ep.02
是永仁は、凰龍会の若頭である。長身に仏頂面という、いかにもといった風体の男性だが、恭は彼の声を聞いたことがない。怖がらせてしまうからという理由で、仁は対話をすることをやめたらしい。代わりにスケッチブックを持ち歩き、筆談で意思の疎通を図っている。強面の男性が徐にマッキーを取り出し、スケッチブックを見せてくるという行為自体が、一般人には恐ろしい挙動ではないだろうか。
恭が仁を恐ろしいと思ったことはない。初対面のときに威圧感を感じなかったといえば嘘になるが、そこに恐怖心のようなものが付随することはなかった。たとえ、相手がどれだけ恐ろしい存在であっても、恭には関係ないのかもしれない。恐怖心というのは未知に対して生まれる感情であり、もしくは、生命の危機を知らせる警鐘のようなものだ。仁は知らない人物ではあっても、未知の生き物ではない。それに加えて、恭に生命の危機なんてものは関係がない。ゆえに、恭の仁に対する第一印象は、背が高いの一言に尽きた。
是永の屋敷にある一室。そこに、恭は青年と並んで大人しく座っていた。長机を挟んだ向かいには仁と、数名の若衆が控えている。
「わざわざ俺を呼びつけて、目的はなんですか?」
形式上の報告を終えるなりに、青年は直球に本題を投げかけた。正面に座る仁はひとつ瞬きをしてから、スケッチブックに文字を書きつける。
『顔を見たかっただけだよ。元気にしているかの確認』
「それだけのために、子どものお使いを俺にさせたんですか? それが理由にしては、お小遣いの域を超えていると思いますが」
『まけてくれるの?』
「慈善事業ではないので。悪しからず」
ぴりついた空気が流れる。仁も青年も表情を変えないために、余計に空気が重い。
基本的に、青年の仕事はメールだけで完結する。クライアントと直接顔を合わせる必要はない。素性を知られることは、青年にとってリスクだ。それでも、青年はそうして是永の屋敷に足を運んでいた。
恭は机に置かれた茶菓子に手を伸ばし、薄葉紙を開く。饅頭にかぶりつき、控えめな甘みを楽しむように口の中で餡子を転がした。
『水瀬くんも食べていいよ』
「いえ、俺は……恭、全部食べていいよ」
「いいんですか? わーい! ありがとうございます!」
水瀬という文字列を視認し、青年は自身の前に置かれた茶菓子を恭に寄せた。
水瀬──恭が一人称に用いているそれは、本来、青年の情報屋としての名義だ。ゆえに、その名義を知っている人間は、青年を指し示す固有名詞として使うことが多い。仁もそのうちの一人だ。
若頭直々に勧められた菓子を、青年はこともなさげに恭に横流しをする。礼儀知れずともしれない行為だが、仁がそれを気にした様子はない。それどころか、恭に向けて『いっぱい食べてね』と告げるほどだ。
恭は遠慮をすることなく、二つ目の茶菓子に手を伸ばした。
「それで、本当は、水瀬ちゃんたちに何をお願いしたかったんですか?」
今日の夕飯を聞くような気軽さで、恭が逸れかけた話題を戻す。仁と恭の視線がぶつかった。一見険しいとも取れる仁に向けて、彼女はいつもと変わらぬにこやかな笑みを返した。
仁はスケッチブックを捲ると、新たなページに文字を書き出した。そして、数秒と経たずに、彼らに見せるように掲げる。
『息子の可愛いわんちゃんを探してほしくて』
──わんちゃん。
胸の内だけで言葉を繰り返し、恭は指についた餡子を舐め取った。
「ご子息自身も探し出せるのでは?」
『そうなんだけど。あの子を刺した女の子、まだ生きてるから』
文面で淡々と告げられる。青年は数秒の間をおいて、大きく息を吐き出した。
「大事になる前に、俺たちに片付けてほしい、と。情報屋であって、便利屋じゃないですよ」
『だからあげたでしょ? お小遣い』
これがもし仁でなければ、笑顔のひとつでも向けられてそうだ。恭はそんなことを思いながら、お茶を啜った。