【短編】口下手どころじゃない僕
目で、追いかけてしまう女の子がいる。
中三で初めて同じクラスになって、たまたま目に入った彼女がそのとき読んでいた本を、僕も読んだことがあった。それから、度数の強いメガネと長めの前髪に隠れつつ、ボブヘアの彼女が読んでいる背表紙を盗み見るようになった。
面倒なことに、それをクラスのリーダー格の女子に気付かれた。「茅島さんのこと、好きなの?」と、人のプライベートにずかずか踏み込んでくる。怖いわけじゃないけど答えたくもなくて、口を閉ざしたまま顔を背けた。
いつの間にか、茅島さんは本を読まなくなった。そっと見回してみても、休み時間に教室にすらいない。
(避けられてる……?)
僕は、それなりに人の目線には過敏なほうだと思う。だから、茅島さんを見ていることを、気付かれてないと思ってた。
茅島さんも、そうだったのかもしれない。僕からの目線は、不快だったのかも。どうせ話せはしなかったし、これでよかったと割り切った。
おかしいと思ったのは、茅島さんが教科書をよく忘れるようになったこと。もう夏だけど、まだやる気が出てこないのだろうか。
(そんな人には見えないんだけど……)
あまり気に掛けていたら、また女子に目を付けられる。ほどほどにと思いながら、しゃべったこともない読書仲間を、ちらり盗み見ていた。
◇
教室で集められたゴミ袋を持って、校舎外の集積場へと歩く。いつもと同じように、ただ歩いていたつもりだった。
(ん……?)
近くの生垣に、何か見える。紙切れのようだ。本だったら、こんなところにあるのは許せない。せめて、室内に置いてあげたい。
軽い気持ちで拾って、フリーズした。見たことのある表紙、国語の教科書だ。折れてしまったページを丁寧に戻し、裏表紙に返して、誰のものか名前を見た。
(っ……)
声を上げられるわけじゃない。先生に言っても、僕の声は届きにくい。時間を取ってもらえないことも多い。紙に書いて、誰かに見られるのも大事になる。
僕には、茅島さんの意思を確認することすらできない。僕にできることは、そっと返すことくらいだ。
正面から立ち向かう勇気はなくて、放課後にひとりで生垣を見て回った。人があまり通らなそうなところへ行けば、茅島さんが持っていなかった教科書や資料集が見つかる。
普段と変わらない誰もいない時間に登校して、何事もなかったように茅島さんの机へ入れておいた。気に掛けてはいたものの、盗っている現場を見ることはなかった。
犯人の見当がついていても、僕には何もできなかった。
◇
「……須羽くん」
「っ……」
いつも通り、校舎の角にある生垣を覗いていたら、背後から声がした。慌てて振り返ると、茅島さんが立っていた。
「あ、ごめん。須羽くんが犯人だとは思ってない。毎日探してくれてるのも知ってる」
「…………」
口は開くけど、言葉は何も出てこない。声が、喉から先に出てくれない。
たった数秒だとは思う。でも僕にとっては、永遠みたく長い、数秒だ。
「須羽くん、斉藤さんのお気に入りでしょ? 私に構ってていいの? 私を助けてたって知られたら……」
(『構って』? 違う、そんなこと思ってない。僕はただ…………何か言わなきゃ、でもなんて? もしかして、勝手に探して戻すの、迷惑だった? 余計なお世話だった? あ……だめだ、流れる)
「えっ」
ぽたぽたと、涙が流れ落ちてしまう。下唇を噛んで肩に力が入っても、変わらない。手も震えているだろう。
見られたくなくて、顔を背ける。茅島さんが驚いて慌てるのも当然だ。
「え、えっ? ごめん、えっ、なんで?」
「…………人と話すの、慣れてなくて」
「うん?」
「……声が出なくて、なんて言えばいいか分からなくなって……悩んでるうちに、涙が出る」
「えっと、ごめんね」
首を横に振る。ポケットに手をやっても、想定してたものはそこになかった。
(しまった、ハンドタオル、教室に置いてきた……)
机の上に出したまま、ポケットに戻し忘れていた。仕方なく手の甲で頬を拭って、息を正そうとする。
普段は、本を読んでいればひとりでいられる。話し掛けられることなんてなかった。
「……茅島さんのせいじゃないから……僕が、みんなと違うだけ」
「須羽くん」
名前を呼ばれて、酷い顔をしてる自覚はあるのに、顔を上げてしまった。
「なんで、私に構ってくれるの」
迷惑がっている素振りはなく、優しいトーンに安心してしまった。ただ知りたいと、茅島さんは首を傾げている。
どう言えば、伝わるのだろう。僕が茅島さんの教科書を見つけたのは偶然で、最初の一回のあとはずっと下心で動いてるだけだ。
「…………『構った』とか、そんなつもりじゃない」
「うん」
嫌がらせを受けているのは茅島さんで、それは僕のせいだ。茅島さんを巻き込んだのは、僕だ。
「……ごめん」
「え、ごめん。話が読めない」
「……僕が目で追ってたから……それで、目を付けられたんだ、茅島さんが」
「うん、どうして?」
僕は、言葉を口に出すのが苦手だ。みんな、僕の言葉を待ってくれない。
「……茅島さんが読んでた本、僕も読んだことがあって……背表紙で、知って。それで……」
「私と話してみたかった?」
「いや……あ、違う、そうじゃなくて……」
「うん」
話してみたかったのは本当だ。でも、僕から声を掛けることはしなかった。だから、結果的に話す選択肢は持てなくて、話せなかった。
どうしても、会話に一時停止が入る。訂正する間があると、みんな面倒で最後まで聞いてくれない。
でも、茅島さんは違った。相槌を打ちながら、聞こうとしてくれる。身体を左右に揺らして、少し気を逸らすように待ってくれた。
僕だけ慌てて、滑稽に見えるだろう。誰にも、見られてほしくない。
「……見つけちゃって、見逃せなかった……でも、止めさせるのもできない」
「うん」
「……声を、掛けられなかった。斉藤さんにも、茅島さんにも」
「止めてって言えないのは、私も同じ。味方がいてくれたんだって嬉しかった」
「『嬉しい』? ……僕、何もしてない」
「してるよ、いつも私より先に見つけ出してくれる。ありがとう」
(『ありがとう』? 僕に?)
◇ ◇ ◇
噂に聞いたことはあった。勉強も運動もできる須羽くんは、すごく無口で、いつも本を持ってて、背の高さと一重瞼と黒縁メガネも相まって、クールな雰囲気で女子に人気だと。
小学校から同じ学校にいたのに、面と向かって話したのは今日が初めてだったと思う。まさか、涙を流すほどに会話が苦手だとは。授業中に当てられたときは、あんなに堂々と答えてるのに。
すごく、不思議な人だった。言葉を探して口をぱくぱく開けたり閉じたりする仕草は、イメージとのギャップが大きくて、むしろ可愛く見えた。
返事が来るまでは確かにゆっくりだったけど、それ以外は全然普通だった。
話しかけるなとばかりに、周りを睨んでる人だ。口を開けば高圧的に話すような、怖い人だと思ってた。
(震えながら、必死に、しゃべろうとしてたなあ……)
教科書はいつも、盗られはするけど分かりやすく捨てられて、使える状態で見つかる。破られたり汚されたりはしないから、あまり気にしてなかった。
たぶん、須羽くんが気付いてくれてからはずっと、須羽くんが戻してくれていた。
(呑気に構え過ぎたかな。須羽くんに悪いことしたなあ)
先生たちに言えば大事になるし、残り半年の中学生活をそれなりに送れれば、あの人たちとは高校で離れる。だって、学力的に差があるのは分かってるから。
(よしっ)
もう夜も遅くて、キッチンには誰もいない。クッキーくらいなら、一時間もあれば焼ける。焼くだけ焼いて、明日の朝、ラッピングすれば十分だ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
結局、茅島さんは先生に言うことなく、僕と一緒に中学を卒業した。僕が唯一できたのは、教科書を返す放課後に、人目を忍んで話を聞くくらいだった。
いじめっ子とは学校が離れ、茅島さんとは高校も一緒だった。僕のことを相当に買い被っている茅島さんは、僕がこの高校の入学式にいたことに驚いたらしい。
「もっと上のとこ行ってると思ってた」
「……家から遠くなる」
「それはそう」
電車を使わずに通学できる範囲にある高校はふたつ。いや、頑張ればみっつ。そのうちひとつは県内でも有数の進学校で、顔馴染みも何人か合格してるのは知ってた。
僕は、茅島さんがここを狙うと思ってたから志望校を変えなかった。尋ねたわけじゃないし勝手な予想だったけど、大学に行ける学力をキープできる普通科なら、別にどこでもよかった。
放課後になれば、誰もいない教室にふたり、横に並んで座る。いつの間にか、茅島さんは僕の隣で本を読むようになった。嬉しい誤算だ。
僕が購買の自販機で紙パックのコーヒーをふたり分買って、茅島さんが家で焼いて持ってきてくれるお菓子を摘まみながら、本を読んだり課題をしたり。それが、新しい日常になった。
◇
「あのね、ずっと聞いてみたかったんだけど」
「うん」
茅島さんが、僕にそういう言い方をするのは珍しい。ふたりともがクッキーに手を伸ばして、譲り合って遠慮して、読書中だけどコミュニケーションを取ったところだった。
「須羽くんの、その言葉が出ないやつ」
「……」
「話したくなければ全然」
「……いや、そうじゃないよ」
(むしろ、今まで聞かないでくれたんだ)
言葉を探して、口を開いて閉じて、茅島さんを見る。「ゆっくりでいいよ」と、笑ってくれる。
「……ありがとう」
「うん?」
「……気になってたんでしょ」
「まあ。でも気にしてるのも分かってたし、今ならいいかなって」
(初めてしゃべったときに、泣いたからね……)
逃げ続けた結果とも言えるだろうけど、あのときの恥ずかしさが蘇ってしまい、他の人と話すことはできないままだ。
「……どこから話せばいいのかなとか考えると、今も出てこないし……待ってくれてる、早く話さなきゃって焦ると……言葉よりも、涙が出る」
「怖いの?」
「んー……ある意味では。……無理に話そうとしないほうが、いいかなって」
「病気?」
「……障害、なのかなあ。……自閉とか吃音って呼ばれてるのは、知ってるけど」
実際のところ、自分で詳しく調べたことはあまりない。
スムーズに話せたほうが楽だろうし困ることもないとは思うけど、無理に話そうとして焦るほうが辛い。その記憶がフラッシュバックして、トラウマになって酷く上書きされ続ける。話す努力をするよりも、本に引きこもってしまうほうが楽だった。
「いつからそんな感じなの」
「……気付いたときには? 小さい頃からこうだったみたい」
「へえ?」
授業中以外で意識的に黙るようになったのは、小学校低学年くらいだっただろうか。それより前は、僕がしゃべる前にみんなが離れていった。言葉を口に出すまで、待ってもらえなかった。
「……あとは……言葉を話すのが遅くて心配されたかな……。発達的にね? ……成長するにつれてマシになっていくとか、いかないとか」
「授業中とか普通に答えてるように見えるよ?」
「……当てられたときに、どもったら笑われるから……予復習はしっかりしてるつもり」
「ああ、それで頭いいんだ? 体育も音楽も?」
「うーん……そうなりたかったわけじゃない。……揶揄われたくないだけ」
「すごいなあ」
「え?」
「きっと誰でも苦手ってあるけどさ、須羽くんはそれが避けられないから、やるしかないんだもん。努力の賜物でしょ? すごいよ」
「…………」
(あー、やっぱり僕、茅島さんのことが好きだ)
◇
教室には、僕たちしかいない。見えている室内はいつもと同じなのに、少し曇ってたからか、今日は何か雰囲気が違った。
窓は開いたままで、風に乗って床に落ちた紙のしおりを取るのに、手が重なった。茅島さんのは、僕のよりもずっと小さかった。
「須羽くん?」
「……ずっと考えてたことがあって」
触れたままの手を、机に拾い上げても離さない。力が入って、茅島さんの手ごとぎゅっと握り込んでしまう。
「…………」
「うん、大丈夫。須羽くんのペースで。待ってるから」
「……うるうるしてくるの、辞めたい……話せなくてもいいから、泣くのは……」
「スムーズになってきてない? 少なくとも私の前では」
「そうだといいんだけど」
茅島さんの前でなら、恥ずかしさもなく出せるようになったハンドタオルで、少しメガネを押し上げて目元を拭う。まだ、片手は触れたままだ。
「……茅島さんといるの、すごく心地いい。なんていうか……文字を追いながら、茅島さんの気配だけ感じられる。あと……誰かに読書を中断させられることもないし……茅島さんも自分の世界に入ってる。すごく、大事にしたい空間なんだ」
「うん」
「だから……」
「うん」
茅島さんは、少し微笑みながら待ってくれる。僕が何を言いたいのか、分かってるみたいだ。
「…………付き合ってほしい。僕と。嫌じゃなければ」
「うん。須羽くん、よろしくお願いします」
「え」
「言ってくれると思って、待ってたの」
「え」
「男の子から言われるって、結構憧れあったんだー。叶えてくれて、ありがとう」
笑ってくれた顔を、見続けることはできなかった。あんな可愛い顔を向けられたら、無理だ。何もできなくなる。当然、読んでいた本の文字は、頭に入ってこなくなった。
◇
「須羽くんって、ひとつひとつの言葉をゆっくり選ぶ感じなのかなあ? 頭の中でパズルやってそう」
「あー……近いかも。他の人のこと、分かんないけど」
「書き言葉は普通だもんね、打ってる時間があるのはみんな同じだし」
「そう。対面はね……」
茅島さんはたまに、放課後に食べる焼菓子のリクエストを聞いてくれる。そのおかげで、多少詳しくなった。今日はマフィンをもらった。僕が用意するのは相変わらず、紙パックのコーヒーだ。
「小説とか、書かないの?」
「え?」
「あ、ごめん。驚かせたかったわけじゃなくて。須羽くんが何を考えてるのか、エッセイだと恥ずかしいから小説にして教えてよ。楽しそうじゃない?」
「……ちょっとやってみたいかも」
考えてなかった話じゃない。書き言葉に起こせば、普通に想いを伝えられる。
一方的な日記も恥ずかしいし交換日記も思いついてたけど、別に茅島さんまで書き言葉にしなくていい。小説として誰かに投影すれば、確かに感じたことを書き残せるかもしれない。
◇
放課後の過ごし方は、少し変化した。教室で本を読むだけじゃなく、地域の図書館にも行くようになった。
中学を思い出して茅島さんを止めたけど、「図書館に来るような人たちだと思う?」と返されて、茅島さんが気にしていないなら大丈夫かと、一緒に本を選んだ。
「本は図書館に限る」
「……読みたい本、全部は買いきれないよ」
「そうだよね」
「あの……今日さ」
「うん?」
「……少し書いたの、読んでほしい……言ってた小説、書いてみた」
「ほんと? やった。嬉しい」
「『嬉しい』?」
「須羽くんが考えてること、分かるのは嬉しいよ」
(あー……、やっぱり、茅島さんが好きだ)
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
頭の中に浮かぶ言葉を、ひとつひとつ紙に書いて言語化する。茅島さんに背中を押してもらってやり始めて、自分の言葉なのに意外と難しくて疲れてくるけど、たぶん好きだから二年も続いている。
ひたすらノートに書きつける僕を見ている茅島さんにふと目をやると、笑ってくれるのが可愛い。何がそんなに楽しいのかは、分からないけど。
放課後の教室で受験勉強もしつつ、合間に小説を書くことも止めない。日記を書くみたく言葉を考えるときもあれば、思いついた出来事と感情をさっとメモすることもある。
繋ぎ合わせるとそれなりに読めるものになるらしく、茅島さんは喜んでくれる。
今日は、隣で問題集を開いて、ふたりで勉強をしているような、していないような。でも、それが心地よかった。誰かの目を気にしなくて済む、誰にも邪魔されない、ふたりだけの空間だ。
「ごめん、今日は買ってきたの。チョコ、あげる」
「いいよ、いつもありがとう」
三年振り二度目の受験生だ。茅島さんは親から、キッチンに入る時間を制限されているらしい。「気分転換だったのに」と口をとがらせる仕草もまた、僕の中での茅島さんの評価を上げる。
「須羽くんって、進路決めた?」
「……文学部に行くことだけ」
茅島さんが、ストローを咥えてコーヒーを吸った。
「私、家政学部か栄養学部に行こうと思って」
「え」
「あっ、やっぱり予想してなかったよね。文学部だと思ってた?」
「うん、いや、なんとなく……いわゆる文系的なところを選びそうだとは」
「そうだよね」
チョコを口に放り込んで、僕が驚いたことに「ふふっ」と笑う茅島さんが、もぐもぐと咀嚼するのを眺める。
僕は、茅島さんが悩んでる表情を見たことがない。元気がないと思うことも少なくて、それが心地良さに繋がってるのもある気がする。
「あのね、プレッシャーじゃないんだけど、須羽くんのお話、ネットに上げて賞に応募してみない?」
「え? まあ……ほんのちょっと考えたことある」
「なんだ、じゃあもう出してみようよ。読みやすくて面白いんだもん」
にっこりと笑いかけてくれる茅島さんが、何を考えてるのか全く読めなかった。たまにこうやって、話が飛ぶ。眺めてるだけじゃ分からなかったことも、この二年でだいぶ慣れた。
「……それで、なんで家政学部?」
「栄養士になりたいの」
「『栄養士』」
「料理も上手くなりたい。でも調理師じゃなくて、栄養士がいい。集中したら時間を忘れて没頭して、ずーっとノートから目を離さない人が近くにいて、してあげられることって何かなって」
「え……? え?」
「健康志向はどんどん高まってるし、栄養士は別に損にならないし。大作家さまの食事をお支えするとか、『大義であった』じゃない?」
茅島さんは今、時代小説を読むのにハマってて、その台詞を混ぜて話してくる。そういうちょっとした遊びができるのも、僕が同じものをすでに読んでいるからだ。
「……確かにそうだけど、それは……」
「私、須羽くんと別れる気なんてないもん。大学で浮気したら知らないぞー?」
「……僕ができると思う?」
「寄ってくるでしょ、いくら隠キャを装っても。中学でも高校でもそうだった」
「まあ……でもきっと、ずっとひとりで課題してるか、本読んでるよ」
「ふふ、そうかもね」
茅島さんの笑みはいつも控えめで、大笑いすることは少ない。軽口を言ったとしても、一線は越えない。その奥ゆかしさが、僕のペースと合うから心地いい。
相手が僕でいいのかと、上手く人と話せなくていざ話そうとしたら涙が先に出る僕が、どうして茅島さんと付き合えて、高三の今も続いているのかと、たまに自問自答する。
きっと、茅島さんは素直で正直な人だから、嫌になったら自分から離れていくのだろう。それまでは、隣にいるのを許してほしい。会話が怖くないの、茅島さんだけだから。
「……近くにあるの、栄養士を目指せる学部」
「それがなくて。ちょっと離れるから下宿になりそう」
「そっか」
「須羽くんの志望校は近いんだ?」
「……文学部だったらどこでもって思ってた……茅島さんと、近いところにしようかな」
「え、そんな決め方でいいの?」
「うん。だって……ほぼ毎日一緒に時間過ごしてて……会えなくなるとか考えられないよ」
そんなわけで、僕も、茅島さんと同じ大学の文学部に進学を決めた。難易度を下げる志望校の変更じゃなかったから、先生にも親にも受け入れてもらえたんだと思う。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
無事に同じ大学に入学して一ヶ月が経った。お互い別の学部でそれぞれの講義がある。ゴールデンウィークに入ってやっと、茅島さんの下宿に初めてお邪魔する。
茅島さんに勧められて応募したコンテストで賞は取れなかったものの、茅島さん以外にも僕の小説を楽しんでくれる読者さんがそれなりにいるのが分かった。新しいお話を書き進めているのもあって、あまりゆっくりした時間は取れず、下宿先は近いものの、大学のベンチで話すくらいに留めていた。
「おじゃまします」
「うん、適当に座ってて」
大きな窓からは、陽の光が入っている。ベッドの前に敷かれたグリーンのラグにはライトブラウンのローテーブルが置かれ、全体的に緑を感じられる、いかにも一人暮らしの女子大学生の明るい部屋だ。
茅島さんが、粉末のコーヒーを淹れてくれる。夏休みくらいには喫茶店でバイトを始めて、豆コーヒーの淹れ方をマスターしたいらしい。焼菓子のクオリティもどんどん上がっていくのだろう。
僕が座った真横に、茅島さんが腰を下ろす。自然と握った手はいつも通り小さくて、あたたかくてすべすべして気持ちがいい。
「どうしたの、うるうるしてる?」
「……緊張する」
顔を上げられないの、気付かれてた。茅島さんの肩に、頭を預けた。
「部屋、来たことないもんね。実家にも」
「うん」
茅島さんは、僕の特性を受け入れてくれる。でも、家族だからといって、茅島さんと同じ反応をしてくれるとは限らない。いつか会えるといいなとは、思ってる。
「両親に会うなら、大学卒業するころかなあ」
「え」
「分かんないけどね」
誤魔化すように、茅島さんが笑う。この優しさが、どういう家庭環境で育まれたのか、気にはなってる。僕を理解してくれそうなことも、それを考えられる余裕に繋がる。
ただ、今じゃない。まだ、家族が絡むのは早い。ふたりだけで、過ごしていたい。
「……ずっと思ってたんだ」
「うん?」
「……茅島さんに、触れたい…………この距離は、怖い」
茅島さんが、預けただけの僕の頭を、細いのに柔らかい腕でぎゅっと覆ってくれる。
「いいよ、好きなだけ」
「……ほんとに?」
「うん」
背もたれにしていたベッドに、茅島さんが上がってくれる。僕も追いかけて、隣に座る。茅島さんはいつもそうやって、僕が行動しやすいように誘導してくれる。
頬に手を伸ばすと、茅島さんの瞼が下りる。唇にキスをした。ちゅっと、音が鳴る。
顔を離すと、開いた瞳と視線が合った。頬には触れたままだ。茅島さんが、伏し目で逃げた。
「…………さおり」
「っ、それはだめ。反則です、いずみくん」
今日、完全にふたりきりの空間でなら、下の名前を呼んであげられると思って、覚悟を決めてきた。
目の前にある茅島さんの頬が、みるみる赤く染まる。そんなの見せられたら、移るに決まってる。
「……やっぱ無理……緊張が、限界突破する」
「なにそれ」
ぎゅっと抱え込んで、ボブヘアから覗く首元に顔を埋めた。茅島さんの表情が見えなくなれば少し、火照りが落ち着くような気がする。笑う茅島さんの震えが伝わってくる。
「耳まで真っ赤だよ、いずみくん」
「うう……あれ、見えてるの?」
「見えてないよ」
「え」
「抱え込まれてるもん、想像だよ」
揶揄われても、茅島さんだから許せる。腕の力を緩めると、顔を上げた茅島さんに頬を包まれた。
「名前、嬉しかった。もっと呼んで」
「……無理」
「恥ずかしいだけでしょ。ここは頑張って」
一度やって、嬉しいと言われたことをもう一度やってあげないほど、不誠実なことはないと思う。
「……さおり、ちゃん」
「え、今更? いずみくん」
名前で呼ばれるのが、こんなに心地よく響くとは思っていなかった。じんわり何かが広がって、こうして触れてるのが茅島さんでよかったと、心から想う。
「……沙織」
「依澄くん」
「あー……」
「なあに?」
もう一度、肩口に顔を埋める。
「しあわせ」
「何より」
「うん」
思いついた部分だけを◇で繫いだので、ブツ切りだったり初キスシーンがなかったりしてますが、書きたかった最後のシーンが書けて満足です。
お読みいただきありがとうございました。
20241226 季崎栞奈