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第十七章

 「哲治はねえ、今は宮城にいるのよ」


 わたしこと高藤由美の祖母であるいちは、おっとりした口調で、わたしの兄の哲治について話し始めた。


 「宮城? どうして東北に? 親戚なんていなかったと思うけど……?」


 「お友達の親戚がそちらにいて、2人で宮城に行ったと話していたねえ」


 お兄ちゃんの友達というと、わたしには3人しか思い当たらない。


 「ひょっとして、川上さん?」


 おばあちゃんが目を丸くしてわたしを見た。


 「あらま、お前も知り合いだったのかい?」


 わたしはこくりと頷いて言った。


 「川上さんたちは毎日のようにお兄ちゃんのお見舞いで病院に来ていたし、自宅にも迎えに来ていたから、挨拶はしていたよ」


 「そう。哲治はお友達に恵まれていたんだねえ」


 おばあちゃんの目尻が下がる。ちょっとほっとした様子だった。わたしはさらに尋ねる。


 「宮城に一緒に行ったのは、太一さんかなあ?」


 「ええそう。たしか川上さんは二人兄弟だったわねえ。お兄さんの太一さんと宮城に行ったはずよ。よくわかるわねえ?」


 「うん。なんとなくね……」


 わたしは太一さんのことを思い出していた。身長が180センチ近いお兄ちゃんよりさらに背が高くて、浅黒い肌が印象的な人だった。バイクでお兄ちゃんをはねてしまったあと、弟の直樹さんと一緒に毎日病院に通ってくれた。

 うちのお父さんやお母さんに罵倒されて、きっととても辛かっただろうに、ひたすら頭を下げて謝り続け、家庭内で孤独だったお兄ちゃんを支え続けてくれたのだ。


 事故以来、バイクに乗らなくなった太一さんは、しばらくするとミニバンでお兄ちゃんを迎えに来るようになっていた。

その様子を見たお母さんは


「バイクで事故を起こしたくせに、今度は車に乗るなんて!」


と怒っていたけれど、今になって思えば、あれはきっと動き回る自由を失ったお兄ちゃんのためだったのだ。



 「それで、おばあちゃんはいつお兄ちゃんが宮城にいることを知ったの?」


 わたしが尋ねると、おばあちゃんはふふふと笑って言った。


 「前に世話していた若い衆にちょっとお願いしたのよ。最初に頼んでいた探偵よりも、おじいちゃんが鍛えたあの子たちの方が、調査能力は上だったわねえ」


 「そうなんだ。じゃあ、見つけたのって……」


 「そう、哲治が蒸発して1年後のことよ」


 わたしは頭を抱えた。


 「じゃあ、おばあちゃんはうちの家族に11年もこのことを黙っていたってこと?」


 おばあちゃんがお冷やの入ったグラスを手に取って一口飲むと、改めてお兄ちゃんと再会したときのことを話し始めた。


 「それはね、哲治が家族を捨てたからよ。傷つけあうばかり、苦しむばかりの関係に、あの子が見切りをつけたのねえ。

 とはいえ、私も最初はちょっと信じられなかったのよ。だって父である隆治は会社の社長になって、立派な一軒家を建てて、家族に何不自由ない生活をさせているでしょう?

 哲治が勉強できないという話は聞いていたし、家で暴れるし夜遊びもするしでこのままだと不良になりそうだ、とも言っていたから、問題を抱えているのは哲治だと思っていたの。

 でもねえ……」


 ふうっとため息をついておばあちゃんは窓の外を見た。わたしも釣られて視線を追う。残暑の日差しが厳しい中、人がいない庭をぶちのネコがゆうゆうと歩いている。おばあちゃんが口を開いた。


 「哲治を探すとき、中心になっていたのは高橋なんだけどねえ、哲治が見つかったときに言われたのよ」


 わたしは無口な料理人の高橋さんを思い出した。昔からおじいちゃんのお店で調理をしていた人で、おじいちゃん亡き後、おばあちゃんが開店した小料理屋で働いている。今やおばあちゃんの右腕と言える人だ。

 わたしは尋ねた。


 「言われたって、何を?」


 「『哲治お坊ちゃんは親分とよく似ていますから、隆治お坊ちゃんとそりが合わずに飛び出されたんじゃないんですか。哲治お坊ちゃんだけが悪いとは、あっしには到底思えません』って。


 たしかにねえ、哲治は目つきといい、気が弱いくせに突っ張って怒りっぽくなるところといい、おじいちゃんにそっくりなのよねえ。それで想像してみたのよ。もしも隆治の息子がおじいちゃんだとしたらって」


 おばあちゃんは肩を震わしてくくくっと笑って話を続けた。


 「いやもう、悲惨な状況しか思いつかなかったわあ。それで、哲治の立場に少し共感できるようになったの。


 宮城で私があの子の住んでいるアパートのベルを鳴らしたとき、哲治がどれだけ驚いていたことか。それでも私を拒否せずにきちんと話をしてくれたのよ」


 「ねえ、お兄ちゃんは元気なの?」


 わたしがそう聞くと、おばあちゃんは微笑んで答えた。


 「ええ、元気よ。今は自宅でオリジナルのゲームを作って販売したり、他社さんのゲーム作りに参加しているみたいで、そこそこ稼いでいるらしいわねえ」


 「インベーダーが役に立ったんだ。お兄ちゃん、すごいな」


 塾帰りに町田のインベーダーハウスでゲームに明け暮れていたお兄ちゃんのことを思い出す。家の小銭まで盗んで夢中になっていたんだっけ。

 今思えば、そんな風に我を忘れて熱中できることが見つかったなんて、とても良いことじゃないか。

 世間から「勉強ができない奴は人生の落後者だ」と言われている気がして、それが正解だと信じて生きて来たけれど、別の生き方があってもいい。

 お兄ちゃんは世間が作る「いい子」の殻を破って、自分なりの生き方を見つけたのだ。


 たとえ片足を失ったとしても、好きな仕事と信頼できる人間関係を作って自立しているお兄ちゃん。

 翻ってわたしはどうだろう? 好きだったバレエは大学受験のために引退し、両親の期待に応えるために必死で勉強したけど志望大学には入れなくて、うつ病になって四浪して。ようやく大学に入ったものの、今度は就職活動すらやり切れず、弘子おばさんのコネを使おうとして……。



 「それでねえ……」


 おばあちゃんが続きを話し出す。


 「どうやら哲治は事故に遭う直前に、お父さんお母さんと激しくケンカしたらしいのねえ。

 詳しくは話してくれなかったんだけど、『あんたなんか産まなければ良かった』とか『お前はおじいちゃんにそっくりな人間の屑だ』とか相当ひどいことを言われたみたいで、それで発作的に自殺しようと考えたみたいなの」


 ふんと鼻を鳴らしておばあちゃんが話し続ける。


 「おじいちゃんだって哲治だって家族なのに、そんな言い方するなんてねえ。私も隆治と恵美さんに頭にきたのよ。

 そして哲治がこうなったのは、この子のせいだけではない。両親にも問題があるんだ、とそのときようやく気がつけたのよ」


 わたしはハンマーで殴られたようなショックを受けた。あの両親がお兄ちゃんにそんな暴力的な言葉を投げかけていたなんて!



 事故の後、お父さんはますます怒りっぽくなって、お兄ちゃんの存在を無視するようになっていたし、お母さんはお兄ちゃんに不自然なくらいによそよそしくなっていた。とても家族とは言えない状況だったことを改めて思い出す。

 わたしはバラバラになりそうな家族の関係を何とかしたいと思っていたけれど、小6のわたしにとって親は絶対に正しい存在だった。だから、家族を元に戻すためだと信じて、両親の主張を鵜呑みにして、お兄ちゃんとの間に壁を作ってしまったのだ。

 その結果、お兄ちゃんは家庭で居場所を失って失踪し、わたしは両親にとっての「いい子」の枠に囚われ続けることになってしまった。


 ああ、そうか。言うなれば、今のわたしは両親が作る「家族という卵」の中から抜け出せないヒナなのだ。

 優秀で美しい娘、というカテゴリーに居続けるために、自分で考えることを禁じられ、世間の「人並み」という言葉に踊らされ、夢破れて疲れ果てて。

 お兄ちゃんは事故がきっかけとなって殻を破って、外の世界に飛び出した。それじゃあ、わたしは? 一体わたしはどうしたらいいの……?



 「由美! 大丈夫? 顔色が真っ青よ」


 べったりと手汗がついた手をハンカチで拭って、わたしは呟いた。


 「お父さんもお母さんもひどいよ。お兄ちゃんがかわいそう……」


 「だから哲治は両親に自分の居場所を知られたくなかったのねえ。

 あの子の気持ちがよくわかったから、今までずっとお前にも話せずにいたのよ。心配をかけてしまって、本当に悪かったわねえ」


 おばあちゃんに「いいよ」と答えて、わたしは窓の外を見た。ぶちネコがいなくなった空っぽの庭が妙に寒々しく見える。

 お兄ちゃんが元気で生きている。これ自体はとても嬉しいことだ。だけど、この事実が鏡になって、今のわたしの本当の姿が赤裸々に映し出されてしまった。


・・・


 楕円形の白い壁がわたしをぐるりと取り囲んでいる。子供の頃は広々として温かく居心地の良い、わたしがわたしでいられる素敵なお城だった。

 でも今はどうだろう。わたしが成長したことで、白い壁の上下左右がわたしのすぐそばまで迫ってきている。圧迫感に耐え切れなくなって壁を押し広げようとしても、硬くて分厚くてまるで歯が立たない。


 「誰か! 助けて!」


 外に向かって声を張り上げても、この壁は全てを吸い尽くしてしまうのだ。

 殻の外に出るのは怖い。だけど、この中に居続けたらじきに命が尽きてしまう。毎日毎時間、わたしの体は大きくなり、殻の中は狭くなるのだから。



 「もう……動けない」


 ついに身動きのできなくなったわたしは、殻の中であがく気力すらなくなった。

 わたしは小さな胎児のように体をくるりと丸めると、さらに狭くなった卵の中でしくしくと泣きだした。今度はその涙で溺れ死んでしまうかもしれないのに。

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