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第十四章

 銀行業界誌の編集長である高藤隆治は、2年前に合併をした「あかね銀行」の応接室の皮張りのソファに座り、落ち着かなそうに腕時計をチェックした。


 「遅いな……」


 あかね銀行の前身の一つである三矢銀行は財閥系列の老舗銀行だった。隆治は当時の頭取と編集者の仕事を通じて知り合い、その後自分が立ち上げた銀行業界誌を全行で購読してもらえることになったのだ。

 だが、1989年12月に日経平均株価が史上最高値の3万8915円を記録して以来、株価は右肩下がり。3年目の現在は1万6千円台で最盛期の4割の株価にしかならないという状況で、隆治の業界誌の購読数も急激に減少を続けていた。


 それでも合併による店舗数の減少分の購読減はあったものの、あかね銀行には今も変わらぬお付き合いをさせてもらっている。

 新しい総務部長になったということでご挨拶に来たのだが、すでに約束した面会時間から30分以上過ぎていた。



 「お待たせしました」


 がちゃりと分厚い扉が開き、背が高くがちっとしたラガーマンのような体つきの銀縁眼鏡をかけた男性が現れた。名刺交換をして、二人は向かい合ってソファに座る。総務部長の牧島が話し始めた。


 「遅くなりまして大変失礼いたしました。少々行内がバタついておりまして」


 制服姿の女性がお茶をテーブルに置くと、牧島は湯飲みのお茶を一気に飲み干した。


 「君、お代わりを」


 注がれたお茶をまた一口飲んで、ようやく一息ついたのか、牧島はソファに座り直した。隆治が口を開く。


 「本日はお時間を頂戴しまして、誠にありがとうございます。時間についてはどうぞお気になさらず。御行にはいつも大変お世話になっておりますし、合併後の調整などでかなりお忙しいのではと拝察しておりました」


 「それはどうも」


 牧島が口角を上げてにやりと笑ったが、目はまったく笑っていない。牧島が話し続ける。


 「高藤さんのところの業界紙『金融NOW』、私も新人の頃から長らく拝読しております。世界の動向から官庁の分析まで、丁寧に調べられたデータと解説は、若かった自分にとって実にためになる教材でした」


 隆治は笑顔になって応える。


 「お役に立てたようで光栄です! 分析力が売りの雑誌ですから、そう言っていただけると報われます。そうそう……」


 隆治は先ほどまで分析していたデータの束を鞄から出して牧島に見せながら説明する。


 「来月の特集を組む準備をしているのですが、BIS規制とその余波について、海外の動向も反映した記事になります。世界ではソ連が崩壊し、東西ドイツが統一しました。湾岸戦争による石油価格の動向も気になりますが、その一方でNIEs諸国は急成長をしています。

 日本の金融業界でも、アジア進出は注目のテーマですよね。もちろん、合併してさらなる国際業務進出をもくろむ御行にとって、BIS規制は非常に重要なテーマだと思うんですよ。つまり……」


 具体的な説明を始めようとする隆治を、慌てて牧島がとどめて、頭を深く下げた。


 「高藤さん、申し訳ありません!」


 「え?」


 「まさにそのBIS規制での自己資本比率の引き上げ、そしてバブル崩壊での不良債権処理が想定をはるかに超えて重く圧し掛かってきており、当行では採算性の向上が喫緊の超重要課題となっております。そして……」


 大きな咳払いをして、牧島が続けた。


 「雑誌などの購入についても徹底的に見直すようにと上から通達がございました。

 高藤さん、今までの長いお付き合いを考えると、誠に恐縮の極みでありますが、10月以降の契約については解約をさせていただきたく、お願い申し上げます」


 ソファから立ち上がり、深々と頭を下げる牧島を隆治はしばらく呆然と見つめていたが、我に返ると猛然と立ち上がり、最敬礼を続ける牧島に泣きついた。


 「いや、いやいやいや! それは困りますよ、牧島さん!

 半年ごとの契約になっていたとはいえ、これまで四半世紀以上更新していただいていたんです!

 それがいきなり2か月後に契約打ち切りだなんて、影響が大きすぎてこちらもまったく対応できません。

 お願いします! もう一度、考え直していただけませんでしょうか!?」


 急に、頭を下げている牧島の体が一回り小さくなったように見えた。牧島がかすれた声で答える。


 「大変申し訳ございません。我々も合併直後にバブルが崩壊したことが災いして、非常に苦しいのです。ご内密にお願いしたいのですが、このまま状況が悪化すると、あと3年……いや、あと2年で当行は初の赤字経営に転落、それどころか破綻する可能性すらあります。まずは生き残るためにできることを何でもやらなければならないのです」


 それでも隆治は必死に食いついた。


 「は、破綻の可能性!? 御行は合併したことで規模拡大のメリットが生まれたはずです。まさか、そんな大げさな……」


 途端に牧島が隆治を睨んだ。


 「大げさ? 金融業界誌の編集長とは思えないお言葉ですね。

 株価が最高値になった3年前に、我々が他行と違って、合併比率に影響を及ぼすエクイティファイナンスができなかったことをあなたならよくご存知でしょう?

 あのタイミングで普通株式による増資ができなかったことが、我々の現在の自己資本比率にどれだけ影響を与えているか、まさかおわかりにならないとでも?」


 隆治は慌ててお詫びをした。


 「も、もちろん把握しております。ですが、まさか破綻の可能性があるとは、初耳でしたから……」


 「次の四半期報告書が出れば、すぐにご納得いただけますよ」


 吐き捨てるように牧島が言った。


 「ともかく。そういうわけで、我々も生き残るためになりふり構っていられない状況なのです。わかってください! この通りです!」


 再び最敬礼した牧島の姿は、これが決定事項であることを主張していた。隆治は深いため息をついて言った。


 「わかりました。御行が危機のさなかにあることを包み隠さずお話しいただき、ありがとうございました。私共も非常に厳しい状況ではございますが、今回は継続を中断させていただきます」


 牧島の顔がほっとして明るくなった。


 「ありがとうございます! 誠にかたじけない!」


 「ですが、御行が危機を脱した暁には、また弊誌の採用をお願いいたしたく」


 頭を下げた隆治に向かって牧島が約束した。


 「もちろんです! この恩義は決して忘れません! その際にはまた改めてご連絡させていただきます!」



 あかね銀行本社ビルから出てきた隆治は、魂が抜けたようになって歩き続けていた。残暑の厳しい夏の日だというのに、手足が冷え切って凍えそうだ。大口契約をしていたあかね銀行から契約を打ち切られたことで、予定していた毎月の売り上げの半分が消えてしまった。しかもこれはあかね銀行に限った話ではない。


 「明日は小山銀行から呼び出されているが、まさか契約打ち切りの話じゃないだろうな……」


 嫌な予感を振り払い、隆治は考え続ける。


 「利益を確保するためにも、ライターやカメラマンへの依頼を減らして、自分でやるしかない。次の入稿はいつだったか……」


 手帳をぺらぺらとめくっていると、大量の誌面をたった一人で締め切りまでに埋めなければならない、というプレッシャーが胸にせり上がってくる。 途端に世界がぐるぐると回転を始めた。


 「まずい!」


 何かにしがみつこうと伸ばした手は、むなしく空中をかき、隆治は顔面からどうと地面に倒れ込んだ。


 「きゃー!」


 「大丈夫ですか?」


 「おい、救急車!」


 周囲の人たちの焦っている声が急速に遠のき、隆治は気を失った。

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