「モーギュルノ」
イシダさんはサークルの部長で、本当に優しい人だったんだ。
俺も何度も奢ってもらったし、すげぇ世話になった人さ。
「俺はドイツでこの話を聞いたんですよ。ドイツに一ヶ月だけホームステイしたことがありましてね。そこで出てくる山の化物、それがモーギュルノって名前でした」
俺はちょっと怖くなって言ったよ。
「山の話はまずいですって。山の化物を呼びますよ」
「平気だろ。だってここは日本じゃないか。さすがにどんな化物もドイツから日本に出張できやしないさ」
イシダさんはちょっと楽しそうに笑ってたよ。
こっちは笑う気分じゃないのにさ。
「コイツは簡単に言えば、『キャトルミューティレーション』を起こす化物ってことでした。山奥にいる獣で、熊のように大きいオオカミみたいな怪物、そうとしか俺のドイツ語じゃ理解できませんでしたね」
イシダさんは何が可笑しいのか、ずっと笑ってた。
「ただキャトルミューティレーションなんて、実際はただの自然現象なんですよね。山に登れば見ることも多いし、別に不思議な現象なんかじゃない。自然死、もしくは変死した獣は地面に横たわる。その死肉を食べるために獣や鳥が集まり、柔らかい部分から食べ始める。つまりは内蔵や腹の肉ですよね。だから体の内部だけ繰り抜かれたような変死体の獣が発生する。俺たちにとっては常識の話です」
イシダさんが同意を求めると、ヤマギワさんが一番に反応したね。
「そうだね。山を歩けばそんな死体を見ることもあるからね」
「ですよね、それが宇宙人の仕業だと思っていた人がいるなんて笑っちゃいますよ。俺はそのことを知ってたから、随分とドイツの人たちは古臭い話をするなぁ、なんて思ったんです。次の事実を知るまでね」
イシダさんは急に笑うのを止めたんだ。
あれは卑怯だったよ。
それまで笑ってたのにさ、いきなり真顔になって言うんだから。
「モーギュルノが食べるのは家畜じゃない。人間だけだ、って言うんですよ」
俺は人を食う話が嫌いなんだ。
山奥に入るなら、その危険から逃げられないんだ。
何せ食われて死んでいる死体をいくつか見たことがあるからさ。
別に珍しい話じゃない。
怪我して倒れた人間、自殺者もそう、偶然熊なんかに出くわせば、獣や鳥に食われちまうんだよ。
「モーギュルノは人だけを喰らい、皮と骨だけを残す化物だ、そう言われて絶対山や森に行くな、って脅されました。子供を山に行かせないための怪談は世界共通なんだな、って思ったものです。実際オオカミや熊もいるらしいし、俺は行く気もさらさらなかった。見知らぬ山なんか怖くて行きたくない、そこまで馬鹿じゃなかったんです」
そこまで話した時だった。
ゴトン、と何かが小屋にぶつかる音がして、小屋が大きく揺れたんだ。
その場にいた人間は思わず起き上がったよ。
みんな不安そうに互いの顔を見渡してた。
「ゆ、雪が当たったんだよな……」
先輩のヤマダさんが震えながら言ったよ。
「雪に決まってるじゃないか。この吹雪の中じゃ、どんな獣だって動けるはずがない……」
ヤマギワさんが気分を変えるように言うと、オカさんがぽつりと呟いた。
「獣だったらな」
俺は勘弁してくれって思ったよ。
やっぱり山にまつわる怪談を山でしちゃいけないんだ。
「イシダさん、もうその話止めましょうよ。なんか俺、すげぇ怖いっす」
「ああ、そうだな……。モーギュルノの話はもう止めよう。最後はそれに出くわすことになってさ、恐ろしい化物だったんだけど、もう止めような」
そこでイシダさんの話は終わりさ。
もうここは山じゃないから、どんな化物だったのか、ちょっと聞いてみたい気もするけどさ。それもできないんだ。
ああ、そうだよ。
イシダさんも死んじゃったからさ。
死んでなければ続きを聞けたのに。
何で俺をそんな目で見るんだ?
何かおかしな顔をしているか?
イシダさんは死んだ。それだけの話さ。
「やっぱり怪談は止めましょうよ。俺、怖いっす。何か楽しい話がしたいっす」
俺は必死に気分を変えようと思ったよ。
外じゃ吹雪の音が大きいし、小屋はぐらぐら揺れてるしさ。
そんな状況で聞きたい話じゃないよ。
「俺、なんか違う話しますよ。どうしようかなぁ、俺の両親のバカな話でも……」
俺が明るく声を出した時、マチダが口を開いたんだ。
マチダは俺と同級生のサークルの男さ。
それまでずっと黙っていたのに、急に喋り出したんだ。
「あの、僕の話を聞いてください。いつか、誰かに話したかったんです」
「お、おいマチダ、それ、どんな話?」
俺が尋ねると、マチダは真っ青な顔をして俺を見たよ。
寒いのかな、そう思った。
そうであって欲しいと思った。
「蛾と灰、の話です。これ、僕の祖父の身に起きた実際の話なんです」