嬉しい事と落ち込む事と
満が帰った後、上機嫌になったおかげか、いつも通りの接客態度に戻った千代は滞りなく仕事をこなした。
いつものように学校帰りの、大人のお姉さんに憧れる学生達に鑑賞されても問題ない程度に。
そして、店じまいの後の掃除などを片付けて、朝のように手を繋ぎ大好きな人の歩調に合わせて、二人の家に帰る。
「七さん!約束!」
千代は家に入った途端、がばりと七を持ち上げる。
そして彼女のうなじの毛並みにふんわりと自分の鼻面を埋めて、何度も臭いを確かめる。
そんな首筋に感じるこそばゆい感触に少し体毛を膨らませながら七は千代を止めようとする。
「千代ちゃん。先にご飯食べよ」
「その前に七さんの匂いを堪能したいです……ご飯作ったりお菓子作ったりした後の、美味しそうな七さんの匂い……一杯嗅ぎたい」
ぐりぐりと鼻先を七のうなじから鎖骨の方へ動かしながら、くぐもった声で言う千代をそれ以上止める気になれずに、彼女は千代の好きなようにさせる。
ぼんやりと、お腹すいたんだけどな、と思いながら。
「はぁ、七さんはいいなぁ。可愛くていい匂いがして、理想のお嫁さんって感じです。いいなぁ」
「いいの?自分の臭いはあんまり解らないから」
「凄く良いです!私、仕事終わった後の七さんの匂い大好きです!いつもはすぐにお風呂入っちゃうのであんまり味わえないんですけど、今日は心行くまで楽しみます!」
もぞりもぞりと毛並みとシャツの縁を掻き分け、胸の方へ進もうとする千代の鼻先を留めながら七は言った。
「やりすぎないでね。私お腹すいてるから。お風呂も入りたいし」
自分の鼻先を抑える手の毛皮に染み付いた香りも楽しみながら、千代は大変な事に気づいた、という感じで言った。
「今七さんに臭いつけてもお風呂入ったら消えちゃう!」
「そりゃあね。その為に洗うんだし」
「わ、私の臭いが移るの嫌ですか?」
「んー、私別に千代ちゃんの臭い、嫌いじゃないわよ」
「じゃあ、お風呂はいったら臭いのつけあいしましょう!」
「いいけど……その為にはまずご飯食べてお風呂入らなきゃね」
「ううっ!七さんの匂い嗅ぎたい……でも臭いの付け合いもしたい……どうしよう、どうしよう」
鼻先を七の鎖骨の辺りから離して、かちかちと歯をかみ鳴らしながら悩む千代の、豊満な胸の感触を背中に感じながら七は言った。
「落ち着いて。慌てると一番したいことを見失うよ」
「でもぉ、七さんが落ち着きすぎなんです!」
「いいから。一つずつ片付けなさい。まずは私の臭いを存分に嗅ぎなさい」
「七さん……七さん!七さん!」
仮の恋人からの許可の言葉に、先ほどより激しく、広範囲に臭いを嗅ぎ始める千代の鼻息を感じながら、この子本当に私の子と好きなんだなぁ、と七は思う。
そして、でもこんな好意をあらわにしてくる子に自分は何を返すのか、なんていうことを益体も無いと感じながらも考える。
しかし言葉はそんな七の口をついて出た。
「ねえ、私も千代ちゃんの臭いを嗅いで良い?」
千代は自分の耳を確かめるように、何度も頭の上の耳をピクピクと動かす。
そして何度も目をしばたたかせると、思い切り抱きしめていた七の身体をひっくり返すと、彼女の顔を自らの胸を包むブラウスの上に押し付けて言う。
「七さん嗅いで、私の臭い、覚えるくらい」
言われるままに、すんすんと数回鼻を鳴らす七と、胸で感じるその感覚に千代は身悶える。
尻尾の毛並みをばっと膨らませ、ぴんと立てた。
「な、七さん。私の臭いどうですか?」
「んー。いつもの臭い」
「いつもの、ですか?」
「うん。なんていうか、意識しないと嗅げない臭いっていうかな。まぁ2年も一緒に暮らしてるんだから頭にそんな風に区分されてもしかたないよね」
「それって私の臭い嗅ぎなれてるって事ですよね!そんなに嗅いでてくれたんですか!?」
ただでさえ強く抱きしめていた腕に更に力を篭めた千代の胸に、ぐっと息を詰まらせてから七はもごもごと口を動かす。
「むしろ2年一緒に過ごしてて私の臭いを嗅ぎ飽きてない千代ちゃんにびっくりだよ私は」
「私にとってはいつも七さんの匂いは新鮮ですよ」
「……ちょっと私に幻想みすぎじゃない?千代ちゃんはさぁ」
内心、とりあえずこの胸は羨ましいと思いながら、呆れたような声を七は出す。
だがそんな言葉も千代にはあまり届いていなかったのか、彼女は歌うように返す。
「だって、その日の体調でも全然匂い違うじゃないですか!あ、匂いといえば七さんって発情期でもあんまり匂い変わらないですよねー」
「ああ、私発情期軽いから……」
「軽いって言うと……あの時期になってもあんまり、その、そういう衝動がないですか?」
「ないね。私的には発情期って本当にあるの?って感じ」
七のあけすけな言い様に少しぽかんとした千代の腕の力が緩む。
それから、七が話してくれたから自分も、とでも思ったのか、千代も告白を始める。
「そうなんですか……私結構強く出るほうで」
「知ってる。声聞こえたもんね」
「えっ?」
ピシリと千代の口が止まる。
そこに更に七が追い討ちをかけた。
「発情期の時、あんまり大声でするから声が私の部屋まで届いてた。あれはきっとご近所にも聞こえてる」
「え~~~~~~!!」
両頬を手で包むようにして叫ぶ千代のリアクションのせいで、七はすっと床に下りた。
「きこ、聞こえてたんですか七さん!なんで言ってくれないんです!?」
「いやぁ、さすがにそれは……聞こえない振りも優しさかなって」
「さすがにそれは指摘してもらいたいですよ!七さんに聞かれるのはともかく、ご近所にまで聞こえてるだなんて……」
「あ、私に聞かれるのは良いんだ」
耳を倒してへたり込み、尻尾もしんなりと力なく床に這わせる千代の頭を撫でながら七が言う。
「千代ちゃん。恥ずかしいのは解ったから立って居間行こ?ここ玄関だし、汚れちゃう」
「うう、七さんってクールすぎます」
「そう?いいから立ちなさい」
くりくりと千代のつんつん髪と額と七の手の毛皮が擦れ合う。
その感触に先ほどまでの恥ずかしさを忘れたかのようにうっとりし始めた千代を見て、七は手を離した。
尻尾とジーンズが埃っぽくなってるだろうから一度外に出してはたかせるべきかと考えながら、屈みこみ七は千代の手を取る。
「ほら、立とう。それで外で一旦埃払って、ご飯を作ろう」
「……あっ、はい。すいません七さん」
「いいよ。それよりほらほら」
「はいいぃ」
七の腕力では千代を立たせる事はできない。
しかし、僅かに引かれた感覚にしたがって千代は立ち上がる。
そして大きな体と尻尾を丸めて外に出て、すぐ戻って来た。
「ほこり払いました七さん」
「よろしい。じゃあ、夕飯つくるから、いこ」
そう言ってポスポスと千代のお腹をはたく七の手に柔らかい感触が返る。
それは千代が女性だからというわけではなく、ブラウスの下に柔らかな毛の感触だ。
さらに押し込めば千代の鍛えられた腹筋の固い感触がそれに変わるだろう。
千代は趣味で身体を鍛えているのだ。
七も彼女が鍛えているのは知っているが、それによってどの程度毛皮の下に筋肉を蓄えているかは知らない。
2人の仲が『そういう段階』まで進めば別だろうが。
二人の住む家は基本的にコーギー種の体格を考慮して作られている。
当然、他の種に属する客を迎える事もあるわけだから家の大部分は規格があるのだが、台所のような作業スペースはコーギー種にあわせて作られている。
だから基本的に千代は食事を作る時はぼうっと待っていることが多かった、それが自然だからだ。
しかし今日は身体を窮屈そうに屈めながら料理を作る手伝いをしていた。
「七さん、お味噌です」
「ん。ありがと」
彼女達が作る味噌汁には出汁は入っているが具は入れない、正確には汁に風味を出したりするために入れはするが、一度入れた後引き揚げて別の皿に盛る。
これは彼女達の口の構造が飲む事と食べる事を同時にできない形状をしているからだ。
「今日はお豆腐といんげんのお味噌汁ですか。美味しそうですね」
「本当はいんげんじゃなくて、油揚げ入れられたらなーって思うんだけど。私達の口じゃね。お汁を良く吸って美味しいと思うんだけどなぁ。油揚げ」
「猿系の人達みたいな口の作りなら入れても大丈夫なんでしょうけどね。私達の口では、ですね七さん」
「ほんとにね。こういう時はああいう人達が羨ましいわ。具を揚げるお皿準備してくれるかしら」
「はい!七さんのお言いつけとあれば!」
元気良く返事をして、尻尾をゆっくり揺らしながら食器棚に向かう千代を見送りながら、七は同時に焼いていた肉の焼け具合を見る。
彼女の好みはしっかり焼いた肉だが、千代は表面をあぶった程度の焼き具合を好むので、そこは注意して焼く。
好きな調味料も違う。
千代は何もつけず和風のおろしダレを掛けるのが好きだが、七はほんのりしょっぱいと感じる程度に塩を振り掛けるのが好きだ。
肉が焼けるのを見つめる間、こんな違いがある2人でも今まで上手くやってきたのよね、と七は考える。
性格も、好みも、体格なんか大きく違う、そんな二人が同じ生活空間で過ごしてきて、お互い特に問題なく過ごしてきた。
恋人になるとそれも変わってしまうのだろうか、と七は更に考える。
そして、その思考の中に千代の存在をストレスだと感じたくないという気持ちがあることに気づく。
「もしかして私って、結構千代ちゃんの事、好き?」
呟くようなその言葉は当然のように良好な聴覚を持つ千代に捉えられ、その尻尾を大きく動かす。
「七さん!七さん!私のこと好きって今!」
「言ったわよー。でも恋人としてじゃなくて、同居人としてだからね」
「そ、そんなぁ……」
尻尾をへにゃりと垂らしながら、コンロの近くに皿を置いて千代はがっくりと肩を落とした。
そんな彼女の置いた皿の上にさっと千代の分の肉を置く。
そうしてから網杓子で味噌汁の中から茹で上がった豆腐とインゲンを出し、良く汁を切ってから更に盛り付ける。
薄い緑色の皿を焼いた肉の茶と豆腐の白、そしてインゲンの濃緑が染める。
そして自分の分の皿にも味噌汁の具を盛り付けた後は自分の肉の焼き加減を見ることに集中する。
「千代ちゃん。貴女の分出来たわよ」
「はぁい。持って行きます……」
いつもなら居間のテーブルに持っていけば尻尾を振って迎える千代が、尻尾を萎れさせてテーブルにつく。
まだ運ぶものはあれども、千代は少し休みたい気分になったのだ。
大好きな七がお見合いするというから、勢いに乗って恋人になってもらった。
しかしそれは千代の望むような変化をもたらさなかった。
恋人、その甘やかな称号を手に入れれば、二人の距離は縮まり七の小さな身体を独り占めにして、腕の中へ檻に入れるように篭らせて愛の囁きを交わせるのだと、そう思っていた。
だが現実はどうだろうと千代が内心で問えば、昼間の銅鐘の取り成しが無ければ意識して壁を作っていた七とは仕事中距離が離れていたという事実。
もし二人にああいった仲裁をしてくれる人がいなければ、あの苦痛が続いていたのかもしれないと思えば千代は眉間に皺がよるのだった。
夢見ていたものは消えて、待っていたのは冷たい現実だった。
七が冷たい人間なわけではない、もしそうなら2年前の出会いの時に住み込みの仕事など千代に与えなかっただろう。
ただ、彼女はあまりにも冷静すぎるのだ。
自分でも落ち着きがないと思う千代には、その温度差が辛い。
冷静で、でも優しい芯を持つあの人を自分が微笑ませる、そんな夢を千代は見ていたのだ。
昨日の夜から朝喫茶店の準備を始めるまでの短い間だが、確かに見ていた。
その夢から、痛みと共に目覚めただけの事だと人はいうだろう。
それでも千代はその夢を見て居たかった。
だからその痛みは強靭な彼女の心にも擦り傷を作るくらいの効果を持っていたのだ。
でも、と千代は思う。
きっとあのまま何も言わず七がお見合いをしていて、見知らぬ男と結婚していたら自分はもっと苦しんでいたと。
好きなのだ、愛していると言ってもいい、恋人に成れなくても、ただ傍に居られるだけでも良かった。
でも彼女が自分以外の誰かの隣に居る事を考えるのは、どちらかと言えば頭の良くない彼女にも明確に解る苦痛だった。
ある意味千代はその愚かさ故に今の状況を作り出してしまったとも言えるし、作り出す事に成功したとも言える。
彼女は、たとえ愚かに見える行動に見えたとしても心に従って行動をした、その事で苦悩は生まれても後悔はない。
頭を振って立ち上がった千代の耳に、七からの声が届く。
内容はただの食器運びだが、高めのその声が千代の身体に、正確には心に活動する力を与える。
「はーい!すぐ行きますよ七さん!」
今はとにかく一秒でも長く、近くにあの人の傍へ。
尻尾に力を篭めながら千代は台所へ、七の傍らへと行くのだった。