ep.04
路地裏の室外機。その上に、紅々縷は座っていた。
ビルの隙間に、月明かりは届かない。日中であれば人目を集める紅々縷の白い髪も、このときばかりは闇夜に紛れていた。
夜の方が、紅々縷にとっては動きやすい。目立ちにくいという理由に加えて、体質的な問題もあった。
一般的には柔らかく、穏やかな日差しであっても、紅々縷にとっては皮膚を焼く脅威になる。対策もせずに外を歩き、火傷したように肌が赤く腫れてしまったのは、一度や二度の話ではない。
「少しは学習しろよ」
呆れたように吐き捨てた、少年の顔を思い出す。母親によく似た可愛らしい顔を、不機嫌そうに歪めたその少年は、是永美咲。凰龍会若頭の一人息子だ。
紅々縷より、ひとつかふたつ、歳上だったはずだ。正確なところは、わからない。紅々縷は自分の生年月日を知らない。仁に聞いたらわかるのかもしれないが、興味がなかった。
歳上だと思ったのは、美咲が紅々縷よりも言語能力が発達していたことと、体格差があったからだ。紅々縷の生育環境の悪さを考慮しても、同い年のようには見えなかった。
「がくしゅー?」
紅々縷が舌足らずに彼の言葉を繰り返すと、美咲は片眉を吊り上げた。
「外に出るときは長袖を着ろ。……いや、それ以前に、昼間に出るなって言ってるだろ」
舌打ちをする美咲を、紅々縷は不思議そうな顔をして見上げていた。傍目からは痛々しいのに、当の本人は平然としており、痛みなどこれっぽっちも気にした様子がない。手当てをしている間でさえ、痛がらなかった。
彼女の触覚は機能している。手を握られれば握り返すし、美咲に頭を撫でられたら嬉しいと思う。何かにぶつかったり、踏んづけたりしたら、きちんと知覚する。
今だって、肌にひりひりとした鈍い感覚があることは理解している。紅々縷はそれを、痛みだと理解することが下手だった。
「んー? みぃちゃんも、お昼にお外出ない?」
「俺は学校があるから」
「じゃあ、わたしも〜」
美咲の眉間に、深く皺が刻まれる。それを見て、紅々縷は重そうに首を横に傾けた。
「大人しくしてろっつってんの」
「悪いこと、してないよぅ?」
美咲の手が紅々縷の顔に向かって伸びる。親指と人差し指で作られた丸を、ぼんやりとした目で追う。しかし、その指が紅々縷の額を弾くことはなかった。
代わりとばかりに、美咲の掌が紅々縷の頬に添えられる。
「悪いことだろ。俺の言うことを聞かねえんだから」
美咲は短く息を吐き、わずかに声を落とした。
その言葉を聞いて、紅々縷は二度三度と、瞬きを繰り返す。長い睫毛が人工的な光を弾き、昏く澱んだ彼女の瞳にわずかな光を取り入れる。
紅々縷は美咲のお迎えに行っただけだ。他の組員たちがするように、大好きな美咲の送迎をしようと思い立ち、ふらりと屋敷を出ただけだった。それが悪いことだとは、紅々縷は思っていない。
しかし、美咲のいうとおり、紅々縷は美咲の言うことを聞かなかった。
なるほど。確かに、悪いことなのかもしれない。
「みぃちゃん、怒ったぁ……?」
眉を下げて、紅々縷が窺うように美咲の顔を覗き込んだ。先ほどとは打って変わり、その声は少しだけ弱々しい。叱られた子どものような声色をしている。
躊躇いがちに伸びた紅々縷の指先が、美咲の上着の裾を摘まむ。
「ああ、怒ってる」
いまだに赤みの引かない彼女の頬を親指でなぞり、美咲は困ったような顔をして笑う。
その表情の意味を、紅々縷には読み取ることができなかった。
掌を覆うほどに長い袖口を、指先で弄る。
あの日以来、紅々縷は長袖のシャツを着るようにしていた。日差しの下を歩くことは可能な限りやめた。面倒くさいと思いつつも、日焼け止めもしっかりと塗っている。
あのとき、美咲は怒っていなかった。けれど、まるで、自分が怪我をしたかのような顔をしていた。
それを優しさと呼ぶのか。はたまた、甘さと呼ぶのか。
紅々縷はそんな美咲の甘さが好きだった。大好きだった。
だからいま、彼女は、ここにいる。
「みぃちゃんは、優しすぎるんだもんなぁ」
ぽつり、と独り言を呟き、胸ポケットから一枚の写真を取り出した。
それといった特徴のない、普遍的な女性の横顔が映っている。少しブレてしまっているが、顔の識別をするだけであれば、なんら問題はない。
写真に写っている女は、高瀬沙織。数年前、美咲の腹を刺した女だ。