「お前の代わりなどいくらでもいる」と婚約破棄されましたので、王妃業全437項目、丁寧にお引き継ぎいたします ~最後、殿下は「代わりが、ひとりもいない」と仰いました~
「お前の代わりなどいくらでもいる」
国賓を迎える宴は、金色の灯りと弦の調べに満ちている。その満座の中で、王太子ルーデガー殿下は立ち上がり、杯も置かずにわたくしを指した。
「エルヴィラ・ラウエンブルク。お前との婚約は解く。裁可なら、すでに頂いている。ああ、騒ぐな。所詮は些事だ」
些事。二十年が、その二文字に畳まれる。燭台の火が細く震え、甘い酒と香水の匂いを含む広間の空気だけが、わたくしより先に凍る。
わたくしは六歳でこの王宮に上がって、二十年になる。王太子の婚約者として王妃陛下のお側で仕込まれ、陛下が床に就かれた十四の年からは、代わって〈王妃業〉を回す係である。社交の裁定。冬の炭と蝋燭の割り当て。諸侯夫人の序列の調停。慈善院の冬着。どれも王妃陛下の御名で出ていく。回っているあいだ、仕事は誰の目にも見えない。
六歳の冬、垂れ幕の陰で震えていたわたくしの手を包み、最初の項目を教えてくださったのは、王妃陛下である。以来、この指は数をかぞえ、この耳はいちばん小さい声を聞き分けるためにあると、そう信じてきた。
だから殿下は、一項もご存じない。
その殿下の隣には、男爵令嬢のヴェルネリア様が、淡い絹の袖を殿下の腕に重ねて寄り添っておられる。真実の愛のお相手、なのだそうだ。
「王妃業って、お飾りのお役目なのでしょう? 二十年掛かって、殿下のお心ひとつ頂けなかった方の」
ヴェルネリア様が扇の陰で、唇だけで笑まれる。あちこちで、杯を卓へ戻す硬い音が重なり、弦の調べまで細くなる。
怒りは、来ない。浮かんだのは明日の炭の荷の順だった。息をひとつ吸うと、冷えた空気が喉を刺す。二十年、肩に食い込んでいた錘が外れ、痛いほど軽くなる自分に戸惑う。
わたくしは、いつもの作法どおりに膝を折り、一礼する。
「承知いたしました。では、王妃業全四百三十七項目、後任の方へ丁寧にお引き継ぎいたします」
「……は?」
「お引き継ぎでございます。ヴェルネリア様が、これよりお持ちになる項目にございますゆえ」
殿下の顔から、勝ち誇るために用意した表情が一枚ずつ剥がれていく。わたくしが泣いて縋る筋書きだったのだろう。
「よ、四百三十七、も……?」
声の主は、ヴェルネリア様のほうである。扇の先が、白い指のあいだでかすかに震えている。
広間の脇、太い柱の影から、女官長のベルンヒルトが静かに進み出る。手には、王家の御印の入った封書。赤い蝋の封が、灯りを鈍く返している。
「国王陛下の裁可には、一条、添うてございます。婚約解消の布告は、王妃府の引き継ぎが済んだのち。――型のとおり、しかと申し上げました」
婚姻も王妃府も、内向きのことは王妃陛下にお任せというのが国王陛下の流儀である。だから此度の裁可にも、王妃陛下のご同意が要ったはずだ。六歳の手を引いてくださった方が、それに頷かれたのだろう。意味は、いまは数えない。数えれば、指が止まる。
「台帳は、王妃府に。在り処も型も、この老骨がしかと預かってございます。問われれば、漏れなくお答えいたしまする」
「全四百三十七項。本日、お渡し済みゼロにございます」
布告はまだ先。決着は裁可とともにとうに付いていて、公になるのが引き継ぎの後になるだけである。新しく生まれたのは、わたくしの返事ひとつきり。静まり返った国賓席では、隣国の王弟エーメリヒ殿下がただ一人、盆の上の手帳に何かを書き付けておられる。燭火の下、その筆先だけが妙に楽しげに動いている。
◇
明くる朝の王妃府、第一項〈冬の炭の割り当て〉である。長机の向こうに、後任のヴェルネリア様をお迎えしている。机の端にはひと欠け、見本の樫の炭。冬の朝の光で、割り口が銀に光る。
「北棟は、頭数ではなく倍量でございます。老いた女官と、寡婦の方々がお住まいで、日が当たりませんから」
写本を開くと、乾いた紙と墨がほのかに匂う。荷の順、俵の数、運びの者の名を並べていく。ヴェルネリア様の目は、三つ目の数字のあたりで、窓の外の重い曇り空へ流れはじめた。
「炭は、寒い棟から順に。人は、声の小さい方から順に」
俵の勘定、荷駄を引く者の名、北棟の廊下のどこで風が抜けるか。写本には、肌で覚えた寒さまで書いてある。教わった順に書き足し続けて、十二年ぶんである。
壁際では、見学を願い出られた王弟殿下が、紙を擦るかすかな音を立て、手帳を構えておられる。
「いまの一行、手控えに写させて頂いても?」
「ええ、どうぞ。第一項、その頭の一行ですので」
通商のお相手の前で、恥はかけない――そう願い、説き続けて四半刻。ぱちりと硬い扇の音が、講釈も、後任の御方に届いてほしいという淡い期待も断ち切る。
「……あたくし、そういう細かなお話は苦手ですもの。炭くらい、侍女に任せますわ。まさか、こんな調子で四百三十七も続けるおつもり?」
「引き継ぎは丁寧に。それが二十年勤めた者の礼儀ですわ」
昼、第一項をお渡しし終えるころ、窓の光は曇りに沈んだままだった。ベルンヒルトが、ためらいなく台帳に筆を入れる。
「残り、四百三十六にございます」
女官長の声は、祝いにも皮肉にも聞こえない。ただの数である。棘を残さない、その平らかさがよい。
三日ののち、北棟が冷えた。
毛布を重ね、冷たい石床を擦るように廊下を行く老女官の姿が、王宮の口の端に上る。炭は頭数で割られ、三日で底をついたのだという。その姿を思えば、指の先まで冷える。宛先の主を失った紙は、いちばん高い机へのぼる。陳情は王太子殿下の机に積まれ、殿下はそれを束のまま王妃府へ回してこられる。
その晩、北棟へは王妃府の蓄えから厚手の膝掛けを届けさせてある。炭は手を離れた項――けれど慈善の冬着は、まだわたくしの手の内の項である。慈善院の冬着の名簿には、北棟の老女官と寡婦の名も載っている。せめて、その名を凍えさせたくはない。
後任の御方は「任せた侍女が悪うございますわ」と仰ったと、使いの者が目を伏せて伝えてくる。
わたくしは、紙の冷たさを指先に受けながら、束を使いの者へお返しする。
「その項目は、もうわたくしの手を離れておりますので」
廊下の先で、王弟殿下が手帳を繰りながら独りごちられる。頁を繰る低い音が、静かな石壁に残る。
「……炭が一項で、棟がひとつ」
◇
〈冬迎え〉の夜会を控えた宵、控えの間の空気が薄氷のように割れた。重い扉ごしに、楽士の調べが遠い波のように低く届いている。
「エーレンベルク家が国賓の右に座らずして、いったい、どの家が座ると仰るの?」
「先の戦役での軍功でしたら、ゼーリゲンタールこそ上でございましょう?」
甘い香りがこもる中、二人の公爵夫人が扇を盾のように構え、仕切り役のヴェルネリア様はこぼれそうな涙を目にためて立ち尽くしておられる。
「あ、あの……お二人とも、どうか、仲よく……」
仲よく、で収まるなら典礼の書は要らない。夫人がたの扇が鋭い音を立てて閉じられ、その鋭さにヴェルネリア様の肩が揺れる。開宴の鐘まで、もうわずか。耳の奥で鼓動ばかりが速くなる。
席次と序列の調停は、第九十四項。明日、お渡しするはずの項である。つまり、まだわたくしの項だ。迷いが形になるより早く、指の先が席札の並びをなぞりはじめる。二十年目の手には、頭より先に宮廷を支える癖が染みついている。
「恐れながら――今宵は国賓をお迎えする宴。序列は、〈迎える側の礼〉をもって定めるものにございます」
侍女に札の箱を持たせ、夫人がたと、目元を拭われたヴェルネリア様と連れ立って広間へ出る。燭台の光が磨かれた床を金色に染め、方々はすでに立ち並んでいた。国賓の席には王弟殿下が着いておられる。集まる視線を背に、わたくしは卓の上で席次の札を二枚だけ書き替える。
「軍功のお家は、剣の側――お客様の右へ、ゼーリゲンタール様。王妃陛下の御生家に連なるエーレンベルク様は、杯の側――王太子殿下の左へ。右は剣を、左は杯を、と申しますゆえ」
三十を数える間もなかったと思う。張りつめていた空気がほどけ、二人の夫人は扇を袖に納めると、そろってわたくしに礼を向けられた。
「まあ、お見事。さすがのお手並みですこと」
けれど、その礼は仕切り役の御方へは向かない。ヴェルネリア様の伏せたまつ毛が震え、どこかに小さなとげが刺さる。
二十年、礼というものは王妃陛下の御名に向いてきた。まっすぐこちらへ差し出された礼の受け取り方を、わたくしはまだ知らない。誇らしさより先に戸惑いが満ちて、席札を押さえる指先だけが少し熱い。
「いまの席順を裁いたのは、どなたです?」
国賓席から降りてこられたのは、あの手帳の王弟殿下である。静かな声に、広間のざわめきが潮のように引く。問いはわたくしにではない――扉のそばで杯を受けられたばかりの王太子殿下と、広間の方々へ向けられている。
王太子殿下の指は、杯の金の縁に触れたまま、行き場を失う。ご自分の宮廷が誰の手で回っていたのか、ご存じないのだから、お答えのしようがない。浮かんでくる痛みは、怒りよりも冷たい。
沈黙を引き取ったのは、わたくしである。慣れた手は、こんなときにも先回りする。
「第九十四項――明日、お渡しする項でございました」
王弟殿下は小さくうなずき、手帳に何かを書き足される。頁の端には、細かな数字がきちんと並んでいた。その数字が、小さな波を残していく。背の向こうで、冬迎えの楽が開宴を告げ、弦の音が冷えた広間を明るく震わせはじめる。
◇
引き継ぎは毎朝続いて、第百三十七項まで進んでいる。十一月も末の夕、回廊で足を止められる。
「いつまで王宮をうろつくつもりだ? 目障りだ。残りはまとめて書いて寄越せば、それでよかろう」
「承知いたしました。では、残り三百項目のうち二百九十九を、明朝までに文書にてお渡しいたします。最後の一項だけは、慣例により手渡しで」
その夜、王妃府の灯は落とさなかった。けれど、いまから書くのではない。十二年前、床に就かれる王妃陛下から『いつでも渡せるように、書いておきなさい』と頂いて以来、人知れず書き継いできた写本がある。検めて、順を揃え、箱に納めるだけである。燭台の火が揺れ、墨と乾いた紙の匂いの中で頁を繰るたび、年ごとの冬が指先を冷たく過ぎていく。最初の頁の字は、まだ幼く、懸命に背伸びをしている。この写本と一緒に、わたくしは大人になったのだと思うと、誇らしさと寂しさが同じ重さで残る。
明くる朝、木箱三十が殿下の執務室の前に並んだ。わたくしは最後の箱に付き添って、納めの立ち会いに出ている。箱にすると、二十年は思いのほか静かである。
「……いったい、どの箱から読めばよいのです?」
尚書の方々が、衣擦れの音を重ねて列を作られる。回された侍従が、途方に暮れた顔で、箱の前のわたくしまで問いに来る。お返しできる言葉は、一つしかない。
「その項目は、もうわたくしの手を離れておりますので」
箱の列の端に、王弟殿下がひっそりと立っておられた。表書きを一つ、指でなぞるように長いこと読まれてから、手帳へ丁寧に写される。口から零れたのは、吐息にまぎれそうな囁きほどの声である。
「……美しい仕事だ」
それだけ仰って、王弟殿下は去られた。その声の温もりだけが、冷えた廊下に残る。入れ替わりに、箱の山の前でヴェルネリア様の声が鋭く割れる。
「殿下は、お飾りのお役目だと仰いましたわ。あたくし、炭の数など聞いておりません」
嘲りの響きは、そこに無い。誇りが剥がれ落ち、溺れかけた者が水面へ顔を出したときのように、ただ息を求める声である。
誰も、何とも言えない。冬の朝の光が、廊下に積まれた木箱の角を白く照らしている。並んだ人々の白い息だけが、いくつも立ちのぼる。王太子殿下は箱の山を見上げ、唇を一度引き結び、それから誰にともなく仰った。
「……誰がこれを読むのだ……」
急げと命じられたのは、ご自身である。その日の夕、王妃府に招きの文が三通届いた。どの御家中も、行儀よく同じことが書いてある。うちの采配を、お願いできないか――と。どの文も、紙だけは上等である。人の値というものは、居なくなる段になって届くらしい。
ベルンヒルトが、ぱたんと音を立てて台帳を閉じる。ひと息だけ置き、いつもと変わらぬ声で申し上げる。
「文書にて二百九十九項お渡し済み。残り、一にございます」
◇
十二月五日、王妃陛下のお召しで奥の塔に上がった。
人払いを済ませた薄暗い部屋には、王弟殿下と王太子殿下も呼ばれている。枕元にはもう一つ、今朝の報せが届いていた――明日に控えた調印の式次第が、白紙のままだという。第二百六十一項は、木箱の中である。薬湯のほろ苦い匂いが冷えた空気に淀み、火鉢の炭だけが小さく鳴っている。
沈黙を破って口を開いたのは、付き添いの女官長である。
「式は、わたくしめが型どおりに立てまする。王妃陛下じきじきのお指図にて――ただ一度きりにございます。ですが、型は預かれても、裁きまではお預かりしておりませんので」
ベルンヒルトは深く頭を下げ、衣擦れの音を残した。それから顔も上げずに続ける。
「……では、次の年は、どなたがなさるのです?」
誰も、お答えにならない。炭のはぜる音だけが、返事のように落ちた。
王妃陛下が、掛け布を揺らして床の上で身を起こされる。細くなられた指が、迷いなくわたくしを招く。
「布告を引き継ぎの後にしたのは、わたくしです。あなたの二十年を、誰の目にも見える形にしてから送り出したかった。……本人へは息子の口から告げさせよと、あれほど言い付けておいたのに。あの席で聞かせてしまったことは、許しなさい」
許すも許さないも、ない。頭を振ろうとして、首がこわばり、うまく動かない。喉の奥に熱いものがせり上がる。二十年で頂いた言葉のうち、詫びだけは、受け取り方を教わっていない。
それから王妃陛下は、細い息をひとつ整え、二十年前とおなじ声で、ゆっくりと仰る。
「いつでも渡せるように、書いておきなさい」
吸った息が、喉の奥でつかえる。揺れたのは、わたくしの声のほうである。
「……覚えて……いてくださったのですね」
王妃陛下の指が、わたくしの手の甲にそっと重なる。乾いて、羽根のように軽く、それでもあたたかい。
「あれを守り抜いたのは、あなたひとりです。二十年、わたくしの名で国の内を回してきたのはあなたです。……次は、自分の名でなさい」
目の奥がじわりと熱を持ち、火鉢の明かりがにじむ。泣くのはまだ早い。項目は、あとひとつ残っている。わたくしはまだ、役目の途中にいる。
革紐を解く小さな音がして、王弟殿下が静かに進み出られる。書面が一枚、火鉢の赤い明かりの中へ差し出され、白く浮かぶ。
「四百三十七項目。私の国では、官職が三つ要る仕事です」
わたくしの目を待つように、書面を開いて見せながら、王弟殿下は続けられる。
「内務尚書付き差配官。俸給は、ここに書いてあります。十年、貴国の冬会談の段取り状を読み続けてまいりました。……その書き手を、私は探しに来たのです」
数字より先に、宛名に目が行く。エルヴィラ・ラウエンブルク。王妃陛下の御名では、ない。仕事の紙にわたくしの名が載るのは、二十年で、これが初めてである。
張りつめた空気へ割って入る声がある。枕元へ踏み込んでこられた、王太子殿下である。
「お待ちください。王妃業を知る者を、このまま国外へ出してしまうおつもりですか?」
母君は、息子を静かにご覧になる。そのまなざしだけが、冬の窓辺より冷たい。
「代わりは、いくらでもいるのでしょう? でしたら、お困りになることもございませんわね」
殿下は口を開き、言葉を探した末に、その口を閉じられる。頬に赤みが差す。
短い沈黙ののち、王弟殿下が、あらためてわたくしへ向き直られる。
「……もうひとつ、私的な申し入れがあります。――けれど、それは最後の項目がお済みになってから、あらためて伺いましょう」
書面は、わたくしの手に残された。俸給の数字の下で、署名の欄はまだ白い。その白さが、まだ見ぬ道の入口のように思える。筆を取る勇気も、手放す決心もつかないまま、夜になっても目の裏に残っていた。
◇
十二月八日の朝である。よく晴れて、石の廊下の冷えが踵から上がってくる。昨夜、ヴェルネリア様の検分と〈受け取りの署名〉が済んだ。調印の式は一昨日、女官長の型で、辛うじて立ったと聞く。使節の方々のあいだでも、「辛うじて」の一語だけが繰り返されていたらしい。
王妃府の広間で、最終項をお渡しする。両手で受け取られた指の先に、墨の色が残っている。尚書に読ませるだけでなく、ご自分の手でも読み写された、九日の痕である。
渡し終えた両手が、急に軽すぎて、胸の前で居場所をなくす。二十年、何かを持っていない朝は、いちどもなかったのである。
第四百三十七項の頁は、余白の白さが目に痛い、一枚きりである。
『第四百三十七項、王太子殿下のご機嫌の取り方。この項に、わたくしの書けることはございませんでした。二十年探して、見つからなかったのです。最初の一行は、後任の方がお書きください』
読み終えたヴェルネリア様が、頁を胸に抱くように当て、長いこと黙っておられる。火鉢の炭が小さく爆ぜる。嘲りの扇は、今日はどこにも見えない。やがて開いた唇からこぼれた声は、九日ぶんだけ掠れている。
「……あたくしにも、書けるかしら」
「九日で二百九十九をお読みになった方です。いずれ、きっと」
嫌味ではなく、勘定である。積み重なった紙の厚みと、その指に残る墨だけは、嘘をつかない。
重い扉が低く鳴り、廊下の冷気とともに王太子殿下が入ってこられる。
「待て。……話は、まだ終わっていない。王家に残れ。職はやる。女官長の上に、新しい席を作らせる」
「殿下。……その理由を、伺っても?」
「……代わりが、ひとりもいない」
「代わりでしたら、ございますわ。四百三十七項目、すべて文字にしてお渡しいたしました。足りないのは、それを二十年続けるお心だけでございます」
殿下は何かを仰りかけ、言葉を喉の奥へ戻される。二十年で、初めて見るお顔だった。あの一言を仰る前の、まだ何者でもない、ただの人の顔である。二十年、この顔を誰にも見せずに済ませてこられたのだ。
ベルンヒルトが、最後の頁を台帳に書き留める。筆の音が止まり、よく通る声を張る。
「第四百三十七項、お渡し済み。残り、ゼロにございます」
残りゼロの声とともに、控えの侍従が駆け出していく。布告は、今日の昼に官の掲示へ出る。二十年の婚約は、それで公に終わる。
小さく息を吐く音が、衣擦れにまじって重なる。広間の女官たちである。二十年、わたくしと同じ廊下を歩いてきた人たちの、これが見送りである。炭の項も、冬着の項も、いちどはこの人たちの手を通って、誰かの冷えた手へ届いた。
年かさの女官がひとり、唇をきつく結び、進み出て目元を押さえる。北棟から駆けつけたのだろう、頬は寒さに赤く、袖に毛布の毛が付いたままである。
「行ってらっしゃいませ、と……そう申し上げてよいものやら」
「ええ。では、参ります、とお答えしますわ」
領地の父からは、一行きりの文が届いていた。お前の決めたことなら、それでよい。ラウエンブルクの名は、戻る場所を残して、そう言ってくれる名である。一行きりの文字が、朝の光の中で少し滲んで見える。滲むのは、たぶん紙のせいではない。肩のこわばりが、ようやく少し緩む。
大門の前に、隣国の馬車が朝日を鈍く返して並んでいる。使節の帰りの列に、わたくしの席がひとつ増やしてある。荷は、革の鞄がひとつきり。二十年の荷物は、これで全部である。息が白くほどける。門の敷居の内と外で、風の匂いが少し違う気がする。奥の塔の窓に、白い手がひとつ挙がり、口の中で名を呼ぶより早く、すぐに下りた。
王弟殿下が、馬車の扉を押さえ、急かすことなく待っておられる。手帳は、今日は懐の中らしい。
馬車の踏み台の前で、わたくしは筆を借りて、白いままだった欄に名前を書き入れる。エルヴィラ・ラウエンブルク。自分の名で書く、最初の仕事である。
「引き継ぎ書に、私の項目はありましたか?」
「いいえ。あなたのことは、わたくしが自分でやりたいので」




