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1-2-3

 ゴーストは何も答えなかった。


 だが、その目の奥で何かが変わった。


 わずかな光のゆらぎ。視線の収束。


 それは、名前のない墓に埋めた言葉を、誰かが不意に口にしたときの反応だった。


 デーモンは、変わらぬ口調で続けた。


「法的に確認された身分が十二件。偽名は……何百あったかな。二十年の間に手を染めた修復仕事、裏契約、封印された案件の数々……」


 舌打ちひとつ。まるで脳内のファイルを指でめくるように。


 尻尾が一度だけ、ゆらりと揺れた。


「隠れ家が七つ。個人的に気に入ってた偽名が、いくつかあったな。そして……うーん、あと一つなんだっけな……?」


 にやりと笑った。


「そうだ。娘が一人、いたな。」


 名前ではない。

 “アレン・バーンハート”——それは、既に死んだ街に捨てた名前にすぎなかった。


 だが、その最後の一言が——神経を打った。


 通りの喧騒が、遠くに引いていく。


 思考が一点に研ぎ澄まされる。


 彼は動いた。


 アレン・バーンハートの手から、ジョウロが傾き、舗道へ細く水がこぼれる。


 まばたきもしない。呼吸も止めたまま。


 次の瞬間、左手が一閃。まるで設計された動作。


 手袋のまま、デーモンの腹に触れた。


 革が裂ける音。


 その下で、指の骨と腱がねじれ、一本の鉤爪となって現れる。革の指先を破り、鋭く飛び出したそれは、すでに相手のコートに触れていた。


 あと少し力を入れれば——内臓を裂くには十分だった。


「なるほど、やっぱり。」

 デーモンはにやけたまま言った。

「ヒューマンじゃないってわけだ。」


 アレンはほんの少しだけ身を寄せた。


「理由を言え。さもなきゃ、お前を真っ二つにする。」


 それでもデーモンは、眉一つ動かさなかった。


「エージェント・ドスと呼んでくれ。」

 淡々と。

「俺たちはチームの一員だ。お前はもう“食い込まれてる”、バーンハート。後戻りはできない。」


「警察か?」


「違うな。ただの——チームさ。……さあ、条件を受けろ。」


 沈黙。


 やがて、アレンの指がゆっくりとほどけていく。


 彼は一歩、後ろへ下がった。


 ドスはコートの襟を整えながら、まるで何事もなかったかのように言った。


「来週また会おう。同じ時間だ。」


 通りの向かいにある狭いカフェに顎をしゃくった。


「ランチは俺のおごりだ。」


 そして背を向け、歩き出した。


 振り返りもせずに、さらりと一言。


「次は、話す価値のある話題を持ってきてくれよ?」


 そのまま群衆の中へと消えていった。


 アレンはじっと見送る。デーモンの姿が群衆に溶けきるまで。


 左手が一度、わずかに動く。爪はすでに引っ込み、破れた革が指先で揺れていた。


 彼はポケットから写真を取り出す。


 スーツ姿の男が車に乗り込む瞬間を切り取った、粗いスナップ写真だった。


 背後で鳴った店のベルは、場違いなほど明るかった。


「マーサーさん?」

 マーシーの声には、いつもの温かな気遣いがあった。

「あなたの大事な蘭、準備できましたよ。」


 しばらく答えなかった。


 やがて、肩の力が抜ける。姿勢が、ダグラス・マーサーの“いつもの”柔らかいものに戻る。


 写真をポケットへ戻しながら、振り返った。


「……今行きます。」

 その声には、愛想しか残っていなかった。

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