしまったのか。
理由は極めて簡単。
常吉がさやカーンに良一も連れていく旨を告げていたからだ。
帰り支度を終え、さっさと家に帰ろうと思った矢先に常吉に肩を掴まれ、ちょっと付き合えと言われてほいほいと着いていった結果が今に至っている。
「つかさ、つねっちの友達?さっきから黙ってるけど、体調悪いの?」
「あー、良一は人見知りなんだ。 良い奴なんだぜ」
「へー……」
常吉のフォローに一切興味を示さない横山は既に目線が別の方に向いていた。
「紗希、久しぶりー」
「さやかじゃん、てか男性陣マジイケメンだね」
先導していたさやカーンことさやかの友人、つまり左馬商の女子生徒なのだろう三人組がこちらを発見すると近付いてきた。
一様に全員が化粧に短いスカートという出で立ちであり、益々良一は自身の場違い感に汗の分泌量が増えたような気がした。
「じゃ、まずはボーリングだね」
企画者なのであろうさやかの提案に盛り上がる一同。
そして一歩外から控えめに合わせる良一。
時間の進みがとても遅く感じられる経験はそれほどしたことはない。
周りの景色すら歪んで見える程に緊張感が高まる。
それからどんな経緯を辿ったのだろうかは記憶にはないが、気付けばボーリング場で皆に注目されていた。
「良一君、マジ上手いね」
「つかあと一歩でパーフェクトとか鬼すげぇ!」
「え?」
突然投げかけられた賛辞に目を丸くした良一の目に飛び込んだのは、ボーリング場特有の「何故か一人は名前を間違えられる現象」によって日本人では発音が異様に難しくなった「いょういち」と記された人物のスコア表記。
第一投から第八投までずらりと並ぶストライク、そして第九投のスペア、そして第十投に再びストライク。
紛れもない高スコアだった。
「良一、お前こんなにスゲー腕前だったのかよ……」
常吉も驚嘆を隠せずにいる。
女子たちも口々に良一を褒めている中、横山だけが沈黙を守っていた。
良一は舞い上がるあまりそれに気付けないでいた。
●○
学生らしく夜も九時を回る頃にはとっくにそれぞれが家路に就き、その日が終わろうとしていた。
横山 悟。
彼もまた帰宅するため夜道を歩いていたが、その表情は決して明るいとは言えない。
原因は至ってシンプルだった。
今日の集まりで女子たちにカッコイイところを見せられなかったという自己評価である。
さやかの友人であるという左馬商の女子たちは、まずモデル仲間である常吉、石田、そして自分を見て好意的に接してくれるだろうという思惑があった。
確かに出だしまでは上手くいった感触は確かに感じられた。
ボーリング場に着くまでのトークで十分に好感度を高め、プレイでさらに高めようとしたところで思わぬ逆転が起きてしまったのだ。
八上 良一。
パッと見大人しそうなどこにでもいるモブ。
多少身につけているモノは良さそうなものであることから、それなりに金持ちなのかもしれない。
それ以外に目立った特徴や特異点はない。
そんな男が、ボーリング場に着くまで一言も発さなかった男が、すべてが終わった時に自分が積み上げたものを根こそぎかっさらって行った。
思い出すだけで胃がムカムカと締め付け、顔の歪みが止まらない。
見た目にもステータス的にも上回る自分が何故あんな奴に負けなければならないのか。
嫌な思い出が彼の脳裏を駆け巡る。
小学校から中学校にかけての、黒歴史とも言える思い出が。
「……あ?」
気が付くと、前方に人が立っていた。
携帯電話で誰かと連絡を取っていたり、タバコで一服しているわけでもなく、横山に背を向けてただ静かに佇んでいる。
ふと周りを見回すと、ぽつぽつと等間隔に設置された街灯以外の光はなく、人の姿は見えない。
「…………」
一瞬足を止めてその人物を観察する。
上着は無地のパーカーらしきものを着用しており、フードを被っている。
パンツもまたシンプルな細身のチノパン。
よく見かける無難なファッションで、上下合わせても一万円前後の安物だろう、という判断を下した横山はそこで初めて自分が極めて無駄な観察をしていたことに気付いた。
「……っち」
どちらにせよ、このまま進まなければ家には帰れない。
面倒なことになったら警察を呼べるよう、携帯の画面をすぐに通報出来るよう発信画面にしてから出来るだけ自然にその人物の横をすり抜けた。
飛びかかってきたり、凶器を突き出されて脅されたりするのではないかという考えが巡ったが、それはなかった。
心の中で小さく安堵の息を漏らすと、確認がてら後方をちらりと見遣る。
「あれ?」
いない、そう呟こうとしていた横山の口からその言葉が出ることはなかった。
●○
同時刻、とある清掃会社の看板が掲げられたオフィス内。
「あの、何故オフの僕が呼び出されてるんでしょうか……」
部屋の大きさ自体は二十畳少々と言ったところか。
内装は普通のものと変わらず、落ち着いたアイボリー色の壁紙に資料棚などが配置されてる。
が、その資料棚の中身の大半は漫画や娯楽雑誌で占められていた。
そして部屋の中央には大きなガラスが天板のテーブル、それを四方から囲むような配置でソファが置かれている。
「そりゃあ、奴が現れたって話だからな。 実動のお前が呼ばれずして誰を呼ぶんだか」
室内には二人の人間が居る。
片方はくたびれた黒スーツの男、名を土居 康正という。
年齢は推定で二十代中盤、普通の男性にしては長い黒髪がセンターで分けられている。
ハッキリ言ってしまえば、どう見てもカタギではない出で立ちをしている。
以前の仕事も用心棒だったと言うのも頷ける程ガタイが良く喧嘩も強く、そして良一のバイトのバディでもある。
「ですよね……」
室内は禁煙であることもあって、康正は良一がやってきてから常に落ち着き無くうろうろと移動し続けていた。
二者間を漂う妙な沈黙を打破すべく、勇気を持って会話を始めた良一であったが、予想以上にピリピリとした反応にすぐに口を閉ざしてしまう。
これ以上無駄口を叩けば口元を縫い合わされてしまうかもしれないという恐ろしい妄想が脳内を支配した結果でもある。
実際にこの康正という男は、キレてしまえば手が付けられない上に見境がない。
一度暴れだせば、泣こうが喚こうが、命乞いしようが立ち向かおうが止まらない。
唯一止められるのは、雇い主でもある初菜、そしてその雇い主が溺愛する良一の言葉だけである。
但し、良一の言葉も条件付きではあるが。
「……伊賀崎が着いた。 出るぞ」
オフィスの窓から外を覗いた康正の言葉に従い、良一は粛々と後に続いてオフィスを後にした。
一階の裏口から外に出ると、目の前には一台のバンが停車していた。
康正はその後部座席のスライド式のドアを躊躇なく開けると、身を屈めて車内に入った。
「おう、休みのところ悪かったな」
良一も続いて乗車しドアを閉めると、運転席から謝罪の声が耳に入った。
運転手の伊賀崎 貴樹。
康正、良一と同じ仕事をしている。
尤も、彼の仕事は運搬であるが。
因みに康正と良一は実動という役割を担っている。
「いえ、それは別に構わないですけど……」
返答を言い切ったがどうかのタイミングで、バンが発車した。
「坂下は? アイツが招集したんだろ?」
康正がどっかりと深くシートに腰掛けながら伊賀崎に問うた。
「彼女は現場で追跡に入っている。 定時連絡も今のところ無事に入ってはいるが」
「で、現在地は」
「昨日の現場のすぐ近く、左馬繁華街裏だ」
「あの、僕は、どうしたら……」
「あぁ、ええっと、今日の分は康正の足元に置いてある。 渡してやってくれ」
後部に座る康正から無言で差し出された紙袋を、良一は激しく複雑な表情で受け取ると中身を取り出して検分を始める。
そして数秒後、やっぱりと言わんばかりのため息を吐きだした。
「……じゃあ、いつも通りと言うことで」
「気の毒だ、とは思うが……俺は似合ってると思うぞ」
伊賀崎の何とも受け取りに困るフォローを愛想笑いで返すと、再び紙袋の中身を物色。
「ところで、これ、誰がいっつも調達してくるんですか?」
「俺や、康正だったらどうするよ」
「そ、そうなんですか?」
「冗談だよ。 我らが社長、君の姉さんが直々に選んでいるそうだ」
本当に伊賀崎が選んでいるのだったら、見る目が変わりそうだとは口にせずにその言葉を飲み込んだ。
●○
左馬繁華街。
昼間はごく普通の商店街のようにゆったりとした時間が流れるが、夕方も日が落ちてからは電飾が闇夜に虚構の光を強く放ち至るところで客引きの声が響き渡り喧騒に包まれる。
そこで起きるトラブルと言えば、酔っ払い同士の喧嘩や、若気の至りでついついハメを外した者の軽犯罪。
そこに最近は数々の事件が頻発していた。
その一つが、連続失踪事件。
被害者同士の共通点も疎らで犯人像も一切出てきてはいない。
誰ひとりとして目撃者はいない。
しかし、今日この車内に居る三人と現場にいる一人がその姿を捕らえようとしている。
「今までは散々、不審者やら犯罪者しか釣れなかったが、やっと報われそうだな」
「まだそうと決まったわけじゃないだろうが」
声が弾む伊賀崎に対して醒めた反応をしたのは康正。
何でも康正は初菜との雇用契約に際しては、殴り甲斐のある奴を用意していると言われていたらしく、当初はそれこそ期待で胸をいっぱいにしていたそうだが現実は違った。
来る日も来る日も待機、やっと出番になったと思えば殴り甲斐のない犯罪者ばかりだったという。
「……つっても、金払いはいいし、誰が相手でも構わないけどな」
「む、こちら本部だ、あぁ……分かった」
「坂下か」
「そうだ。 この近辺らしい、八上はもう準備に入ってくれ」
「あ、はい……」
「大丈夫、似合うはずだから」
伊賀崎の言葉に良一はがっくりと項垂れ、覚悟を決めたように上着を脱いだ。