ep.07
シャッターの向こうから、かすかな足音が響く。乾いた靴底の音が、錆びた鉄扉に反響して近づいてくる。
息を潜めたまま視線を向ける。街灯の薄明かりに浮かび上がった真白の人影は、三兎月紅々縷だ。
彼女は私やいっくんに気付いていないらしい。もしくは、私たちの気配があっても、気にしていないのだろう。影が街灯にかかるたび、彼女の白さが際立つ。ぐるりと辺りを見渡してから、思案するように首を横に倒した。
私もいっくんに緊張感がないだとか、もっと空気を読めだとか言われるけれど、彼女は私の比じゃない。人々が集まるだけで自然と生まれる空気も、察して身構えてしまうような空気も、彼女には全く意味がないのだ。
彼女は、彼女だけの空気の中で生きている。
そう、彼女は生きている。私と違って生きているのに、空気なんてものを歯牙にもかけていない。そんな相手を、私たちにどうにかしろって? なんとも無茶な依頼をしてくれたものだ。
私といっくんの特異性なんて──
ぱきり、と枝の折れる音が冷えた空気の中に鋭く響いた。反射的に視線を向けると、そこには高瀬沙織が立っていた。スマホを見ながらここまで来たのだろう。彼女の顔を、ぼんやりとした明かりが照らし出している。
高瀬沙織の足音に、紅々縷は一歩も動かない。ゆっくりとこちらを振り向く紅々縷の顔は、街灯を背にしたせいで、よくわからなかった。
「いっくん……! どうするんですか!? 対面しちゃいましたけど!」
『そうするためのエサなんだから、当たり前だろ』
「こうなる前に、どっちかを確保するなり、保護するなりが依頼なんじゃないんですか!?」
『それは理想。だけど、俺はあくまでも『情報屋』であって『便利屋』でも『何でも屋』でもない。これからどうするかは──三兎月紅々縷次第じゃない?』
小声でいっくんに訴えかけるも、返ってくる声は、普段どおりの平坦なものだ。私に緊張感がないとかなんとか言いますけど、いっくんだって大概、焦燥感とかないんじゃないですかねえ!? 水瀬ちゃんは優しいので本人には言いませんけど!
ポケットの中で折り畳みナイフの背を緩く撫でる。高瀬沙織はともかく、三兎月紅々縷がどう出るかさっぱりわからない。彼女の武器が、彼女の肉体ひとつだけであれば時間稼ぎくらいはできるかもしれない。けれど、拳銃を取り出されてしまったら、こちらに勝ち目なんてない。飛び道具相手にナイフで戦り合おうなんて、馬鹿がするものだ。それくらい、水瀬ちゃんにだってわかる。
紅々縷の視線は、高瀬を捉えたまま動かない。なぜ、彼女は動かないだろう。もしかして、高瀬を『高瀬沙織』だと紅々縷が気付いていないのだろうか。もしそうだとするのなら、私が素知らぬ顔で、高瀬に話しかけてこの場から連れ去るのも手かもしれない。
物陰から出ようとした瞬間、イヤホンからノイズが響く。
『馬鹿なことは考えるなよ』
「……わかってますよう」
咎めるようないっくんの声に、動きを止める。張り詰めていた糸を解すように、浅く息を吐き出した。
「……あの、」
長い沈黙──実際には数分足らずなんだろうが──を破ったのは、高瀬だった。戸惑った様子で声をあげ、紅々縷を見つめている。
耐えきれず口火を切ったわりに、高瀬も次の言葉を考えあぐねているようだ。それもそうだろう。彼女はいっくんの撒いた情報に釣られて、この場に来ている。一般人でしかないとはいえ、凰龍会に釘を刺されたことのある立場の人間として、軽率にその名前を口に出してはいけないことくらいわかるのだろう。
と、思っていたのに。
「凰龍会の方ですか?」
水瀬ちゃんの想像を裏切って、彼女はその言葉を口にする。
この女は馬鹿なんですか!? よりにもよってあなたが、三兎月紅々縷に言うなんて!
「んー……うーん……みぃちゃんが、悲しい顔するのやだなぁ……って、ちょっとは思ってたんだけど……」
ふらり、と紅々縷が動く。まずい、と思ったときには、彼女は地面を蹴っていた。
「覚えていて、わかっていて、ここにいるなら……もう、いいってことだよねぇ……?」
呆然と立ち尽くす高瀬との距離を詰め、紅々縷が懐から細いワイヤーを引き出し、両手で静かに張る。白い喉が、あからさまに狙いを定められた。
「ひっ」
引き攣ったような声が、高瀬の口から漏れ出す。
拳銃じゃないだけマシかもしれない。けれど、そのワイヤーが高瀬の首に掛けられたら、どちらにしても終わりだろう。白い首筋に深い赤の線が走る光景が脳裏をよぎる。
「いっくん、どうするんですか……!」
『でもさ、凰龍会との約束を破ったことについては、罰を受けないと示しがつかなくない?』
「それは……そうかもしれませんけどぉ」
裏社会のルールなんて水瀬ちゃんには知りようもないが、そういった細かい取り決めがあることは理解している。
『それに、いろいろ深読みはしたものの、仁さんに頼まれたのは三兎月紅々縷を見つけ出すこと。仁さんにはもう連絡もしたし──凰龍会の人が来るまで、監視しておいたらいいんじゃないかって気もするんだよね』
「面倒くさくなってますね!? 水瀬ちゃん、殺人現場とか見たくないんですけど!」
『はは。人が死ぬところを見るなんて、今更だろ』
乾いた笑いが鼓膜を撫でる。否定ができずに言葉を飲み込んでいる間にも、紅々縷の手にしたワイヤーが、獲物を絡め取る蛇のように高瀬の首を捉えていた。
『とはいえ、だ。……仁さんの意図を察しておいて、なにもしないっていうのも……バレたら面倒だしなあ』
独り言のようにいっくんが囁く。
『恭、ワイヤーを切って』
「そういうのはもっと早く言ってほしいんですけどね!?」
不意を突くように陰から飛び出した。折り畳みナイフをポケットから取り出し、手首を返して刃を跳ね起こす。
恐怖に身を強張らせる高瀬の肩を強く引き寄せ、ナイフの刃をワイヤーに宛がう。もっと硬いと思っていたが、糸を断つみたいにあっさりと切れた。
「あ……どうして邪魔するのよぅ。……だれかと待ち合わせしてるだけ、だと思ってたのに……」
紅々縷の双眸が私を捉えた。淡い月明かりの中でも、その瞳の赤さがやけに目に付く。いっくんと同じようで違う、深く暗い赤い色。ぞわり、と背筋に悪寒が走る。誤魔化すように口元に弧を描く。
「こんばんは。素敵な夜ですね、っと!」
掴んでいた高瀬の肩を強く後ろに引く。体勢を崩した彼女が尻餅をつくのを視界の端で確認する。
「悪いんですけど、あとは自分で逃げてくださいね! あなたは別に、水瀬ちゃんの依頼主でもなんでもないので!」
「邪魔しないでよぅ」
不満そうな紅々縷の声は、玩具を取られた子どものような色をしていた。彼女に対する妙な違和感の正体を理解する。
彼女には殺気というものがない。明確に高瀬を殺そうとしていたのに、そこに帯びる熱がない。何気ない日常の仕草の延長で、紅々縷は人を殺そうとしている。
「裏社会って、みんなあなたみたいな人ばっかりなんです?」
「さあ、しらなぁい」
紅々縷は持っていたワイヤーを地面に落とす。もう使えないと判断したらしい。
ナイフの切っ先を紅々縷に向けたまま、間合いを取る。ここからどうすべきだろうか。高瀬が逃げ出した気配はない。いっくんから次の指示もない。
緩慢な仕草で、彼女の手が懐に伸びる。またワイヤーを取り出すつもりだろうか。
そう思った刹那、月明りを浴びて鈍い黒光りする塊が視界に表れた。小型拳銃だ。冷えた銃口は私──ではなく、その後ろに向けられている。
「ちょっとお話する時間作ってあげようと思ってたのに、邪魔されちゃったから……恨むなら……んー……過去の自分、かなぁ?」
のんびりとした紅々縷の声。私が身を翻すよりも早く、視界を遮るいっくんの背中。短く響く銃声と、次いで届く硝煙の匂い。
「い……ってえな、」
いっくんの低く唸るに吐き捨てる。その背中に、赤い染みが広がった。
「あれ……もうひとり、いたの……?」
「いっくん!」
「もう、邪魔ぁ」
彼女の声は退屈そうだった。銃口の先が僅かに動き、月明かりを反射する冷たい光が瞬いた。あまり嬉しくない予感が、じわじわと胸の奥を押し広げる。
──ああ、もう、いっくんのばか!
内心で舌打ちしそうになった瞬間──
「紅々縷!」
彼女の名前を呼ぶ声が、夜の静寂を無遠慮に叩き割った。