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第十一章

 「14年前、哲治はバイクにはねられて意識不明の重体だったけど、奇跡的に一命をとりとめたじゃない?」


 喫茶店でキリマンジャロの入ったコーヒーカップを左手で持ちながら高藤弘子おばさんが話しだす。


 「でもたしかあれから半年、哲治は意識不明で入院してたよね? その後ようやく目を覚ましたときには、事故のせいで左足を膝下から切断されてたんでしょ? たしか車椅子の生活になったって聞いてたけど?」


 「おっしゃるとおりです」


 わたしこと高藤由美は、大量に出てきた手の汗をおしぼりで拭きながら答えた。


 「あの頃のお兄ちゃんはすごく弱っていて……。『死にたい』って何度も言っていました。寝たきりの期間が長くて体が上手に動かせないし、片足はなくなって、リハビリも全然進められなくて……」


 そんな絶望の中にいるお兄ちゃんを救ったのは、家族ではなかった。わたしは言葉を続ける。


 「走っているバイクの前にお兄ちゃんが飛び出したことが事故の原因でした。

 真夜中の電灯がついていない見通しの悪い山道です。日中だって人がほとんど歩かないような場所なんです。歩道だってあったのに、車道でぼんやり立っていたお兄ちゃんが悪いのは明らかでした。

 でも、バイクの方も法定速度を20キロもオーバーして走っていました。急カーブを抜けた瞬間、お兄ちゃんが車道で立ちすくんでいるのを見つけたのですが、ブレーキをかけても間に合わず止まることができませんでした」


 わたしはおしぼりを畳み直しながら話を続けた。


 「事故の相手は川上さん……。お兄ちゃんのクラスメイトの兄弟で、二つ上の高校生でした。事故の後、川上さん兄弟二人と野球部の人が毎日のように病室へ来て、眠っているお兄ちゃんをお見舞いしてくれました。

 そして退院したあと、辛いリハビリで落ち込んでいるお兄ちゃんを支えてくれたのもその三人でした。

 お兄ちゃんは、お父さんやお母さんとなぜかまったく話をしませんでしたから、あの人たちがいなかったら、どうなっていたことか……」


 途端に弘子おばさんが肩を震わせて、クククク……と笑い始めた。


 「そうよね、話なんかできるわけないわよ。さぞかし困ったんじゃないの。でも自業自得よ」


 「あの……」


 混乱してわたしはおばさんに尋ねた。


 「どうしてお兄ちゃんはお父さんやお母さんと話をしなかったんですか?  それに『家では嫌われ者』とおっしゃっていましたが、そんなことはないと思うんですけど……」


 「ふーん」


と弘子おばさんは気の毒そうな目でわたしを見て言った。


 「あの頃のあんたはお子ちゃまだったし、あんたのお父さんとお母さんはあんたばっかりえこひいきしていたからねえ。哲治がどれだけ傷つけられていたか、知らなくても無理はないけど。

 そう、まだ気がつかないの」


 背筋に冷たいものが流れる。一体この人は何を言おうとしているのだろう。

 でも、なぜだろう。おばさんが言っていることを心の奥底で理解している自分自身を感じる。

 いらいらが募ってきたわたしは、荒れた気持ちを押さえつけながら、つとめて冷静におばさんに尋ねた。


 「『気がつかない』ってどういうことですか? お兄ちゃんが傷ついたのは、勉強をさぼったり盗みを働いたりして、両親に怒られたからじゃないですか。怒られたから家族を無視するなんておかしいですよ。

 こうなったのはお兄ちゃんが原因で、両親のせいじゃないです。お兄ちゃんは逆恨みしているだけだと思います」


 冷静に話そうと思ったのに、ついケンカ腰になってしまった。弘子おばさんが面白くなさそうな顔をする。

 しまった、と思ったが、もう後の祭りだった。おばさんが煙草の火を灰皿でもみ消した。


 「あっそう。信じ込んでるんなら、もういいわ。余計なお世話だったみたいだから、この話はもう忘れてね」


 伝票を持って立ち上がろうとする弘子おばさんの手首を、わたしは席を立って必死につかんだ。


 「待ってください! お兄ちゃんは今どうしているんですか? 誰に聞けばわかるんですか? お願いします! 教えてください!!」


 ハエでも追い払うような仕草でおばさんがわたしの手を振り払った。


 「知らないわよ。もう時間だから行くわ。これ、学長に渡してほしいんでしょ?」


 履歴書の入った茶封筒をひらひらさせて弘子おばさんが言う。わたしはそれ以上追及できなくなってしまった。


 「はい……よろしくお願い申し上げます」


 溢れ出そうな言葉を飲み込んで、わたしは深々と頭を下げた。

 そして視線の先にあったおばさんのピンクのハイヒールがくるりと反対側を向き、カツカツと鋭い音を立てて去ってしまうのを、わたしはただ見送ることしかできなかった。

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