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「鮮血の暴君」と呼ばれる不眠症の皇帝陛下、私の「ヘッドスパ」で爆睡させたら、離してくれなくなりました。~処刑されるかと思ったら「お前の指がないと生きていけない」と溺愛監禁(膝枕)されています~

作者: 文月ナオ

 

 ガシャーン!!


 耳をつんざくような破壊音と共に、重厚な扉の向こうから怒号が響き渡った。


「うるさい! 水音が響く! 誰だ、中庭の噴水を止めなかった愚か者は!」


 ビリビリと廊下の空気さえ震えるような、低いけれどヒステリックな声。

 それに続いて、何かが壁に叩きつけられる鈍い音がする。


「申し訳ございません陛下! 直ちに、直ちに止めさせます!」


「遅い! 全員出て行け! これ以上俺の神経を逆撫でするなら、貴様らの首を今すぐ刎ねてやる!」


 ヒィッ、という侍従たちの短い悲鳴。


 バタン! と扉が開き、顔面蒼白になった先輩侍女たちが転がり出てきた。


みんなガタガタと震えていて、その手には手付かずの食事や着替えが握りしめられている。


 皇宮の夜は、今日も平常運転だ。


 私は廊下の隅でリネンを抱えながら、その光景をぼんやりと眺めていた。


(うわぁ……。あの怒鳴り方、あの一点張りな理不尽さ。まるで前世でよく見た『予約してないのに無理やりねじ込もうとするクレーマーのお客さま』そっくりだわ)


 ふと、懐かしい記憶が蘇る。

 ここではない別の世界。日本という国。


 そこで私は、美容師として働いていた。


 特にヘッドスパには自信があって、指名予約は三ヶ月待ち。「ゴッドハンド」なんて呼ばれて、毎日毎日、現代人のガチガチに凝り固まった頭皮と格闘していたっけ。


 過労で倒れて、気づいたらこの「シエラ」という下級侍女に転生していたわけだけど……。

 まさか異世界に来てまで、こんな職場環境に放り込まれるとはね。


「……無理よ、もう無理。殺されるわ」


「昨日はスープのスプーンが皿に当たる音がうるさいって、料理長が投獄されかけたのよ?」


「今日は噴水の水音……明日は私の衣擦れの音がうるさいって言われるかもしれないわ」


 先輩たちは涙目で囁き合っている。


 そう、今の皇帝陛下――ヴォルフガング様は、「鮮血の暴君」として恐れられている。


 即位してまだ二年。若き皇帝は常に不機嫌で、気に入らないことがあればすぐに「処刑だ」「首を刎ねろ」と口にするらしい。


 実際に処刑された人がいるかは定かじゃないけど、この殺気立った空気は本物だ。


 まあ、私には関係のない話だと思っていたんだけどね。


 私は洗濯係だし。


 シーツを干しながら、お日様の匂いを嗅いでいるのがお似合いのモブ侍女だもの。


 そう思っていたのに。


「……あ」


 先輩侍女の一人と、目が合ってしまった。

 彼女は私の顔を見た瞬間、泥船から脱出するロープを見つけたような顔をした。


「そういえば、貴女! 新入りの、シエラ……だったわよね?」


「あ、はい。洗濯係の……」


「ちょうどよかったわ! 陛下に寝酒をお持ちして!」


「えっ? でも今、『全員出て行け』って……」


「それは言葉のアヤよ! 陛下は不眠症でいらっしゃるから、強いお酒を飲まないと一睡もできないの。もしお酒を持っていかなくて、明日陛下が寝不足でさらに機嫌が悪くなったら……私たちの首が飛ぶのよ!」


 先輩は、震える手で持っていた銀のトレイを、強引に私に押し付けてきた。

 トレイの上には、最高級のクリスタルデキャンタに入った琥珀色の液体と、グラス。


「え、あの、私は作法もまだ習ってなくて……」


「大丈夫、置いてくるだけでいいの! 音を立てずに、影のように入って、置いて、消えるのよ! 貴女なら影が薄そうだから適任だわ!」


「えええええ……」


 言うが早いか、先輩たちは「後のことは頼んだわよ!」と言い捨てて、蜘蛛の子を散らすように廊下の向こうへと走り去ってしまった。

 残されたのは私と、ずっしりと重いトレイだけ。


 ……マジか。


 これ、いわゆる「生贄」ってやつよね?


 出て行けと怒鳴る暴君の部屋に、頼まれてもいない酒を持って突撃する。

 完全なる自殺行為じゃない。


「……はぁ。行きますか」


 ここで逃げたら、それこそ職場放棄で処罰されちゃうしね。

 私は覚悟を決めて、重厚な扉の前に立った。

 中からは、殺気のような重苦しい気配が漏れ出している。


 大丈夫、シエラ。

 前世では、理不尽なクレーマーのお客様だって笑顔で対応してきたじゃない。


 暴君だって人間よ。頭皮と毛根がある限り、私のお客様になり得るわ。


 そう自分に言い聞かせて、私はそっと、音を立てないように扉を開けた。




 ◇◆◇




 部屋の中は、異様なほど暗かった。

 広い寝室なのに、明かりは暖炉の残り火と、部屋の隅にある小さなランプだけ。


 重厚なカーテンはきっちりと閉ざされ、外の光も音も遮断されている。


 空気が澱んでいる。

 怒りや憎しみというよりは、もっとドロドロとした、苦痛の気配。


「……誰だ」


 部屋の奥から、呻くような声が聞こえた。

 私は息を潜めて、声の主を探す。


 いた。

 部屋の中央にある巨大な天蓋付きベッド……ではなく、その横にあるソファに、一人の男性がうずくまっていた。


 皇帝、ヴォルフガング。

 通称、ヴォルフ陛下。


 闇に溶けるような漆黒の髪。

 月光を宿したような銀色の瞳。

 整いすぎた顔立ちは、芸術品のように美しいけれど、今は苦悶に歪んでいる。


 彼は頭を抱え、こめかみを親指で強く押し込みながら、荒い息を吐いていた。


「……出て行けと言っただろう。殺されたいのか」


 鋭い眼光が私を射抜く。

 普通なら、ここで腰を抜かして「ひぃぃ!」ってなるところなんでしょうね。


 でも。

 私の目は、彼とは違うところを見てしまった。


(……うわぁ)


 私の美容師としての、そしてスパニストとしての職業魂が、警鐘を鳴らしたのだ。


 見て、あの首筋。


 ガチガチじゃない。


 胸鎖乳突筋がパンパンに張って、浮き出てる。

 肩なんて岩みたいに盛り上がってるし、何よりこめかみの血管が切れそうなくらい脈打ってる。


 あれは、ただ機嫌が悪いんじゃない。


(典型的な、眼精疲労とストレスからくる緊張型頭痛……! しかも、重度だわ)


 暗い部屋を好むのは、光過敏が出ているから。

 音に敏感なのも、偏頭痛の兆候。

 彼は暴君として振る舞っているんじゃなくて、単に「痛すぎて何も考えられない」状態なんだ。


 わかる。わかるよ陛下。


 私も前世で、繁忙期に偏頭痛を起こして、ドライヤーの音が削岩機みたいに聞こえたことあるもの。

 あの時は、話しかけてくる後輩全員に「黙って!」って叫びたかった。


 今の彼がまさにそれ。

 二十四時間、頭を万力で締め上げられているような痛みに耐えているとしたら……そりゃあ、性格も荒むわよ。処刑したくもなるわよ。


「……何を見ている」


 私が動かないことに苛立ったのか、ヴォルフ陛下がゆらりと立ち上がった。

 背が高い。

 そして、美しい顔が殺気で歪んでいるのが、もったいない。


「侍女たちが、陛下が眠れないのではないかと案じておりまして……寝酒をお持ちしました」


 私は極力静かな声で答えて、トレイをサイドテーブルに置いた。

 カチャリ、とグラスが触れる音がしただけで、彼の眉間がビクリと跳ねる。


「……酒などいらん。飲んだところで、この頭の中の鐘の音は止まない」


 彼はソファに倒れ込むように座り直し、また頭を抱えた。


「痛い……。誰か、いっそ俺の首を刎ねてくれ……」


 悲痛な呟き。


 国の頂点に立つ人が、こんな弱音を吐くなんて。

 呪いと言われているけれど、私にはわかる。


 これは「蓄積」だ。


 長い間の緊張、激務、プレッシャー。それらが筋肉を硬直させ、血流を阻害し、神経を圧迫している。


 見過ごせない。

 目の前に「極上のコリ」があるのに、放置して帰るなんて、私のプライドが許さない。


 今すぐほぐしたい。あのガチガチの筋肉を、ふにゃふにゃにしてやりたい!


 私はスカートの裾を正すと、一歩、彼に近づいた。


「……おい。近づくな」


 低い警告音。


 猛獣が威嚇するような声。


 でも、怖くはない。だって、今の彼は牙を剥いているんじゃなくて、傷口を舐めているだけだから。


「陛下。……殺したがる前に、少し楽にして差し上げます」


「は……?」


 彼が顔を上げる。

 その隙に、私はスルスルと彼の背後に回り込んだ。

 ソファの背もたれ越しに、彼と対峙する形になる。


「何をする気だ、貴様……!」


 彼が私の手を振り払おうと、腕を上げた。

 その瞬間。


 サッ。


 私は彼の手首を躱し、素早く両手を彼の頭に添えた。

 狙うは、こめかみの少し上。

 側頭筋の、一番凝り固まっているポイント。


 ここだ。


 グッ。


 親指の腹で、絶妙な力加減で圧をかける。


「……ッ、あ……!?」


 ヴォルフ陛下の動きが、ピタリと止まった。

 怒りで振り上げられた腕が、空中で停止する。

 驚愕に見開かれた銀色の瞳。


「い、た……いや、痛く……ない……?」


「痛気持ちいい、くらいがベストです。……はい、力を抜いてくださいね〜」


 私は美容室で何千回と言ってきたフレーズを、皇帝陛下に向けて口にした。


「触るな! 無礼者!」


 彼はまだ抵抗しようとする。


 でも、体は正直だ。


 長年の痛みから一瞬でも解放された脳が、「もっとやってくれ」と叫んでいるのが指先から伝わってくる。


「動くと、余計に痛みますよ。……今はただ、この『手』に身を委ねてください」


 私はゆっくりと、円を描くように指を動かし始めた。


 私の指先には、魔法なんて宿っていない。

 あるのは、前世で培った解剖学の知識と、何万人もの頭皮を揉みしだいてきた経験だけ。


 でも、この世界の人にとって、それは未知の「魔法」に近いのかもしれない。


 まずは側頭部。

 目の疲れやストレスが一番出やすい場所だ。


 ヴォルフ陛下の頭皮は、冗談抜きで岩みたいに硬い。これじゃあ血も通わないし、頭痛も起きるはずだわ。


 コリっ、ゴリっ、と指の下で筋肉が鳴る。


「……ぐ、うぅ……っ」


 陛下から、苦しげな、でもどこか甘い唸り声が漏れる。

 拒絶じゃない。これは、効いている証拠。


「はい、深く息を吐いて〜。ふぅ〜っ」


「ふ、ふぅ……」


 素直か。

 意外と素直なのか、陛下。


 言われた通りに息を吐き出す彼に合わせて、私も指に体重を乗せていく。


 次は、風池(ふうち)天柱(てんちゅう)

 首の後ろ、髪の生え際にあるツボだ。ここは眼精疲労と首コリの特効薬。


 親指をぐいっと潜り込ませて、頭蓋骨の縁を持ち上げるように押し込む。


「……ッは……!!」


 ヴォルフ陛下の背中が、ビクンと大きく跳ねた。


 そこ、効くでしょう?


 一番溜まってた場所だものね。


 じわ〜っ……と、滞っていた血流が流れ出す感覚。

 冷たかった彼の頭皮が、私の指の熱と摩擦で、少しずつ温まっていく。


「あ、あ……そこ……、そこだ……」


 あら。

 さっきまでの暴君口調はどこへやら。

 蕩けたような、懇願するような声。


「はい、ここですね。……ゆっくり、ほぐしていきますよ」


 私はリズムを変えた。

 強弱をつけて、指の腹全体で頭皮を包み込み、引き剥がすように揉みほぐす。


 シャンプーをする時のように、リズミカルに、でも力強く。


 頭皮の緊張が解けると、繋がっている顔の筋肉も緩んでいく。

 眉間の深い皺が消え、噛み締めすぎていた顎の力が抜ける。


「……ぅ……」


 ヴォルフ陛下の頭が、カクンと後ろに傾いた。

 私の胸元(もちろん服の上から)に、彼の後頭部が預けられる。

 完全に脱力した状態だ。


 重い。

 男の人の頭って、こんなに重かったっけ。


 でも、この重みこそが「信頼」の証。

 警戒心バリバリだった野生動物が、お腹を見せてくれた時のような達成感。


(すごい……。本当に綺麗な顔)


 間近で見下ろす彼の顔は、毒気が抜けて幼く見えた。

 長い睫毛が震えている。

 銀色の瞳が、とろんと潤んで、焦点が合わずに宙を彷徨っている。


「……貴様……魔法使い、か……?」


 掠れた声で、彼が問いかけてくる。


「いいえ。ただの洗濯係です」


「嘘だ……。痛みが……消えていく……。鉄の輪で締め付けられていた頭が……溶けていくようだ……」


 彼はふらりと手を伸ばし、私の手首を掴んだ。

 止めるためじゃない。

 離れないように、繋ぎ止めるための弱々しい力。


「……やめるな。……もっと……」


「はいはい。逃げませんよ」


 私は苦笑しながら、さらにマッサージを続けた。

 今度は耳周り。


 ここには自律神経を整えるツボがたくさんある。

 耳を包み込むようにして、くるくると回し、優しく引っ張る。


 ジャリ、ジャリ。

 耳の周りのリンパが流れる音がする。

 これは相当溜まってたわね。老廃物のゴミ捨て場状態。


 私の指が動くたびに、ヴォルフ陛下の呼吸が深くなっていく。

 ヒステリックな浅い呼吸から、安らかな寝息に近いリズムへ。


 彼の身体から放たれていた刺々しい殺気が、湯気のように霧散していくのがわかる。


(あら、意外とチョロ……じゃなくて、素直な患者さんね)


 もっと暴れるかと思ったけど、これなら追加コースもいけるわね。


 私は調子に乗って、最後の仕上げに入った。

 頭頂部の百会(ひゃくえ)のツボを、じっくりと、時間をかけて押し込む。


 全身の気が巡り、リラックス効果が最大になる魔法のスイッチ。


 さん、にー、いち……。


 ふっ、と指を離す。


 その瞬間。

 血流が一気に巡り、脳内に快楽物質が駆け巡ったはずだ。


「……あぁ…………」


 ヴォルフ陛下から、深いため息が漏れた。

 それは苦痛の声ではなく、極上の温泉に浸かった時のような、魂からの安堵の声だった。


 彼はもう、身じろぎもしない。

 ソファの背もたれと私の体に完全に体重を預け、泥のように脱力している。


「いかがでしたか? 少しは楽になりました?」


 私が耳元で囁くと、彼はゆっくりと瞬きをして、夢見心地のまま呟いた。


「……凄い。……頭が、軽い。……霧が晴れたみたいだ」


 彼はゆっくりと首を回した。

 コキッ、と小さな音がして、彼は驚いたように自分の首に触れる。


「首が……回る。……視界が、明るい」


 よかった。

 これで処刑は免れたかな。


 私はそっと彼から離れようとした。

 長居は無用だし。


「では、私はこれで……」


 私は一礼し、ソファの横を通り過ぎて扉へ向かおうとした。


 その時だった。


 ガシッ。


 強い力で、腕を掴まれた。

 さっきまでの弱々しさとは違う、男の人の力。


「……待て」


 ヴォルフ陛下が、私を見上げている。

 その瞳は、もう痛みで濁ってはいない。

 澄んだ銀色が、熱っぽい光を帯びて私を捕らえている。


 まるで、最高のお気に入りのおもちゃを見つけた子供のように。


「……まだだ。まだ、足りない」


「え?」


 彼は私の腕をぐいっと引っ張った。

 バランスを崩した私は、彼の膝の上に倒れ込みそうになる。


 慌てて踏ん張ったけれど、彼はそのまま体勢を変え、ソファにごろんと横になった。


 そして。

 私の太ももの上に、自分の頭を乗せたのだ。


 ……えええええ!?

 これって、膝枕!?

 皇帝陛下に膝枕!?


「へ、陛下!? 何を……!」


「……枕が硬い」


 彼は私の太ももの上で、居心地良さそうに頭をすりすりと動かした。

 銀色の髪が、私のスカート越しにさらさらと触れる。


 くすぐったい。じゃなくて、不敬! これは不敬罪では!?


「あの、ソファのクッションをお使いに……」


「お前の膝がいい。……程よく柔らかくて、温かい」


 彼は私の抗議なんて聞いちゃいない。

 完全にリラックスモードに入っている。


 さっきまでの「鮮血の暴君」はどこへ行ったの?

 今ここにいるのは、ただの甘えたがりの大型猫科動物よ。


「……手が止まっているぞ。続けろ」


 彼は私の手を取り、自分のこめかみに誘導した。

 なんて図々しい。

 でも、その手は温かくて、震えていなかった。


 仕方ないか。

 乗りかかった船だもん。


 私は観念して、膝の上の美しい頭を、再び撫で始めた。

 今度は優しく、眠りを誘うようなリズムで。


 髪を梳くように指を通すと、サラサラとした極上の手触り。


 うわ、髪質最高。天使の輪ができてるわ。

 これはスパニストとしてテンションが上がる素材ね。


 私の指の動きに合わせて、ヴォルフ陛下の呼吸が深くなっていく。

 瞼が重そうに落ちてきて、長い睫毛が頬に影を落とす。


「……ん……」


 痛みが完全に消え、その反動で強烈な睡魔が彼を襲っているようだ。


 無理もない。


 慢性的な頭痛持ちの人は、常に緊張状態で交感神経が優位になりっぱなしだもの。

 それが緩んだ瞬間、泥のような眠気が来るのは当然の生理現象だわ。


「……行くな」


 意識が混濁してきたのか、彼がボソリと呟いた。


「……え?」


「……この手、離すなよ……。離れたら……また、痛くなる……」


 彼は、私の左手を両手で包み込み、自分の頬に押し当てた。


 すり、と頬ずりをする。


 その仕草が、あまりにも無防備で、幼くて。

 母性本能をくすぐられるというか、なんというか……キュンとしちゃう。


「……ずっと、探していた……。この、温かさを……」


 最後の言葉は、寝息に溶けて消えた。


 スースー、と規則正しい寝息が聞こえ始める。

 彼は、数年ぶりかもしれない深い深い眠りに落ちていた。


 その顔は、苦悶に満ちた暴君ではなく、ただの安らかな青年の顔だった。


「……あらあら」


 私は苦笑して、彼の銀髪をそっと撫でた。


 状況を確認しましょう。


 深夜の密室。


 皇帝陛下が、私の膝の上で爆睡中。

 私の手は彼にガッチリとホールドされていて、身動きが取れない。


「……これ、私が動けないパターンか」


 トイレに行きたくなったらどうしよう。

 足が痺れてきたらどうしよう。

 朝になって誰か入ってきたら、確実に言い逃れできないわね。


 でも。


 彼の寝顔を見ていると、まあいいか、と思えてしまうのが不思議だ。


 美容師時代も、シャンプー台で寝ちゃったお客さんを起こすのは忍びなかった。


「おやすみなさい、陛下。……コリがほぐれて、何よりです」


 私は諦めて、壁にもたれかかった。

 暖炉の火がパチパチと爆ぜる音だけが響く静寂の中。


 私の膝の上には、世界で一番手のかかる、そして一番愛おしい(かもしれない)お客様が眠っている。


 私の異世界セカンドライフ、なんだか思っていたのと違う方向に転がり始めた気がするわ。


 ヘッドスパニスト改め、皇帝専属の「枕」係?

 ……まあ、それも悪くないかもしれないわね。


 私は彼の手の温もりを感じながら、長い夜を過ごす覚悟を決めたのだった。

 




 ◇◆◇





 チュン、チュン。


 どこか遠くで、小鳥のさえずりが聞こえる。

 重厚なカーテンの隙間から差し込む一筋の朝日が、私のまぶたを優しくくすぐっていた。


 ……あいたたた。


 体が、バキバキだわ。首も背中も、まるで石膏で固められたみたいに動かない。


 私は鉛のように重いまぶたを、ゆっくりと持ち上げた。

 視界に入ってきたのは、見慣れた狭い部屋の安っぽい天井……ではなく、目の前を塞ぐ黒い物体。


 艶やかな漆黒の髪。


 神様が手ずから彫り上げたかのような、整いすぎた寝顔。

 そして、私の太ももにずっしりと沈み込んでいる、温かい頭の重み。


(……あ、そうだった)


 寝ぼけた頭の中で、昨夜の記憶が急速に巻き戻される。


 怒号が飛び交う寝室、苦悶する皇帝陛下、そして私の「職業魂」が炸裂したマッサージ。


 私はヴォルフ様の頭痛を指先一つで鎮め、そのまま膝枕で寝落ちさせてしまったのだ。


 そして私も、ソファに座ったまま壁にもたれて、いつの間にか意識を手放していたらしい。


 現状確認、いきましょう。


 まず、私の足は完全に痺れて感覚がない。これはエコノミークラス症候群待ったなしね。


 次に、私の左手。まだ彼の手によって、しっかりと頬に押し当てられている。


一晩中この体勢だったの?

 そして私の右手は……無意識のうちに、彼のさらさらの髪に絡まっていた。


 でも、不思議。


 こんなに体が痛いはずなのに、ちっとも「退かしたい」と思わない。


 それどころか、彼の規則正しい寝息を感じているだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。


 こんなに無防備で、愛おしい寝顔。

 私だけが知っている、暴君の素顔。


(……もっと、見ていたいかも)


 私はそっと、彼の髪を指で梳いた。

 絹糸のような手触りが、指先に心地いい。


「……んぅ……」


 膝の上で、ヴォルフ様が身じろぎをした。

 私の心臓がドキンと跳ねる。


 長い、本当に長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開かれる。


 現れたのは、朝露に濡れたような、吸い込まれそうに澄み切った銀色の瞳。


 目が、合った。

 至近距離で。


「……おはようございます、陛下」


 私はなるべく平静を装って、震える声で挨拶した。内心は心臓バクバクで、冷や汗が止まらないけれど。


 だって、相手は寝起きの皇帝陛下よ? しかも「鮮血の暴君」よ?


 もし機嫌が悪かったら、私の膝が硬かったとかいう理由で、その場で首が飛ぶかもしれないじゃない。


 ヴォルフ陛下は、ぼんやりと私を見上げている。

 まだ夢の中にいるような、とろんとした無防備な目つき。

 昨夜の刺々しさが嘘みたいに、幼くさえ見える。


「……あ……?」


 彼はゆっくりと体を起こした。


 私の膝から重みが消え、代わりに血流が一気に戻る痺れがジンジンと襲ってくる。


 ううっ、痛い。でも顔に出しちゃダメ。


 彼は自分の額に手を当て、次に首を回し、そして信じられないものを見るような目で、自分の手のひらを見つめた。


「……痛く、ない」


 ポツリと、呟きが落ちる。


 それは、歓喜というよりも、もっと深い、救済の響きを持っていた。


「鐘の音が……消えた。ずっと頭を締め付けていた鉄の輪が、外れたみたいだ。……静かだ」


 彼は窓の外を見た。


 いつもなら「うるさい」と怒鳴り散らしていたはずの小鳥の声に、静かに、愛おしそうに耳を傾けている。


「……こんなに深く眠ったのは、何年ぶりだろう。……いや、生まれて初めてかもしれない」


 ふと、サイドテーブルに目をやると、昨夜私が置いた手付かずの寝酒が、朝日を浴びて寂しそうに輝いていた。


 結局、彼は一滴も飲まなかったのだ。


 アルコールの力なんて借りなくても、私の手だけで、こんなに深く眠れたなんて。


 陛下が、ゆっくりと私に向き直った。


 その瞳が、ゆらりと揺らめく。


 昨夜の弱々しさは消え、代わりに宿っているのは――獲物を見つけた肉食獣のような、強烈な光。


 ゾクリ、と背筋が震えた。


 殺気じゃない。

 もっと熱くて、粘着質で、逃げ場のない「何か」。


「名は、なんと言う」


「えっ? あ……シエラと……申します」


「シエラ……。俺に何をした?」


 彼は私の手首を掴み、グイと引き寄せた。


 顔が近い。整いすぎた顔面が視界を埋め尽くす。

 吐息がかかる距離で、銀色の瞳が私の中身まで暴こうとしている。


「ただのマッサージです。……少しは、楽になられましたか?」


「楽だと? そんな生温い言葉じゃない。……生まれ変わった気分だ」


 彼は私の手のひらを広げ、まじまじと見つめた。

 荒れた指先。毎日の水仕事でかさついた肌。貴族の女性のような白魚の手とは程遠い。


 恥ずかしくて引っ込めようとしたけれど、彼の力は岩のように強くて、びくともしない。


「この手が、俺を救ったのか。……この細い指が、あの地獄から俺を引きずり上げたのか」


 彼は、私の手のひらに顔を埋め、深く息を吸い込んだ。

 そして、指の腹、掌、手首の内側へと、祈りを捧げるように何度も口づけを落としていく。


 チュッ、チュ……という、優しい音が静かな部屋に響く。


「……ん……いい匂いだ」


「へ、陛下っ!?」


「昨夜、夢の中でずっとこの香りがしていた。……おかげで、もっと深いところが満たされて目が覚めた」


 彼は熱っぽい瞳で私を見上げながら、私の手のひらに自分の頬を擦り付けた。

 スリスリと、私の体温を貪るように。


「もう、離さない。……お前は俺の『薬』だ。絶対に手放したりしない」


 その瞳は、獲物を狙う獣というより、ようやく見つけた宝物を抱え込む子供のように必死だった。




 その時。


 カチャ……。


 部屋の扉が静かに開く。


「失礼いたします。陛下。朝でございます。昨夜は静かでしたが、ご気分は……」


 小声で入ってきたのは、侍従長と数名の侍女たち。

 陛下は音を嫌う。それ故、部屋のノックすら許されず、朝の世話は決められた時間に扉をゆっくり開けて小声で話しかけるのがルールだ。


 が。


 彼らは部屋の中の光景を見て、石のように固まった。

 時が止まるとは、まさにこのこと。


 ソファで密着する皇帝と下級侍女。

 皇帝は侍女の手を握りしめ、熱っぽい瞳で見つめている。


 侍女は顔を真っ赤にして、服は少し乱れている(寝相のせいで)。

 そして何より、皇帝陛下の機嫌が、見たこともないほど良い。


 ……あ。


 これ、完全に「事後」だと思われてるわ。

 言い逃れできないやつだわ。


「へ、へへへ陛下!? そ、その者は……!?」


 侍従長が裏返った声で叫ぶ。

 いつもなら「うるさい!」と花瓶が飛んでくるところだ。


 陛下は不機嫌そうに眉を寄せたが、それは私に対してではなく、侵入者たちに向けられたものだった。

 彼は私を隠すように抱き寄せ、低い声で告げた。


「……騒ぐな。朝から大声を出すな」


 低い声。

 でも、いつものヒステリックな響きはない。

 王者の威厳に満ちた、落ち着き払った声だ。


「この者は、俺の客だ。……いや、違うな」


 彼は私を見下ろし、ニヤリと口角を上げた。

 その笑顔の破壊力たるや。心臓が止まるかと思った。

 美貌の暴力だわ。


「俺の『命の恩人』であり、これからの俺の『精神安定剤』だ。……丁重に扱え。髪の毛一本でも傷つけたら、貴様ら全員の首を刎ねる」


 部屋中に、衝撃が走った。


 侍従長たちが口をパクパクさせているのを尻目に、私は「終わった」と天を仰いだ。


 平穏なモブ侍女ライフ、さようなら。




 ◇◆◇




 それからの展開は、ジェットコースターよりも早く、そして乱暴だった。


 私は洗濯係を即刻解任され、その日のうちに「皇帝陛下専属・最上級侍女」という、前代未聞の謎ポストに任命された。


 与えられたのは、皇帝の寝室の隣にある豪華なスイートルーム。


 肌触りの良いシルクのドレスみたいな制服。

 そして、山のような高級美容クリームとオイル(私の手荒れを治すためらしい)。


「ええっと……待遇が良すぎて怖いんですけど。私、何か国の機密でも知っちゃいましたっけ?」


 新しい部屋で呆然としていると、扉がノックもなく開いた。


 入ってきたのは、執務の合間を縫ってやってきたヴォルフ様だ。

 足取りが軽い。昨日の死にかけ状態が嘘のようだ。


「気に入ったか?」


「気に入るも何も、私には勿体なすぎます! こんな広い部屋、落ち着きません! リネン室の隅っこの方がまだ安心できます!」


「慣れろ。俺が呼びつけたら、3秒で来られる距離にいてもらわないと困る」


 彼は当然のように私の部屋のソファに座り、自分の膝をポンポンと叩いた。


「……え?」


「ここだ。座れ」


「はいぃ!?」


「頭が痛くなりそうだ。予防措置が必要だ」


 彼は駄々っ子のような顔で私を見上げる。

 予防措置って何ですか。まだ痛くなってないんですよね?


「……早くしろ。でなければ、また不機嫌になって城の誰かを処刑するかもしれんぞ。俺の機嫌はお前次第だ」


 脅しだ。


 究極のパワハラだわ。人質(城の人員)を取るなんて卑怯すぎる。


 でも、その目が「お願いだから撫でて」と訴えているのがわかってしまう。


 この人、自分の顔の良さと、今の状況を完全に利用してるわね。


 私はため息をつき、彼の膝の上に……は座らず、背後に回った。


「座ったら施術できません。……はい、力を抜いてください」


「そういうものなのか……。なら仕方ない」


 私がこめかみに指を当てると、ヴォルフ様は瞬時に脱力し、私の腹部に頭をもたせかけてきた。


 重い。


 でも、昨日とは違う、安心しきった重み。

 私も自然と、彼を受け止めていた。彼の体温が伝わってきて、不思議と落ち着く。


「……ん、そこだ……」


「凝り始めてますね。……ずっと書類仕事でしたか?」


「ああ。溜まっていた案件を片付けた。……不思議だ。以前なら文字を見るだけで吐き気がしたのに、今日は頭が冴え渡っていた。お前のおかげだ」


 彼は心地よさそうに目を閉じる。

 その無防備な顔を見ていると、なんだかこっちまで力が抜けてくる。


「シエラ。……お前の指は、魔法だ。どんな名医も、高位の治癒魔法使いも治せなかった俺の呪いを、一夜にして解いてしまった」


「呪い、ですか?」


「ああ。俺は生まれつき、膨大すぎる魔力を持っている。器である肉体が、その魔力に耐えきれず、常に悲鳴を上げている状態だ。……それが、この頭痛の正体だ」


 彼は自嘲気味に笑った。


「強すぎる力は、毒と同じだ。俺はずっと、自分の魔力に殺されかけていた。……だが」


 彼は目を開け、後ろ手で私の手首を掴んだ。

 そして、手のひらにキスをした。


「お前に触れられている時だけ、魔力の奔流が静まる。……嵐の海が、凪になるようだ」


 サファイアの瞳が、熱っぽく私を映す。


「もう、手放せない。……シエラ、俺のそばにいろ。一生だ」


 それは、皇帝としての命令であり、一人の男としての懇願だった。


 一生。

 その言葉の重みに、心臓が跳ねる。


「……私で、いいんですか? ただのしがない侍女ですよ? もっと高貴な癒やし手がいるんじゃ……」


「お前がいい。……お前じゃなきゃ、ダメなんだ」


 彼は私の腰に腕を回し、顔を埋めた。

 その温もりが、服を通して伝わってくる。


 ああ、もう。


 こんな無防備な姿を見せられたら、断れるわけがないじゃない。


 私も、彼の「コリ」をほぐすのが楽しくなってきているし。あのガチガチの頭皮が柔らかくなっていく感触は、職人として最高の喜びだもの。


 それに、彼に求められると、私の中の何かが満たされていく気がする。

 仕事以外で誰かにこんなに必要とされたこと、今までなかったし。


 これはもう、需要と供給が一致したってことよね?


「……わかりました。貴方の頭皮が柔らかくなるまで、お付き合いします」


「頭皮だけか? ……欲張りな俺は、それだけじゃ満足できないかもしれんぞ」


 彼は意味深に笑い、私の腰を強く抱き寄せた。

 その瞳の奥に揺らめく炎の意味に、私は気づかないふりをした。


 でも、胸の高鳴りは嘘をつけない。




 ◇◆◇




 それからの日々は、まさに「溺愛」という言葉が服を着て歩いているような状態だった。


 まず、食事。


「シエラの手が荒れるから」という謎の理由で、私の食事はすべて最高級のものが運ばれてくるようになった。


 しかも、ヴォルフ様が時間を見つけては「あーん」をしてこようとする。


「ほら、口を開けろ。これは美容にいい食材らしい」


「自分で食べられます! 子供じゃないんですから!」


「俺が食べさせたいんだ。……それとも、口移しがいいか?」


「あーん!!(全力)」


 次に、護衛。


 私が城内を歩くときは、常に近衛騎士が二人つくことになった。


「シエラに指一本でも触れた奴は、その指を切り落として串焼きにする」という物騒な皇帝勅令が出ているせいで、廊下を歩くだけで人が避けていく。


 快適だけど、気まずい! 友達ができない!


 そして、夜。


 これが一番の問題だ。


 ヴォルフ様は「寝る前のマッサージがないと眠れない」と主張し、毎晩私を寝室に呼びつける。


 マッサージが終わっても、「一人だと不安だ」とか「体温がないと寒い」とか、駄々っ子のような理由をつけて、私を帰してくれないのだ。


 結果、私は毎晩、人間抱き枕として皇帝陛下と同じベッドで眠る羽目になっている。


 もちろん、手は出されていない。


 彼は私をギュッと抱きしめ、匂いを嗅ぎながら、幸せそうに寝息を立てるだけだ。


 ……今のところは。


「……シエラ。いい匂いだ」


「た、ただのシャンプーの匂いですよ……」


「違う。お前の匂いだ。……甘くて、落ち着く」


 彼の寝言を聞きながら、私はドキドキして眠れない夜を過ごしていた。

 彼の腕の中は温かくて、守られている安心感がある。


 このまま、ずっとこうしていたいと思ってしまう自分がいる。


 このままじゃ、私の心臓の方が先に持たない……!




 ◇◆◇




 そんなある日。

 私が入城してからずっと、私をいじめていた古参の侍女長が、廊下で私を待ち伏せしていた。洗濯係なんて地味な仕事に回されたのも、彼女の仕業。


 彼女は私が「枕営業でのし上がった」と信じて疑わない筆頭だ。


「調子に乗るんじゃないわよ、新入りの分際で! 陛下に取り入って、汚らわしい!」


 彼女は鬼の形相で、私の頬を叩こうと手を振り上げた。

 避ける間もなく、私はギュッと目を瞑った。


 ガシッ!


 痛みが来ない。

 恐る恐る目を開けると、そこにはヴォルフ様が立っていた。


 いつの間に!?


 彼は侍女長の手首を万力のように掴み、氷のような冷徹な瞳で見下ろしている。


「……俺の大切な『薬』に、傷をつけようとしたな?」


「へ、陛下……!? ち、違います、これは教育的指導で……!」


「黙れ。……シエラの頬は、俺が撫でるためにある。貴様のような薄汚い手が触れていい場所ではない」


 ヴォルフ様が手を離すと、侍女長は腰を抜かしてへたり込んだ。


「衛兵。この女を地下牢へ。……不敬罪だ。二度と私の前に顔を見せるな」


 侍女長は泣き叫びながら連行されていった。

 周りの使用人たちが、青ざめて震え上がる。


 ヴォルフ様は私の方を向き、一瞬で表情を和らげた。

 さっきまでの魔王みたいな顔が嘘みたいだ。


「……怪我はないか? 怖かっただろう」


 彼は私の頬を、大きな手で優しく包み込んだ。

 その手は震えていて、彼の方が怖がっていたみたいだ。


「大丈夫です。……助けていただいて、ありがとうございます」


「当たり前だ。お前は俺の……大切な、人だからな」


 その言葉に、胸がキュンと鳴った。


 薬だ、なんて言うけど、そんなんじゃなく、人として大切にされている。


 私のことを、ちゃんと一人の女性として見てくれている。


 それが嬉しくて、私は自然と微笑んでいた。


 胸が……痛いくらいにキュンキュンする。


「……陛下。少し、顔色が悪いですよ? 無理しすぎじゃないですか?」


「……ああ。少し、頭痛が戻りそうだ」


 彼は私の肩に額を乗せて、甘えるように寄りかかってきた。

 みんなが見ている前で。


「癒してくれ……シエラ」


 もう、仕方ない人。


 でも、彼が私を必要としてくれるなら、私はいくらでも応えたい。


 私は彼の背中に手を回し、ポンポンと優しく叩いた。

 周りの悲鳴が聞こえないふりをして。




 ◇◆◇




 月明かりが差し込む寝室。

 今日も私は、ヴォルフ様のマッサージをしている。


 彼の膝の上に座らされ、向かい合う形での施術だ。


 これ、すごく恥ずかしいんだけど、彼が「顔が見たい」って譲らないから。


 私の太ももに彼の手が置かれていて、その熱さがドレス越しに伝わってくる。


「……ん……」


 私の指がこめかみをほぐすと、彼が色っぽい吐息を漏らす。


 サファイアの瞳がとろんと潤んで、私を熱っぽく見つめてくる。


 その目は、もうただの「患者」の目じゃない。

 獲物を狙う、雄の目だ。


「シエラ」


「はい?」


「頭痛はもう、ほとんどない。……だが、お前に触れられないと、別の場所が痛むんだ」


「えっ? ど、どこですか? 肩? 腰?」


 私が慌てて触診しようとすると、彼は私の手を取り、自分の左胸――心臓の上に当てた。


「ここだ。……お前がいないと、ここが苦しい」


 ドクン、ドクンと、速い鼓動が伝わってくる。

 それは、病気の痛みなんかじゃない。


 恋の、高鳴りだ。


 そして、私の心臓も同じリズムで跳ねていることに、もう気づかないふりはできなかった。


「……シエラ。愛している」


 彼は私の腰を引き寄せ、耳元で囁いた。

 甘くて、低くて、脳が溶けそうな声。


「俺の頭痛を治してくれた礼に、俺は一生をかけて、お前を幸せにする。……覚悟はいいか?」


 逃げ場なんて、最初からなかったのだ。

 この美しき暴君に捕まったあの日から。


 そして私も、いつの間にか彼の不器用な優しさと、たまに見せる弱さに、どうしようもなく惹かれてしまっていた。


 彼が私を必要とするように、私も彼を必要としている。

 彼の手の温もりがないと、もう眠れない体になってしまっていたのだ。


 私は観念して、彼の首に腕を回した。

 自分から、彼の胸に飛び込んでいく。


「……はい。覚悟します。……でも、マッサージ代は高くつきますよ?」


「望むところだ。俺の全てをくれてやる」


 彼は満足そうに微笑むと、私の後頭部を優しく引き寄せ、唇を塞いだ。


「……んっ……」


 逃げ場なんてない。

 彼は角度を変えて、何度も、何度も、私の唇に愛を注ぎ込んでくる。


 チュッ、と触れては離れ、また触れて。

 強引さはなく、ただただ大切にされていることが伝わってくる、甘い口づけ。


 彼の体温と匂いに包まれて、頭の中が真っ白に溶けていく。

 膝の力が抜けてしまいそうになる私を、彼は強い腕でしっかりと支えてくれた。


「……はぁ……、シエラ。愛している」


 唇が離れると、彼はとろんと潤んだ瞳で、私を愛おしそうに見つめていた。

 そのあまりの幸福感に、私の胸もいっぱいに満たされていく。


 暴君皇帝の頭痛は治ったけれど、私への「依存症」は、一生治りそうにない。


 まあ、それも悪くないのかな。私も彼への依存症が、日を増す毎にもっと深くなっていきそうだから。


 それに私は、彼専用のカリスマ・ヘッドスパニストだから。


 私の手の中で、最強の皇帝が猫のように喉を鳴らす。

 その愛おしい時間を、私はこれからもずっと、守り続けていく。


 そう、この先もずっと。


 私たちのとろけるような甘い夜は、まだ始まったばかりだから。

ここまでお読みいただきありがとうございました!


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【スカッとしたい方へ】

『その聖水、ただの麻薬ですよね?』

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『冷徹公爵様の心の声 (テロップ)がピンク色で大暴走している件について』

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【とろとろに甘やかされたい方へ】

『触れるもの全てを殺す『死神公爵』様、なぜか私だけ触れても平気なようです』

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他にも投稿済みの短編がございますので、作者マイページからお好みのものを見つけてご覧いただけると幸いです。

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