28 最後の日
翌日の火曜日。今日で俺と椿の特別な関係が終わる。
俺はいつものようにスミレとともに朝練に向かった。部室の扉を開けると、椿と葵さんがいた。
「おはよう、バカマネ」
「おはよう、椿」
平静を装いながら、俺は準備を始めようとした。
「ちょっと……」
背後からスミレが俺に呼びかけた。
「ん? どうした、スミレ」
「今、椿のこと呼び捨てにしなかった?」
「あ……」
しまった、最近のくせで……
「別にいいわよ。私もバカマネって言ってるし、呼び捨てぐらい」
椿がすかさずフォローを入れてくれた。
「そう、だけど……なんか仲良くなったのかなあって」
「なるわけないでしょ。バカマネとなんて……」
椿はあくまでポーカーフェイスだ。
「そ、そうだよね。思い過ごしか」
「そうよ。明日が本番なんだから集中しなさい」
「うん。わかった。葵、やろうか」
「そうだね」
2人はダンスを始めた。椿は真剣にそれを眺める。俺は飲み物を買いに部室を出た。
◇◇◇
昼休み、俺は部室に行く。ここで椿と二人きりでお昼を食べるのも今日で最後になるのだろう。
部室に入ると、椿はいつもの席に座っていた。俺はその向かいに腰を下ろす。
「……大樹はほんとバカよね」
「え?」
「私のこと、椿って呼んだでしょ」
朝のことか。
「ご、ごめん! つい……」
「私は別にいいけどね。でも、これで別れても私のことを呼び捨てで呼ばなきゃいけなくなったわね」
そう言っていたずらっぽく笑う。
「うん……でも、いいのか?」
「私はいいわよ。でも、あなたに呼ばれる度にこの一週間を思い出すでしょうね」
そう言って穏やかな笑顔を見せた。
「そ、そうか……」
「うん。この一週間は私にもいい思い出よ。だって、キスまでしちゃったしね」
「……っ!」
俺は思わずむせてしまった。
「フフ、これからはこうやって大樹をからかう楽しみもできそうね」
「勘弁してくれよ。バレるぞ」
「大丈夫よ。二人きりの時しかしないから」
その後は、他愛のない話が続いた。授業のこと、友達のこと。いつもここで過ごしてきた、けれどもうすぐ終わってしまう昼休みだ。
教室に帰ろうとしたとき、椿は言った。
「ねえ大樹」
「うん?」
「……別れたあともお昼にはここに来てくれない?」
「え!?」
驚いて俺は椿を見た。からかっているようには見えない。
「言ったでしょ、お話ししたいって。だから誤解しないで。もうキスしたり甘えたりはしないから。ただいろいろ話したいだけ。二人きりじゃなくてもいいから。メンバーを連れてきてもかまわないし」
「でも、それは……」
「……やっぱり無理よね。ごめん、今のは聞かなかったことにして」
椿はうつむき、少し震える声で言った。
彼氏役が終わっても俺が昼休みにここに来るのはやっぱりまずい。でも……もし俺が来なかったら、椿はここで1人でお昼を食べるのだろうか。寂しそうな椿を思い浮かべてしまうと、俺は放っておけなくなった。
「じゃあ、たまに来てもいいか? 他のメンバーと一緒になるかもしれないけど」
「ほんとに? 来てくれるの?」
ぱっと顔を上げた椿の表情が、見る間に明るくなった。
「ああ」
「ありがとう、大樹」
椿はまるで子供のようなあどけない笑顔を俺に見せてくれた。
◇◇◇
放課後。新入生歓迎会前の最後のレッスンだ。部室には、本番前のピリッとした緊張感が漂っていた。
「スミレ、遅れてる!」
椿の鋭い声が響く。
「ごめん!」
「美桜も少し早く!」
「はーい」
「葵、腕はもっと上に伸ばして!」
「わかった!」
今日も、椿の指導は容赦ないな。いつも以上に熱を帯びているようだ。
「じゃあ、5分休憩!」
「はー、疲れたー……」
みんなが椅子に座り込む中、椿は俺のそばに歩み寄ってきた。
「はい、椿」
俺は用意していた「いろはす」を渡した。
「……あれ? マネ君、いつの間に椿のこと呼び捨てで呼んでるの?」
目ざとく美桜さんが気づいた。
「あ、ああ……まあ、なんとなく……」
「えー! だったら私も呼び捨てしてよ!」
美桜さんが頬を膨らませて詰め寄ってくる。
椿だけを特別扱いするわけにはいかないか……
「いや……まあ、いいけど」
「え、ほんとに? じゃあ、美桜って呼んでね、マネ君」
「わかったよ、美桜」
「やったー! なんかいいやん、恋人みたいで」
「違うからな」
「わかってるけど」
美桜は、にこにこと嬉しそうだ。だが、隣の椿は、少しだけ口を尖らせて、俺を見ていた。
「なーに、椿。もしかして妬いてる?」
美桜が、面白がるように椿に声をかける。
「そんなわけないでしょ。まあ、別にいいわよ……私が口を出せるのは今日までだし」
最後に、椿は何かを小さく呟いた。
◇◇◇
「バカマネ、あとはよろしく」
練習終了後、椿はそう言っていつものように真っ先に部室を出て行った。
他のメンバーも帰り、俺が一人で片付けをしているとしばらくして椿がいつものように戻ってきた。何も言わず俺と一緒に机を元に戻す。
「……こうやって片付けるのも今日で最後でいいの?」
椿が俺に聞いた。
「うん。これはマネージャーの仕事だから。俺がやるよ」
「…・…わかった。じゃあ、今日まで手伝う」
二人で黙々と全ての机を元に戻し、部屋の片付けを終えた。あんなに賑やかだった部室が今は静まりかえっている。
「じゃあ、出ようか」
俺が声を掛けると、椿は言った。
「待って。ここなら誰にも見られてないから、ここで終わりにしましょう」
部室で、二人きりのお別れか。わかってはいたけれど、いざとなると、胸が締め付けられる。
「そ、そうだな……」
「大樹、ほんとにありがとう。この一週間は楽しかったわ」
「俺もだよ」
「ほんとに?」
「ほんとだって。俺って彼女とかいなかったから、彼女が出来たらこんな感じなんだろうなって味あわせてもらった」
「そう……大樹が楽しかったなら良かった」
椿は少しうつむく。
「まあ、私も彼氏に振られていろいろ混乱してたからつい大樹に頼っちゃって……でも、おかげで元気になれた。彼のことも完全に吹っ切れたから」
「そうか……」
「もう大丈夫だから……本当に、お世話になりました」
椿はそう言って頭を深々と下げた。その長い髪が、さらりと揺れる。
「や、やめろよ。そういうの、らしくないぞ」
「だよね。でも、ほんとに感謝してるから」
「そ、そうか」
「最後に一つだけ、お願いしてもいい?」
「なんだよ。改まって」
「もう一度、キスしたい」
「う……」
「いいでしょ? これが本当に最後。もうしてあげないんだから」
少し潤んだ瞳で、それでも意地っ張りな口調で言う。
「わ、わかったよ」
「……じゃあ、これでお別れね」
椿はそっと顔を寄せる。唇に柔らかな感触が残った。
「さよなら、大樹……そして、明日からよろしくね、バカマネ」
「うん……椿、明日からもよろしく」
「今日は一緒に帰らないから。じゃあね」
そう言って足早に部室を出て行く椿の背中に、俺は思わず声を掛けていた。
「椿!」
振り返った椿の顔が、少し驚いているように見えた。
「……何?」
「もしもまたつらいことがあったら……俺でよければ相談して欲しい」
衝動的に、言葉が口をついて出ていた。
「バカマネのくせに生意気ね。それはこっちのセリフ。大樹もつらくなったら私に相談してよね」
その笑顔は、さっきまでの切なさとは違う、いつもの強気な椿の笑顔だった。そうか、俺たちは前の関係に戻ったんだ。
「……ありがとう」
「じゃあ……今度こそ、さよなら」
椿は軽く手を振って、部室を出て行った。
俺はその背中を見送ったまま、しばらくの間、その場に立ち尽くしていた。
こうして、俺と椿の特別な関係は一週間でちゃんと終わった。




