第八章
「あなた、コーヒーのお代わりは?」
高藤恵美が空になったコーヒーカップを見て、夫の隆治に尋ねた。
「そうだな、もう一杯もらうよ」
隆治の返事を聞くと、恵美は流しに向かい、お気に入りのメリタ社のコーヒーフィルターをカップにセットした。コーヒーの粉を入れ、沸かしたお湯をやかんからゆっくりと注ぎ始める。
辺りにコーヒーの香りがふんわりと漂う中、恵美が言った。
「それにしても、由美が就職活動で悲惨な目に合わずにすみそうで、本当に安心したわ」
隆治が恵美の背中越しに答える。
「ああ。四浪だと女の子の就職活動は厳しいからな。手を打つ方法が見つかって良かったよ」
コーヒーを2つテーブルに持ってきて、椅子に座りながら恵美が続けた。
「あの子が二浪してうつ病になったときは、本当にどうしたらいいかわからなかったもの。
今回就職先が決まらなかったら、きっと六年前の二の舞だったわ」
隆治がコーヒーをすすりながら言った。
「だから僕も必死だったさ!
もともとできのいい子なんだ。大学名じゃなく、能力や人間性で選んでもらえる環境なら、すぐに評価されるだろ?
今回は運が良かった。まったく弘子さまさまだよ」
リンゴをつまみながら恵美が答える。
「弘子さんって、いつから東京に来ていたのかしら? たしか息子の正彦君は今年28歳だったわよね?」
恵美につられてリンゴに手を伸ばしながら隆治が言った。
「この前おふくろから聞いた話だと、弘子は家にはほとんど帰らず、男を作っては各地を転々とする生活をしていたらしい。
それで二年前に今の学長と出会って、東京に落ち着くことになったみたいだよ」
「あらまあ!」
もりもりリンゴを食べながら、呆れたわ、という表情で恵美が言った。
「じゃあ、正彦君はお母さんと一緒に暮らしていなかったの? そんなのかわいそう!」
「だよなあ」
うなずいて隆治が言う。
「正彦はお母さんが恋しくて、随分おふくろの手を焼かせたらしいからな。弘子がもっとしっかりしていたら良かったんだが」
「でも、弘子さんがああいう性格だから、我が家は今回助けられたようなものじゃない? 何がどう転ぶか、世の中ってわからないものよねえ」
「いや、まったくその通り。これで由美も本来持っている自信を取り戻せるだろうしな」
二人はお互いを見てにっこりした。
「ええ! 由美はあなたにそっくりでとても頭がいい子ですもん。会社に入ればその優秀さで、すぐにみんなから重宝されるようになるわ!」
「そして、君そっくりの美貌は群を抜いているものな!
それだけでも素晴らしいのに、あの子はとんでもなく気立てがいいんだ! あんなにきちんと親の言うことを聞ける子はそうそういないよ。
思いやりの深い優しい子だから、会社でいい人と巡り合ってすぐに結婚もできるはずさ」
ふふふっと機嫌よく笑って恵美が言った。
「私たちの由美は幸せね。こんなに理解ある両親に恵まれて!」
隆治もうんうんと首を縦に振って返した。
「ああ、そうだとも! 僕のように、おやじから『頭がいいだけで気が弱すぎる! 勇気のかけらもない能無しめ!』とののしられることもないし」
「私のようにお母さんから『外見を磨くばっかりで、ちっとも村の役に立たない穀潰し!』ってさげすまれることもないし」
目をキラキラと輝かせながら、二人は熱く語る。
「ちょっと遠回りをしたかもしれないけど、大丈夫。『若いうちの苦労は買ってでもしろ』っていうだろ? 僕たちの由美は、これからの人生では成功するさ!」
「ええ! 由美は私たちの理想の子供だもの。これからも私たちがしっかり支えてあげれば、幸せな人生を送れるはずよ!」
この夫婦二人の間にあるのは、自分の親に否定され続けた「ありのままの自分」を、我が娘にこそ完璧に再現してもらいたいという飽くなき欲求だ。
そしてできれば彼らを傷つけたあの親たちに、理想の姿に育った娘を見て、「ごめんなさい。正しかったのはお前たちの方だった!」と詫びてもらいたい、とすら願っている。
ああ、一方的に両親の理想を押し付けられた、ペットのように従順な娘。一体彼女の気持ちはどうなってしまうのか。
いや、そんなことはこの二人には毛ほども気にならない。だって愛する娘は「彼らそのもの」。彼らの考える正解は、無条件で娘にも当てはまるのだから。