二人の隙間を埋めるキューピッド
七は千代と付き合うに当たって、とりあえずの決まりを決めた。
1、無理やりなキスやセックスはしない。
2、お店の経営時間はあくまで店主と店員。
3、こんな恋人っぽいことしたいと思ったら申告する。
4、期限は7日間。
かなり大雑把だが、あまりきつく縛りすぎてもお互い何も出来ずにお試しの恋人期間が終わってしまうと思ったので、そのあたりは適当にしたのだが。
「七さん、七さん、あーんてしてください」
「あーん」
30を越してあーんは、どうだろう。
そうは思ったが、まだ若い盛りの暫定恋人のお願いを七は聞き入れていた。
「どうですか七さん。美味しいですか?」
嬉しそうに顔の前に伸びた顎の間から舌を覗かせながら聞く千代に対する七の答えはドライなもので。
「美味しいよ。だって自分で作ったんだから」
「私があーんした効果とかないですか!?」
「んー、最初あんまり口の奥に突っ込まれてむせたりしたし別に……」
「くぅぅ~ん……」
美味しいよ、の一言で尻尾をパタパタしたかと思えば、続く言葉で眉間にしわを寄せてさっきまで振っていた尻尾を丸める。
七は千代ちゃんは百面尾ね、などと気楽に考えながら続くあーんを受け取った。
とりあえず恋人っぽいこと第一弾は、ご飯をあーんだった。
そんな益体があるとは思えない行動一つで喜びをあらわにする千代を見ていると、なんだか七は自分が酷く捻くれた、情の薄い人のような感じを受ける。
まぁ、元からそういう方面にはトンと疎かった自分がそんなバカップルのような行動を受け入れているだけでも進歩かもしれない。
そんな事を考えながらも七は千代にあーんをされて朝食を平らげた。
朝食の片づけをした後、軽く身支度を整えてからアーモンドに向かう事になるわけだが、そこでも千代のお願いは発動した。
「七さん。手、繋ぎましょ」
尻尾をぶんぶん振って手を伸ばす千代に、七は冷静に突っ込む。
「いや。手を繋ぐほど店はここから離れてないし」
「ダメ、ですか?」
屈みこんでまで見上げてくる千代を見て、なんだか本当に一生懸命だなぁこの子は、などと思いつつ七は手を差し出した。
「お店までだからね」
「はい!」
人が見たらお姉さんが少女を誘拐しているかのような絵面に見えるだろう。
しかし、そんなことは気にならないのか住宅街の中の僅かな距離を千代は身長の割りにちまちまとした歩幅で歩き出す。
自分からすれば羨ましい足の長さをしているのになぜそんなことを、と一瞬思いかけ、ああ自分に合わせているんだ、と気づく七。
彼女は千代に手を引かれ毛皮の触れあう感触を味わいながら、ぼんやりと、本当に一生懸命で……なんだか羨ましいなぁ、と思うのだった。
そして分も掛からない短い繋がりは終わりアーモンドに到着した、店の開店準備は店内の掃除から始まる。
何せ衛生に気を使わなければならない場所だ、手は抜けない。
皆毛皮が生えている関係上、料理に毛が混じる程度の事には保健所も寛容だが、さすがに食中毒などになると問題になる。
だから念入りに調理器具の周りや食器をなんと千代の二人で手分けして洗う。
それが終わったら今日のメニュー、特に甘いケーキ類の仕込みをする。
現在の所アーモンドのメインの客層は学校帰りの女子学生、甘味を食べたいお年頃のお客様なのだ。
「七さん。生地できた」
「そ。ありがとね。……なに?」
半年ほど前から任せるようになったケーキの生地作りを終わらせた千代から、七に熱視線が送られる。
そんな彼女はかなり身体をかがめている、なぜならコーギー種で体格の小さい七に合わせて作られているからだ。
調理を行い、場合によってはそのまますぐにお客様に料理をお出しするカウンターの内側は、七が注文の品を出すために床が高くなっているから。
60cmの身長差を横方向の距離を縮める為に使いながら送られる、アイスブルーのきつい瞳から送られるそれを、柳のように七は受け流す。
熱視線を心底からなんとも思っていないと言わんばかりの平常運転だ。
「仕事したら、褒めてくれると嬉しいです!」
かぱっとだらしなく顎を開けて、よだれをたらさんばかりの勢いの千代のジーンズに包まれたお尻を、生地を作業台に乗せた七がパシンと叩く。
「ひゃん!?」
「決まり忘れたの。お仕事中はきちんとする。OK?」
「お、おーけー。ごめんなさい……」
しょんぼりと尻尾を股の間に仕舞う千代を尻目に、型に生地をいれる成形に取り掛かる七だが、彼女は悪いとは思っていない。
仕事の時は恋人関係は無視というのはきちんと二人で決めた事だからだ。
だがそんな彼女も、でも、という思いが過ぎる。
本当の恋人なら、こんな時も甘やかなやり取りをするのかもしれない、という思いだ。
それも歳だけはとった功か、お試しのお付き合い1日目じゃこんなものよね、と受け流して作業を続けるのだった。
それは昼の事だった。
いつもこの時間は人が少ないのだが、常連になっている人もいるのだ。
カランとドアベルを鳴らしながら入ってきたのは近所に住むお年寄り、銅鐘 満、御歳76歳のお爺ちゃんだ。
彼は七や千代のようなふさふさした毛皮ではなく、非常に短毛で滑らかな感触を思わせる黒と茶の毛皮に上に、着物を着たドーベルマン種だ。
歳のせいか、頭頂部はつるりと禿げ上がっているが。
「いらっしゃいませ」
「おお、お邪魔するよ蓮紀伊さん」
千代に案内されるまでもなく、慣れた様子でカウンターに座る満。
「満さん、ご注文は何になさいますか?」
「ふむ……ミートボールスパをお願いしようかね」
「承りました。少々お待ちください」
注文を受け、カウンター内の調理器で早速調理に掛かる七から視線を外し、満は千代に声を掛ける。
「なぁなぁ蓮紀伊さん。なんだかえらく不機嫌な顔をしとったがなにかあったのかい?」
「不機嫌な顔してません。ちょっと寂しくて」
「寂しい、どうしたんだね。里心でもついたのかい?」
「いえ、そうじゃなくて、七さんが本当にお仕事の間は私となんともないような接し方をするのが寂しくて……」
「ほっ。古儀居さんが冷たいから寂しいと?じゃがワシには古儀居さんは普通に見えるが」
「その、実は昨日から私七さんと恋人に……」
「なんと!それは本当かね!?それは……めでたい!」
「あ、ありがとうございます」
「なるほどなぁ、古儀居さんはくーるなお人だからして。それで恋人なのにくーるなままの古儀居さんの態度が寂しいんじゃな」
「そうなんですよ。七さんほんとにクールで……私本当に恋人になれたのか不安で……」
満に話を引き出されて眉間に皺を増やしながら語る千代をちらりと見てからミートボールを焼いているフライパンに、犬型人のように顎が長い人にも食べやすいように短く長方形の板状に作られた麺とソースを絡めながら七が口を挟む。
「千代ちゃん。約束」
短い言葉にびくりと反応して、顔を伏せる千代の様子を見て、満は話の相手を七に変える。
「古儀居さん、約束ってなんだい」
「恋人同士の秘密、じゃダメですか?」
「蓮紀伊さんが笑顔になる約束ならワシもなんにもいわんのだけどなぁ。仮にも恋人になった相手にこんな顔をさせる約束はいかんよ古儀居さん」
「仮にもというか、仮ですので」
「ほっ?どういうことかな」
「言葉通り。お試し期間中なんです」
最後にお皿に盛り付けた上に少量の香草をつけて、満の前に置く。
「おまたせしました」
七のその言葉の後にすぐ食べ始めずに満は言った。
「どうも今日はご飯を食べてさようなら、という感じではないなぁ。古儀居さんや、コーヒーも頼むよ」
「承りました。はぁ、恋人同士の問題に首を突っ込むなんてお暇なんですね、銅鐘さん」
「はっはっは、まぁ暇な年寄りに付き合ってやるような気分で頼むよ古儀居さん」
それから美味を味わいながらミートボールスパをたいらげた満の前から食器が下げられる。
その後よどみなく淹れたてのコーヒーが置かれた。
それを機に、早速洗い物に掛かった七に満が質問を行う。
「とりあえず、お試し期間ちゅーのを説明してくれんかな」
この言葉に昨日の夜の話を、適当にまとめて話しながら洗い物を済ませた七の方に、千代は耳をぴくぴくと向けている。
だがとりあえずの事情は満にも伝わった様で、千代より細長い顎に手を当ててふむ、と考え込む。
そしてしばらくしてから口を開く。
「なぁ古儀居さん。公私の別をつけるのは重要だとワシも思う。だがそれで相手に対する思いやりも感じさせなくなってしまうのはいかんと思うのだよ。仮とはいえ恋人になったのだから、二人きりの間にはちぃと甘やかしてあげてもいいんじゃないかな」
「……私そんなに冷たくしているように見えます?銅鐘さん」
「古儀居さんは元々クールだからなぁ。そういう人がさらに意識して公私を分けようとすると、冷たい印象になってしまってもしかたない」
「そんなにクールに見えます?学生時代は愛らしい顔って言われてたんですけど」
「愛らしい顔のお嬢さんがつんと澄ましてれば、それはまぁ冷たくも見えますなぁ、ははは」
「はぁ、なんだか私の負けですね。銅鐘さんの恋愛とはどんなものでした?」
「そりゃあ格好つけて硬派を気取ってみたりもしましたが、やはりあれですなぁ、なんとか好きな事をお互い伝え合わないとまぁ、冷め切りますよ」
「私は別に格好つけているわけじゃないですが」
目を閉じくっと牙を剥いて、口の端を吊り上げて苦笑する七の様子に、満は舌をだして笑う。
「はっはっは。まぁ古儀居さんはどうも好きだ愛だというのに疎いようなので最初は仕方ないかもしれませんが、折を見て蓮紀伊さんを撫でてあげたりしても良いのではないですかな」
ぱちりとウィンクした満の言葉に、少し耳を倒して七は答えた。
「まぁ恋人として撫でて欲しい、というのは解るんですけれど。千代ちゃんはダメですね」
「ほっ?なぜですかな」
「一度撫でると延々撫でる事になりそうですから。それに、店主と店長が撫であってる店なんて入りにくいでしょう?」
「ふむぅ。そういわれるとなんとも言えませんな」
「そんなぁ!銅鐘さんは味方だと思ってたのに!」
満が納得しそうになるを見て千代が自分より細い満の肩に掴まって、揺さぶる。
その様子を見て脱力した、というように七の尻尾が下がる。
「千代ちゃん、貴女がそういう風に自分を抑えられないから私も仕事中は恋人関係は表にださないといってるのよ」
「でも、でも……」
「はぁ……銅鐘さん。好きは伝えるもの、ですね?」
「うむ。そのとおりだよ古儀居さん」
七の確認に、つるりと頭を撫でながら言われた満の答えにそっと目を瞑って頷いてから、千代を見上げながら七は告げた。
「帰ったら毛繕いでも匂い付けでもしていいから、仕事中は普通にしていなさい」
大好きな七からのこの言葉に、千代は一瞬全身を固めると、次の瞬間に顎を全開にして舌を垂らして、アイスブルーの瞳をまん丸に開き、尻尾をぶんぶんと振る。
その変化を見てから、満に視線を戻し七は聞いた。
「満さん。これでも好意って示さないといけないんですか?」
「はっはっは、よきかなよきかな。今の古儀居さんはちとやりすぎでしたが、その辺りの調整の感覚もこれから身に付けることですな」
「努力します。ご指導ありがとうございました銅鐘さん」
「いやいや、ただのお節介。古儀居さんと蓮紀伊さんは始めての恋人生活をもっと楽しみなさい」
「はい。千代ちゃん、そろそろ舌仕舞って顔引き締めて」
「は、はえ?はひ!」
慌てて顎を閉じ舌を引っ込めた千代だが、その尻尾は止まらなかった。
そんな彼女をちらりと見て満足そうに頷いてから、顎が長く発達した人用に口の脇から飲み物を注ぎ込む吸い口のある容器からコーヒーを飲み、満は御代を置いて店を出て行こうとする。
「毎度ありがとうございました。ほら、千代ちゃんも」
「はい!毎度ありがとうございました!私頑張ります!」
七と千代の声に、振り返らず軽く手を挙げるだけで答え満は店を出る。
その姿を見送りながら、七は家に帰ってからのことを考えてため息をつくのだった。