ep.05
同級生の是永美咲くん。クラスの中心で人気者の男の子。
誰にでも平等に優しい人だった。誰のことも特別扱いをしない人だった。みんなから好かれるクラスの人気者。明るくて、笑顔が素敵で、そんな美咲くんのことが、好きだった。
馬鹿な女だと、今なら思う。けれど、あの頃の私は、本気で信じていた。
彼の特別な優しさは、私だけに向けられたものだと。
だって彼は私のハンカチを拾って手渡してくれた。私の目を見て笑ってくれた。私の名前を呼んでくれた。照れたようにはにかんで笑ってくれたことだってある。優しかった。優しくて、温かくて、甘くて。
ああ、だってほら、彼は私のことを特別に思っていたじゃないか。だけど、裏切った。彼は、私を裏切った。私以外の女と歩いていた。私以外の女に笑いかけた。私以外の女に手を伸ばして。私以外の女に、優しくして。
私以外の女を見た彼が悪いのよ。
あれは衝動だ。家から包丁を持ち出して、帰り道で彼の帰りを待ち伏せる。風が吹き抜けるたび、古びた看板がかすかに揺れて金属音を立てた。
遠くで靴音が小さく反響し、近付く度に心臓の鼓動と同じ速度になる。アスファルトを染める夕焼けの光が、やけに目に付いた。
「高瀬?」
驚いたように私を見る美咲くんの顔を、覚えている。眼鏡のレンズ越しに、彼は真っ直ぐ、私を見ていた。
許せなかった。狂っているといわれても、それでも、どうしても。許せなかった。
今と同じような声で、彼は私の名前を呼んだ。そこらの女の子よりも可愛い顔で、それでも、男の子の笑い方をして。その彼の表情に、声音に、仕草に、高鳴る鼓動が蘇る。
包丁の柄は冷たく、手汗で滑りそうになるのを強く握り直す。指先が白むほどに、強く、強く握り締める。
もう、止まらなかった。止められなかった。どちらだったのだろう。そんなこと、どうだってよかった。
ナイフを突き立てた瞬間の感覚は、今でも掌に残っている。熱くて、柔らかくて、あまりにも人間だった。
殺すつもりはなかった──そう、何度も繰り返したはずの言い訳が、今はもう口から出てこない。
あの日、あの場所で、私の人生は終わった。ただ、まだ呼吸だけが続いている。
私が生きているのは、鳳龍会の温情だ。違う。美咲くんが、私を生かしてくれたのだ。
詳細は知らない。聞いたことがないし、聞いたところで教えてもらえないだろう。名前も知らない大人の人は、酷く冷めた目で私を見下ろして言った。
「命までは奪わないでおいてやる。代わりに、二度と、この街に足を踏み入れるな」
「次に、この街で俺たちに出会ったとき、あんたの命の保証はしない」
見せかけだけの脅してないことは、高校生の私でも理解できた。その言葉に従って、この数年、私はこの街に足を踏み入れたことはなかった。
それなのに、いま、こうして懐かしい道を歩いている。
仕事で偶然、近くまで来た。魔が差した、という表現がぴったりかもしれない。それと、ほんの少しの期待だ。美咲くんを一目見れるかもしれない。数年も立てば、私のような小娘のことなんて、忘れているかもしれない。
危険なことなどドラマの中にしかないと思い込んでいる、街の空気すら忘れた一般人の甘えた戯言だ。
その甘えが、どれほど命知らずだったのか、気付くはずもなかった。