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第十章

 「え!? お兄ちゃん、ですか?」


 わたしこと高藤由美は、久々に兄の哲治の名前を聞いた途端、懐かしさのあまり体がぶるっと震えるのを感じた。


 「いえ、うちでは何も……。行方不明のままだと両親から聞いていました。

 あのっ、お兄ちゃんは今どこにいるんですか!?」


 息せきって弘子おばさんに問いかけながら、わたしの眼球はじんわりと涙に覆われていった。

 もう12年も経っているから、忘れたようになっていたのに。「お兄ちゃん」と声に出した途端に、寂しさと会いたいという気持ちが切々と胸に湧き上がってくる。

 ハンカチで目頭を押さえたわたしを見て、弘子おばさんは気の毒そうに答えた。


 「それがねえ、あたしもあの子がどこにいるかまでは知らないのよ。でも元気にやってるらしいって話は聞いたわよ」


 「どなたから聞いたんですか?」


 わたしはせっかく見つけた手掛かりを離すまいと、弘子おばさんに食い下がった。


 「うーん……」


 弘子おばさんは腕を組んで困ったようにわたしを見た。


 「哲治は自分のことをあんた達に知られたくないと思っているらしいから、これ以上教えられないんだけど……」


 「えっ!?」


 わたしは動揺した。


 「うちの家族に知られたくないって、お兄ちゃんが言っているんですか?」


 「そうよ」


 弘子おばさんは煙草を一本口にくわえ、ライターで火をつけると、吸い込んだ煙をゆっくり吐き出した。


 「あの子、家では嫌われ者だったんでしょ?  お父さんやお母さんには自分が生きていることすら知られたくないみたいよ」


 「そんな……」


 わたしはハンマーで頭を殴られたような衝撃を覚えた。と同時に、かつての記憶もよみがえってくる。お兄ちゃんが事故にあった、14年前のあの日のことを。


・・・


リリリリリリン

リリリリリリン


 真夜中に電話のベルがけたたましく鳴った。小6だったわたしは普段この時間帯に目を覚ますことはない。だけど、今日はなぜか1階の玄関から聞こえてくるベルの音でふと覚醒した。

 体を起こして時計を見る。深夜2時。こんな時間に何だろう……とぼうっと時計の文字盤を眺めていると、階下で電話に出て話をしていたお母さんが急に叫び出した。

 お父さんも玄関にやってきて、電話を代わったようだ。お母さんが激しく泣いている。何だろう……胸が嫌な予感で一杯になる。

 わたしは寝ていられなくなって、布団から出ると自分の部屋の扉を開け、そうっと階段を下りた。


 「はい……はい……わかりました。桜林大学病院ですね。ええ、夜間受付で……。はい、家族全員で行きます。……保険証と……ええ……」


 階段の踊り場から玄関の様子を覗き見ると、お父さんが電話台の横にあるメモ帳に何かを書きとっている。お母さんはその傍でうずくまって肩を震わせて泣きじゃくっている。

 何がどうなっているんだろう。それにこの大騒ぎでも起きてこないお兄ちゃんは随分のんきだ。

 わたしは両親のただならない様子を教えようと思って、2階に戻ると、わたしの部屋の隣にあるお兄ちゃんの部屋の扉をそうっと開けた。


 「お兄ちゃん~、大変だよ。お父さんとお母さんが大騒ぎしてる。起きて~」


 ささやくような声で言いながら、暗い部屋のベッドに向かったが、そこにお兄ちゃんはいなかった。


 「あれ? お兄ちゃん?」


 ベッドから落ちてるのかも、と思い、カーテンを開けた。空を照らす月の光で部屋の中が良く見える。

 でもやっぱり、お兄ちゃんはどこにもいなかった。


 「おかしいなあ……」


 不思議に思って部屋を出たところで、お父さんが階段を上がってきた。電気をぱちんとつけられて目がくらむ。思わず手で目を押さえたら、お父さんがわたしの肩に両手を乗せて、真剣な声で言った。


 「由美、大変なことになった。お兄ちゃんがバイクにはねられて意識不明の重体だ。

 今から病院に行くから着替えて下に降りて来なさい。急ぐんだよ」



 お父さんの車で病院に向かった。

 助手席のお母さんは「どうしよう……どうしよう……」と呟きながら目を真っ赤にして泣き続けているし、お父さんは真っ青な顔でフロントガラスを凝視しながら運転していて一言もしゃべらない。

 わたしは小さいころから大切にしているビーグル犬のぬいぐるみを胸にぎゅっと抱きかかえながら、後部座席で外の景色をぼんやりと眺めた。


 お兄ちゃんが危篤だなんて。今も病院で手術中だなんて。いくら話を聞いてもピンとこない。

 もうすぐ夜中の3時だ。道路を走る車はほとんどない。車窓を流れ去る家々は、カーテンを閉ざし電気も消えている。人の気配がない深夜の眠る街を眺めていると、これは夢の続きなのではないかと疑いたくなる。

 車の単調な揺れでうとうととし始めたところで車が止まり、お父さんがわたしに声をかけた。



 大学病院は深夜に来ると青いライトが床をぼんやり照らしていて、まるでお化け屋敷のように薄暗くて怖いところだ。お父さんは入口の小さな救急受付に座っている警備員に話しかけると、お母さんとわたしを連れて病院の奥へと進んでいった。

 つんとした薬品の匂いが鼻を刺す。びくびくしているわたしを見て、お父さんが左手でわたしの手を優しく握り、もう片方の手で今にも倒れそうなお母さんの肩を支えて歩いた。そしてわたしとお母さんを待合室のソファに座らせると、受付で手続きを済ませた。

 受付から事務員とお父さんがわたし達のところにやって来た。初老の白髪交じりの眼鏡をかけた男性が、わたし達三人を改めて見て静かに声をかけた。


 「高藤哲治さんはまだ手術中です。お待ちいただく部屋がありますので、今からご案内します。どうぞこちらへ」


 案内されたのは手術室のそばにある2畳くらいの真っ白い壁に覆われた明るくて小さな部屋だった。ソファとこじんまりしたテーブルが置かれている。病院の薄暗い雰囲気を感じなくていい場所に来られて、わたしはちょっとほっとした。


 「飲み物を買ってくるけど、欲しいものはあるか?」


 明るい照明の下で見上げたお父さんは疲れ果てて、何歳も年を取ったみたいに見える。わたしは「コーラが欲しい」と答えた。

 ハンカチに顔をうずめたまま何も話さないお母さんの様子を見ると、お父さんは肩に優しく触れて「お茶を買ってくるな」と言って部屋の外に出た。



 部屋の中がしんと静まり返った。身じろぎ一つしないお母さんと二人っきりだ。わたしは膝の上のぬいぐるみの背中を撫でながら、心の中で話しかけた。


 「ルーちゃん、こんな時間までおねんねできなくてびっくりだよね。ここは病院なの。お兄ちゃんが事故に遭って手術をしているんだ。お兄ちゃん、大丈夫かな……」


 このビーグル犬のぬいぐるみは、幼稚園のとき、誕生日プレゼントとしてわたしの元にやってきた。

 我が家のペットのシュヴァルツが大好きだったわたしを見て、お父さんが同じ犬種のぬいぐるみをあちこち探し回って見つけてくれたのだ。

 はち割れの額に垂れ下がった長い耳、茶色と黒と白のコントラストがきれいで、黒目がぱっちりしているぬいぐるみに、わたしは一目で心を奪われた。

 それ以来、このルーちゃんは、もう10年以上わたしの大切なお友達になっている。今日みたいに不安なことがある日は、必ず連れて歩くくらいに。


 部屋に漂う沈黙が重苦しい。わたしはルーちゃんを抱きしめて目を閉じた。眠れそうになかったけど、他にできることもなかった。



 しばらくするとお父さんが飲み物を3本手に持って戻ってきた。


 「由美、眠いのか?」


と聞かれたので、わたしは首を横に振った。大好きなコーラの缶を開けると、プシュッという音がしていつものコーラの匂いが漂ってくる。わたしはごくごくとコーラを飲んで、ふうっと息を吐いた。

 愛用のマイルドセブンに火をつけて一服しているお父さんに、わたしは話しかけた。


 「お父さん……」


 「うん?」


 「お兄ちゃん、どうして事故に遭ったの?」


 わたしの隣に座っているお母さんの肩がぴくっと震えた。お父さんが困ったようにわたしの顔を見て、答えてくれた。


 「哲治がこの夏、毎日町田の塾に通っていたのは知っているよな?」


 「うん」


 「あいつは塾の帰りに夜遊びをすることを覚えてしまってな。最近は家のお金を盗むようになっていたんだよ」


 「え!? 泥棒していたの?」


 「ああ。それで帰ってきた哲治をお父さんとお母さんで厳しく叱ったんだ。盗みは絶対にいかんからな。そうしたら……」


 ふとお父さんが言葉に詰まった。大きな咳ばらいをして話し続ける。


 「突然家を飛び出してしまったんだよ。

 まあ、いつものことだから、頭を冷やしたら帰ってくるだろうと思って、家で待っていたんだが……。

 まさかこんなことになってしまうなんて……」


 頭を抱えてうなだれたお父さんの頭頂部は真っ白だった。いつの間にこんなに白髪が生えていたんだろう。それにお金を盗むなんて、お兄ちゃんは不良になってしまったんだろうか。


 これまで信じていた幸せな家庭は、わたしの気づかないうちに、少しずつ少しずつ壊れてしまっていて、今日、ついにガラガラと音を立てて崩れ去ったらしい。


 手術が終わるのを待つ、途方もなくゆっくりと流れる時間を感じながら、わたしはお兄ちゃんの手術が成功するようにとルーちゃんと一緒に祈った。ケンカばっかりで、正直嫌になることも多いけど、お兄ちゃんがこの世からいなくなるなんて考えられない。


 「お兄ちゃん、早く意識を取り戻して。

 一緒におうちに帰ろう」


・・・

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