表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/22

1-1-2

アポイント帳に記された名。


 紙の上では、レオン・トゥシュ。


 見た目はヒューマン。少なくとも表面上は。


 背が高く、肩幅もある。短く刈られた黒髪。強く結ばれた顎は、ポーズではなく習慣からくる静けさだった。細身だが、柔ではない。壊すことを心得ている手つきの男。


 スーツは上質だが目立たず、目は読めない。


 灰色の中折れ帽が素手の手にぶらさがっていた。もう片方の手には、黒革の手袋。細身のブリーフケースを持っていた。


 彼は帽子を置いた。何気ないようで、丁寧だった。続いてブリーフケースも机の上へ。その手は、一瞬だけ長く留まってから、離れた。


「トゥシュ様、どうぞおかけください」と、女性が言った。


 もう彼は座っていた。


 許可は必要なかった。ただ一度、軽くうなずき、待つ。


 女性はそのまま退出しようとした。


「待て!」ティヴンが鋭く叫ぶ。「お前は——残れ。……そこに立ってろ。何かあったら呼ぶ」


「は、はい」彼女は戸惑いつつ、ドアの脇に立ったまま動かない。


 男は何も言わなかった。ただ、微笑んだ。


 ティヴンは椅子で身をよじり、喉を鳴らして唾を飲み込んだ。沈黙は長く、重く続いた。


 ついに、議員のほうが折れた。


「ト、トゥシュ氏……いったい、何の……ご用件で?」


 男はブリーフケースを開け、薄いフォルダーを一枚取り出した。それを机の上に滑らせる。


「これについてです」


 ティヴンはフォルダーを開いた。最初の一行を読んで、動きが止まる。


 充血した目。震える唇。


「ぼ、僕には……これは署名できない……!」


 男はまばたきひとつしない。


「ですが、署名していただかないと困りますよ、ティヴン議員」


「奴らに殺される……」


 男はゆっくりともたれ、指を組んだ。


「……誰に?」


 ティヴンは突然立ち上がり、両手で机を叩いた。


「“サーペント”だッ!」叫んだ。「わかってないな! こんな書類に署名したら、俺は終わりなんだよ!」


 その動きで書類が舞い、積み重ねた紙の下から、隠していた拳銃が覗いた。


 ドアのそばにいた女性が驚いて一歩引いた。


 だが、男はまったく動かない。ティヴンを見つめたまま、落ち着いていた。まるで、駄々をこねる子どもを眺めているかのように。


 ティヴンの身体は震えていた。目は真っ赤に充血し、シャツは汗で濡れている。


 男の声は低く、静かだった。


「どのみち、議員……あなたは独りですよ」


 ほんのわずかに身を乗り出す。


「……あるいは、スーザンと、ちいさなティミーと一緒に」


 そのあとの沈黙は、空気が潰れるほど重かった。


 ティヴンはまるで時が止まったかのように固まった。


 口を開けるが、声は出ない。


 顔全体が崩れ、椅子に崩れ落ちる。片手で口元を覆い、涙が静かに頬を伝った。


「お願いだ……やめてくれ……」


 男の口調は変わらなかった。


「泣くことはありませんよ、議員。あなたは取引した。そのとき、どちらの側につくか選んだ。これがその代償です」


「たった一度だけだったんだ……知らなかったんだ……こんなことになるなんて……」


「もう関係ありません」男は言った。「運命はあなた自身のもの。署名するか……その死んだ手で書かせるかです」


 ティヴンは、彼を見た。——いや、ようやく本当に見た。


 その静けさこそが、脅しよりも恐ろしいのだと、気づいた。


「ノーだ!」ティヴンは叫ぶ。「もし俺が死ねば、警察が、連邦が、これを見つける! お前も終わりだ!」


 男は、くすりと笑った。


「勘弁してくださいよ、議員。警察がもう買収されてないとでも? あなたが買われるなら、奴らが買われていない理由は何です?」


 ティヴンの顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。震える手でサインを走り書きすると、紙に涙のしずくが落ちてにじんだ。


 終わった。


 男は無言で紙を手に取り、それをブリーフケースへと滑らせた。


 ティヴンは、魂までインクに吸い取られたかのように、椅子に沈み込んだ。


「この街は……罪の街……カルダーダム……」


 ひび割れた声で、苦々しくつぶやいた。


「燃えてしまえ……四十日四十夜の炎でな……」


 男は机の端に置いた帽子を拾い、片手で埃を払った。まるで、汚れた場所を歩き慣れている者のように。


 ドアへと向かい、女性のそばで立ち止まる。彼女は顔色を変えなかったが、翼は微かに震えていた。


 男は肩越しに一言。


「たしか……それは古い聖典からの言葉でしたね。四十日間の炎」


 ティヴンの声は、もはや力のない、空虚な叫びだった。


「いつか……エンジェルはデーモンを追放し……ネフィリムを根絶し……ヒューマンをこの苦しみから解放するんだ……!」


 男はドアの前で半身だけ振り返る。冷たく、静かな目で。


「自分すら救えないエンジェルが、ヒューマンを救えるとでも?」


 男は答えを待たずに去った。


 ドアが、音もなく閉まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ