ep.01
黒い遮光カーテンが昼間の光を閉ざし、狭い一室は時間を忘れたように静まり返っていた。壁際にはデュアルモニターが並ぶ作業机。無機質な光を放つスクリーンの前に、灰皿と冷めたコーヒーが置かれている。家具は最低限、色も黒か灰色ばかりで、生活の温度を感じさせるものはほとんどない。
この部屋主である青年は、生活というものに興味がなかった。必要なものが最低限揃っていれば構わない。足りないものを必要に応じて揃えたらいい。それで、なにかがなくて困るという経験もない。過不足のない、無機質で質素な空間。その中で、彼は過ごしていた。
それでも最近、この部屋には異物が増えつつあった。猫の尻尾を模した持ち手のマグカップ、淡い色彩のクッション。彼が買ったはずのないそれらは、今もソファに座る少女──恭の気まぐれな痕跡だ。
我が物顔で彼女に羽織られた彼のコートは、余った袖が肘のあたりにしわを作っていた。
恭になにかを言おうとして、言葉を飲み込んだ。煙草の箱で軽く机を叩き、飛び出す一本を歯で挟む。ジッポを開いて、先端に赤く火を灯す。
デュアルモニターの光をぼんやり眺めながら煙を呑む。煙草の煙が天井に消えるよりも早く、新しい依頼がメールボックスを埋めた。表示された数行の文字列を目線でなぞり、無感情にバックスペースを押していく。青年の目を止める文言はない。
肺の奥で熱が弾けても、彼の表情は揺らがなかった。
「あ! いっくんったら、また煙草吸ってる! そんなんじゃ早死にしますよう?」
背中に咎めるような声が飛んだ。フィルターを歯で挟み、視線だけを恭に向ける。想像よりも近くにいた彼女の手が伸び、彼の口から煙草を取り上げる。彼女の指先で摘まれた煙草から紫煙をのぼった。
「どうするつもり?」
「そんなに口さみしいなら、水瀬ちゃんがキスしてあげましょうか?」
会話になっていない。揶揄うような口調で告げる恭を見て、彼は僅かに片眉を吊り上げた。
奪われた煙草は灰皿に押し付けられる。数口しか吸っていないそれを勿体ないと思うのも束の間、恭の両手が青年の頬を挟む。それは、陶器のように冷たいくせに、ほんの少しの柔らかい。
「喫煙は習慣であって、口寂しさからじゃないよ」
「知ってますけど?」
「……少しはコミュニケーションというものをできるようになってくれないかな」
苛立ちを隠さずに舌打ちをする。それを受けても、恭は楽しそうに笑うばかりだった。
──ピコン。
会話を遮るように電子音が鳴る。反射的に、モニターに視線が向いた。新しくメールが届いたようだ。
「あら、凰龍会からお仕事の依頼みたいですよう」
「……仁さんから?」
メールを開き本文に目を通す。差出人の名前を見た瞬間、指先がわずかに止まった。
黒曜組系凰龍会。仁義を重んじながらも、静かに、しかし確実に裏社会を支配する組織だ。
凰龍会若頭──是永仁からの依頼。画面に並んだ名前のいくつかは、ここ数日、耳にした噂と重なっていた。どうやら、ちょっとしたお使いを、青年に頼みたいらしい。
「これ、俺がやらなきゃいけないような事?」
「手が空いてないんじゃないですか? いいじゃないですか、お小遣い稼ぎだと思えば。どうせ、暇してるんですし! 恩を売って損する相手でもないでしょう?」
恭の両腕が青年の首に絡み、背にのしかかるように抱きつかれる。
背中にわずかな重みを感じる。衣服越しでも伝う冷感に、青年の口から淡い吐息が漏れ出した。
「俺はどこにも所属するつもりはないんだけどな」
これが仁からの依頼でなければ、キーをひとつ叩いて終わりだ。しかし、これはそう単純な話ではない。
断ったところで、大した損害はないだろう。これが依頼という形式である以上、取捨選択の権利はこちらにある。それに加え、青年が『情報屋』などという胡散臭い仕事をしているのは、趣味が実益を兼ねた結果だ。依頼ひとつ断ったところで、青年の仕事を邪魔をするほど、凰龍会は狭量じゃない。とはいえ、だ。
凰龍会の領域で仕事をする以上、恭の言うように、いくらでも貸しは作っておくべきだ。巡り巡って、それが青年にどのような恩恵を生み出すかわからない。逆もまた然りである。
「売人のヤサ探しくらい、俺に頼るまでもないことだろ」
仁への返信もそこそこに、彼はキーボードに指を滑らせる。
この頃、この辺りで薬が流行っていることは知っていた。薬には手を出さないと決めている凰龍会の領域でわざわざすることか? と青年は思わなくもないが、裏社会に中途半端に足を突っ込んだ人間の思考などを、青年には理解しようもない。
自分が商売する場所を調べるくらいの知恵は働かせるべきだと思うが、薬で脳はろくに機能していないのだろう。
「出掛けるから支度して」
「はあい! 帰りにケーキ買って帰りましょうね!」
「……コンビニに行くのとは訳が違うってわかってる?」
恭に差し出されたコートに袖を通し、呆れたように吐き捨てる。
灰皿で押し潰された煙草が、今更、惜しく感じた。