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第十三章

 12年も経って「お兄ちゃんに会いたい」とわたしこと高藤由美が願ったところで、この家庭でわたしの気持ちが優先されることは絶対にない。わかってはいたけど、ここまであからさまに両親から説得されるとさすがに悲しくなった。

 胸を切り裂くような痛みが体の内側に盛り上がりかけて、わたしは湧きあがった悲しさに慌てて蓋をした。

 だって、わたしにはまだ両親が必要だし、いい子でいれば愛してくれるのだから。彼らを裏切る気持ちにはどうしてもなれない。

 そこでわたしは食卓で目の前に並んで座る両親にこう答えた。


 「そうだね。お兄ちゃんから会いたいと言ってくれるまで、待った方がいいね。もうこの話はしない」


 二人がほっとしたのがわかる。わたしはこんな風に親の顔色ばかり見て、素直に気持ちを表現できない自分を感じて、我が身が小さく縮んでいくような心細い気持ちになった。



 席を立ったわたしを見て、お母さんが尋ねる。


 「あら、もうごちそうさま?」


 「うん。弘子おばさんにお礼状を改めて出したいから部屋に戻るね」


 お父さんが満足げに頷く。


 「そうだな。弘子にこまめに報告しておけば、面接でもさらに配慮してもらえるだろう。出しておきなさい」


 わたしはこくりと頷くとキッチンを出た。



 部屋に戻り、学習机に向かう。はがきに文例通りのお礼の言葉を書きながら、わたしは腕から気力が抜け落ちていくのを感じた。腕が重くなって、一つも文字を書くことができなくなった。

 しばらくボールペンを握りしめていたせいだろうか。吹き出した手の汗で、はがきの上の文字がにじんで汚れてしまった。


 わたしはボールペンを放り出し、ベッドにうつぶせに倒れ込んだ。

 なぜだか涙が止まらない。何か透明な膜のようなものが体全体を覆うのを感じながら、わたしはただ静かに涙を流し続けた。




 「由美ったら、大丈夫かしら?」


 由美が自分の部屋に戻った後、食卓の皿を下げてコーヒーを淹れながら、母親の恵美が夫の隆治に話しかけた。


 「顔色が真っ青だったわ。哲治の話でショックを受けたのよね、きっと」


 「そりゃ驚くだろ。寝耳に水の話だからな。

 弘子も僕に先に伝えてくれたらよかったのに」


 隆治が朝刊をテーブルの上で開きながら話し続ける。


 「たしか哲治が家出をしたのは、事故から1年半経った、12年前の春だったよな。桜が満開でさ」


 コーヒーを2つ手に持ち、恵美が席に着いた。カップを1つ隆治に手渡しながら、恵美が答えた。


 「ええ、ちょうど春休みだったわ。私が由美とショッピングから戻ってきたときには、もう哲治がいなくなっていたのよ」


 マイルドセブンを一本取り出し、ライターで火を付けながら隆治が遠くを見るような目で言った。


 「学習机の上にあった書き置きは随分シンプルだったよな。

 『探さないでください』

としか書いてなくてな。洋服ダンスも空っぽで……。勉強道具以外、何も残ってなかったよなあ」


 「あの部屋の様子を見て、由美が見たことないくらいに動揺して大泣きしちゃったのよね」


 恵美がコーヒーカップを両手で持ちながら答えた。


 「そうだったな。あれからしばらく、『お兄ちゃんがいなくなっちゃった』って泣いては、ルーちゃんをずっと抱っこしてたよなあ。

 まだあるのか? あのぬいぐるみ」


 恵美がマイルドセブンの箱を手に持ち、隆治を見た。隆治がどうぞという仕草をすると、恵美は紙煙草に火をつけ、おいしそうに煙を吐き出した。


 「あるわよ。由美のベッドの枕元に置いてあるわ。すっかりくたびれているけど、大切にしてる」


 そんな恵美の様子を見て、思い出したように隆治が言った。


 「由美は哲治がいなくなって落ち込んでいたけど、お前はそうでもなかったよな?」


 恵美が頬杖をついて、隆治をちらりと見た。


 「そりゃそうでしょ。言うことを聞かないで家のお金を盗んだり、夜中に家から飛び出して事故に遭って意識不明の重体になったりして。ようやく意識が戻ったと思ったら、左足がなくなっていることに気がついて今度は大荒れ……。

 そんな子がいきなり蒸発したのには驚いたけど、正直ほっとしたのよ。だって私たちじゃ、もうコントロールできなかったもの」


 恵美は嫌なことを思い出した、と言わんばかりの険しい表情で煙草の煙を吐き出した。辺りが煙で霞んでいく。


 「入院中だって、痛い、辛いって訴えてきたけど、それって全部自業自得じゃない? なのに、まるで私のせいだと言わんばかりに、恨めしそうに伝えてきて!」


 煙草の煙をふーっと吐き出して、隆治が同意した。


 「たしかに、あいつは意識が戻った後、お前に甘えっぱなしだったよな。それで一度ケンカになったんだよな?」


 「そうよお!」


 思い出すだけで腹が立つ、といった様子で恵美が呻いた。


 「寝たきりで体が痛いからマッサージしてくれってしつこくて。見舞いに行くたびに何度も何度もマッサージする羽目になったのよ! 

 もうリハビリも始まったんだから、あとは看護婦さんと相談して、ってお願いしているのに、『嫌だ!お母さんがいい!』の一点張りで!

 だけど、哲治の体は大きいし、筋肉が固くなっていたから、ほぐすのが大変で大変で! 手が腱鞘炎になりそうだったから、哲治の言いなりになるのをやめたの。『いつまでも甘えないで! 私はお前のマッサージ器じゃないのよ!』ってね。

 そしたら、『あんたなんかオレの母親じゃない!』って怒鳴って、お皿を投げつけてきたのよ!」


 「あれはひどかったよなあ」


 隆治が頷いて返すと、鼻息荒く恵美が言った。


 「ひどいなんてもんじゃないわ! 暴力よ! 殺されるんじゃないかと恐ろしくなったわ!」


 うんうん、と同意しながら隆治が言った。


 「あのあとから、お見舞いに行く回数を減らしたのは正解だったよな。由美は反対していたけど、哲治の態度は親に対するものじゃなかった」


 「ええ! それに事故を起こした川上さんたちが毎日お見舞いしていたから、別に一人ぼっちってわけじゃなかったもの」


 「そうだよなあ。こっちだって生活があるんだから、あいつの面倒ばかりみてられないよ。友達が来てくれて助かったよな」


 その隆治のセリフに納得がいかない様子で恵美が訴えた。


 「でも、ガラの悪い人たちよ! 家に戻った哲治が私たちに壁を作ったのも、あの子たちのせいだった! 

 お皿を投げたあとから、急に私たちによそよそしくなったのも、どうせ川上さんたちに言いくるめられたんでしょう?」


 「ああ、それはまったくその通りだ。哲治が私たちを裏切って家出したのも、結局彼らの言うことを信じて、私たち家族の話に耳を貸さなかったせいだからな。

 まあどうしようもないよ。ああいうよく考えもせず衝動的に突っ走る性格は、やっぱりおやじからの遺伝だろうから」


 言いながら隆治が立ち上がった。恵美がハンガーから背広を外し、隆治が腕を通した。


 「いってくる」


 「いってらっしゃい。今日も遅くなるの?」


 「どうだろうな。『あかね銀行』に呼ばれているから、直行しようと思っているんだが、重要な案件はそのくらいかな……。会社に戻って急ぎの用事がなかったら、早めに戻るようにするよ」


 「お願いね。まだ由美が不安定だから、目をかけてあげたいの」


 玄関で靴を履いた隆治が、恵美の方を振り返って応えた。


 「そうだな。もう一息だろうから、二人で由美を支えてあげよう」


 二人は目を交わし合い、にっこりとほほ笑んだ。

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