修道女の微笑みは、闇より深く
――俺は、疲れていた。
王女直属の従者。
任務、書類、護衛、政略。
セリシアさんとの面会は、週一とはいえ形式的なものばかり。
アイリス王女の監視も日々強まり、さすがの俺も息が詰まりそうになっていた。
そんなとき、ギルドに差し出された一枚の推薦状が、俺を救った。
「望月海翔を、教会付き支援任務に任命すべし」
推薦者:王国教会・大司祭。
理由:回復系魔法の運用と信仰の指導を受けるため。
「……助かった、少し休める」
その瞬間、俺はまだ知らなかった。
その癒しの地が、最も心を削る戦場になるとは──
教会は王都の中心部、王城から徒歩十分ほどの距離にある白亜の建築だ。
その回廊を歩きながら、俺は案内役のシスターに導かれていた。
そして、辿り着いたのは、静かな礼拝堂の裏庭。
そこにいたのは、薄い金髪をゆるく結った修道女。
白くて清潔な衣。ゆっくりとした所作。
すべてが柔らかで、癒しの気配に満ちている。
「……あなたが、望月海翔さんですね」
彼女は優しく微笑んだ。
■サラ・ブレイクスピア。22歳。王国教会所属の修道女。
人々を癒す回復魔導師であり、精神導師。
母性的な優しさと包容力を持つが、内面には制御された執着と独自の正義を抱えている。
「はい。派遣されてきました、望月です」
「ようこそ、神の家へ……まずは、お疲れさまでした」
サラは静かにそう言いながら、俺の手を取って祈りの言葉を唱えた。
その瞬間、ふっと肩の力が抜ける。
これは……ただの魔法じゃない。精神に作用する聖印式ヒーリングだ。
「……すごい。今のだけでだいぶ楽になりました」
「ふふ。あなた、ずいぶんと頑張っている人の顔をしていましたから」
彼女の言葉は、まるで母親のように優しかった。
でも、だからこそ逆に、俺はどこかで違和感を覚えていた。
数日後――
教会での補助業務は、思った以上に穏やかだった。
孤児の世話、祈祷の手伝い、病人への回復魔法支援。
そして、夜はサラの導きで精神の再構築と呼ばれる座学セッション。
「海翔さん。最近、誰かに執着している人はいますか?」
「え? いや……まぁ、いるにはいますけど」
「そう……執着は、時に自分を見失わせるものです。あなたの心が壊れてしまう前に、正しい形に戻しましょう」
静かに語りながら、サラは俺の額に触れる。
彼女の魔法は、心にまで介入してくる。
優しく、あまりにも静かに。
でもその優しさが、逆に怖い。
ある日の夜、俺は教会の資料室でサラとふたりきりになった。
セリシアさんのことを聞かれたとき、俺はつい本音を口にした。
「正直、何が正しいかもう分からなくなってきて……セリシアさんに会うために、いろんなことをして……」
「……海翔さん。あなたの行動は、愛ではなく依存かもしれません」
「……!」
「会いたいから行動する。それは素敵なこと。でも、そのために自分を苦しめるなら、それは信仰ではありません」
サラは、俺の手を優しく握る。
けれど、その手は決して放してくれない。
「私なら、あなたを苦しませたりしません。ずっとそばにいて、あなたを癒し続けます。だから……」
「……それって、俺に諦めろって言ってるんですか?」
「正しい選択をしましょう、海翔さん」
その言葉に、背筋が凍った。
――彼女は、優しさで縛ってくる。
自分の正義で、俺を包み込み、思考を抑えようとしている。
その夜、クラリスから密書が届いた。
『サラ・ブレイクスピアは、精神魔術の応用使い。恋愛対象を浄化という名目で心から消す――つまり、セリシアに対する感情を消される危険がある』
やっぱりそうだ。
この人は、優しいけど──危険だ。
翌朝、俺は教会の中庭でセリシアの姿を見つけた。
どうやら視察に来ていたらしい。
でも、サラは俺にこう言った。
「会ってはいけません、海翔さん。今のあなたには……刺激が強すぎる」
「刺激でもいい。痛くてもいい……それが俺の本心なんです」
俺は彼女の前から離れ、セリシアに向かって走り出した。
後ろからは、サラの祈りの声が響いてくる。
でももう迷わない。
俺の気持ちは、誰かの癒しじゃ、消えないんだ──
教会の中庭──
薄曇りの空の下、俺は走っていた。
視界の先、セリシアさんが一人、神官たちに囲まれながら会話をしている。
──あの笑顔を、見失いたくない。
後ろから、声が追ってくる。
「……海翔さん、戻ってきてください。あなたは今、癒しを必要としている!」
声の主は、修道女サラ・ブレイクスピア。
その美しい顔に、悲しみすら浮かべている。
だが、俺はその手を振りほどいた。
「もう、誰かの言葉で俺の気持ちを決めたりしません!」
セリシアさんが俺に気づき、小さく目を見開く。
その瞬間、俺は立ち止まり、深く息を吸い込んだ。
「セリシアさん! 俺はあなたのことが好きです!ずっとずっと、今までもこれからも!」
まるで鐘の音のように、声が空に響いた。
沈黙が流れる。
だがその静寂を破ったのは──
「……やはり、感情の歪みが残っていますね」
──サラだった。
神官たちに静かに指示を出すと、彼女は俺に近づいてくる。
その手には、銀色の聖印が握られていた。
「私が、あなたの傷を癒して差し上げます」
次の瞬間、俺の身体が強制的に祈祷結界に包まれる。
視界が白く染まり音が消える。
「……このままでは、あなたの心は壊れます。私はあなたを救いたい――だから、今だけ眠ってください」
サラの声が響く。
俺は膝をつきそうになった。
けれど、俺の中の熱が、それを拒絶した。
「俺は……俺の意思で、誰かを好きになったんだ……!癒しなんかじゃ……その気持ちは消せない!!」
その瞬間、俺の指先が光を放った。
「っ……!?」
サラが一瞬、目を見開く。
俺は無意識のうちに、ポケットにあった“セリシアさんのペンダント”を握っていた。
あれは、彼女が以前、剣の手入れを手伝ったとき落としていったものだ。
その想い出が、俺の心を固定した。
「あなたの魔法は、たしかに癒しだった。でもそれは、誰かを好きになる自由を縛っちゃいけないんだよ!」
祈祷結界が弾ける。
サラは呆然としたまま、その場に立ち尽くした。
「……どうして、そんなに……傷つく道を、選べるんですか」
「それが生きてるってことだから」
俺は静かにそう答えた。
数日後──
教会内の処分で、サラはしばらく精神導師としての活動を休止することになった。
けれど、彼女は俺に手紙を残していた。
『私の癒しは、優しさの皮をかぶった支配でした。けれどあなたの心は、誰の癒しよりも強かった。次に会うとき、私は本当の意味で優しくなれているでしょうか』
きっと、彼女なりに俺を想ってくれていたんだと思う。
でも俺は、それでも自分の気持ちを守れたことが、ただ……誇らしかった。
ギルドに戻ると、クラリスが静かに拍手を送ってきた。
「予想より早く抜け出したわね。次はちょっと……根が深いわよ」
「また誰か来るのか……?」
「元同級生。たぶん、あなたが今まで一番心を許してた相手」
──ユミナ・クロス。
俺と同じく、異世界に転移してきた日本人。
そして、かつての仲間。
「まさか……ユミナが?」
「ええ。最後の最大戦力が動くわ。彼女の武器は──影と過去よ」