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ゴーストは何も答えなかった。
だが、その目の奥で何かが変わった。
わずかな光のゆらぎ。視線の収束。
それは、名前のない墓に埋めた言葉を、誰かが不意に口にしたときの反応だった。
デーモンは、変わらぬ口調で続けた。
「法的に確認された身分が十二件。偽名は……何百あったかな。二十年の間に手を染めた修復仕事、裏契約、封印された案件の数々……」
舌打ちひとつ。まるで脳内のファイルを指でめくるように。
尻尾が一度だけ、ゆらりと揺れた。
「隠れ家が七つ。個人的に気に入ってた偽名が、いくつかあったな。そして……うーん、あと一つなんだっけな……?」
にやりと笑った。
「そうだ。娘が一人、いたな。」
名前ではない。
“アレン・バーンハート”——それは、既に死んだ街に捨てた名前にすぎなかった。
だが、その最後の一言が——神経を打った。
通りの喧騒が、遠くに引いていく。
思考が一点に研ぎ澄まされる。
彼は動いた。
アレン・バーンハートの手から、ジョウロが傾き、舗道へ細く水がこぼれる。
まばたきもしない。呼吸も止めたまま。
次の瞬間、左手が一閃。まるで設計された動作。
手袋のまま、デーモンの腹に触れた。
革が裂ける音。
その下で、指の骨と腱がねじれ、一本の鉤爪となって現れる。革の指先を破り、鋭く飛び出したそれは、すでに相手のコートに触れていた。
あと少し力を入れれば——内臓を裂くには十分だった。
「なるほど、やっぱり。」
デーモンはにやけたまま言った。
「ヒューマンじゃないってわけだ。」
アレンはほんの少しだけ身を寄せた。
「理由を言え。さもなきゃ、お前を真っ二つにする。」
それでもデーモンは、眉一つ動かさなかった。
「エージェント・ドスと呼んでくれ。」
淡々と。
「俺たちはチームの一員だ。お前はもう“食い込まれてる”、バーンハート。後戻りはできない。」
「警察か?」
「違うな。ただの——チームさ。……さあ、条件を受けろ。」
沈黙。
やがて、アレンの指がゆっくりとほどけていく。
彼は一歩、後ろへ下がった。
ドスはコートの襟を整えながら、まるで何事もなかったかのように言った。
「来週また会おう。同じ時間だ。」
通りの向かいにある狭いカフェに顎をしゃくった。
「ランチは俺のおごりだ。」
そして背を向け、歩き出した。
振り返りもせずに、さらりと一言。
「次は、話す価値のある話題を持ってきてくれよ?」
そのまま群衆の中へと消えていった。
アレンはじっと見送る。デーモンの姿が群衆に溶けきるまで。
左手が一度、わずかに動く。爪はすでに引っ込み、破れた革が指先で揺れていた。
彼はポケットから写真を取り出す。
スーツ姿の男が車に乗り込む瞬間を切り取った、粗いスナップ写真だった。
背後で鳴った店のベルは、場違いなほど明るかった。
「マーサーさん?」
マーシーの声には、いつもの温かな気遣いがあった。
「あなたの大事な蘭、準備できましたよ。」
しばらく答えなかった。
やがて、肩の力が抜ける。姿勢が、ダグラス・マーサーの“いつもの”柔らかいものに戻る。
写真をポケットへ戻しながら、振り返った。
「……今行きます。」
その声には、愛想しか残っていなかった。




