1-9 パンツはダメでもTシャツなら許されます
『せんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱい――』
ひとり部屋に残っていた蝴蝶霞音は俺の下着を手にもって、ぶつぶつと俺の名前をつぶやいていた。
(なにやってるんだよ、あいつ……!)
声をかける機会をすっかり逸した俺は、扉の隙間から部屋の中の彼女の動向を見つめる。
『……ふうう』
霞音が大きく息を吸って吐いた。嫌な予感しかしない。
そしてすこしの間のあと。
彼女は意を決したように俺のパンツに向かって――顔を近づけようとした。
(っ! それ以上は、まずい……!)
年頃の女の子が辿りついていい領域ではない。
一度でも踏み入れれば最後、2度とまともな世界には帰ってこれなくなるぞ――
そんな俺の焦りが通じたのか。
霞音はぴたりと途中で手を止めた。
やがて『はっ』と正気を取り戻したように目を開いてから、ふるふると首を振る。
(お、よかった。思いとどまってくれたか……)
俺はほっと胸を撫でおろす。
よかった。霞音は『こちら側の世界』にすんでのところで踏みとどまってくれた。……いや、すでにいろいろアウトなのかもしれないが……あくまで現段階では未遂だ。
実際に『ヤった』という実行と、『ヤってない』という未遂の間には天と地ほどの差がある。
みると霞音は手にしていた俺の下着を丁寧にたたみ、もとの場所に戻した。いいぞ、その調子だ。あとは引き出しを閉めたタイミングでそっと声でもかければいい。俺はなにもみてないし、霞音はなにもヤってない。きわめて平和的な解決だ。
――と思っていたのに。
『…………』
霞音は俺の下着をしまったあと、なにを思ったか別の引き出しを開けて。
今度は俺のTシャツを取り出して広げた。
『――ふうう』
そしてふたたび深呼吸。
ちょっと待ってくれ。まさかとは思うがこいつ――『パンツはダメでもTシャツなら許される』なんてことを考えているのか?
俺が唖然としていると、その霞音様は『うんうん、こちらなら大丈夫です』みたいな表情でうなずいていた。
おいおい。ぜんぜんまったくもって大丈夫ではないぞ。
『……いただき、ます』
しかもいただきますってなんだよ!
ナニをいただくつもりだお前は!
焦りが高まる俺と対照的に、霞音はひどくゆっくりとした動作で、いよいよ俺の服に自らの顔を埋めようとする。
「……っ!」
その刹那。
俺は固まっていた体をどうにか動かして、布が霞音の鼻先に触れる寸前に――こんこん。
ドアをノックしてやった。
『っ!?』
霞音の体が床から5cmくらい跳んだ。
「あ、あー……霞音? 入ってもいいか?」
『う、あ……少々、お待ちを……っ』
中でどたばたと音が聞こえた。
遅れて霞音の声で返事がある。
『だ……だいじょうぶ、です』
部屋に入ると、霞音は床に置かれたクッションの上にちょこんと座っていた。しかしその頬は赤く高揚し、心なしか息もあがっていた。
「悪いな。遅く、なった」
「い、いえ……。せんぱい」
「ん? どうした」
「――みましたか?」
「っ!」
霞音がおそるおそるといった様子できいてきた。
――ああ。ばっちり見させてもらったぜ。
なんてことはもちろん言えるはずがないので、俺はとぼけることにした。
「ん……? ななななななんのことだ?」
しかし思いきり動揺した。当然だ。霞音のあんな場面を目撃して平静を装えるはずがない。
「そう、ですか――」
しかし気が動転しているのは霞音も同じだったようで。
「そそそそれでしたら、良かったです。ななななんでもありませんので、きききき気になされないでください」
と、なんでもありまくるかのように目をぐるぐると回しながら言った。
「そそそそそうか、ならよかった」
「はははははい、今日は良いお天気ですね」
「ああ、おおおおお俺は犬よりも猫派だ」
もはや会話すら成立していなかったが。
霞音の精神の安寧を保つためにもこれ以上は触れないことにした。オレハナニモミナカッタ。
「ごほん……待たせて悪かったな」
俺は仕切り直すように咳をしてから、手にしていた盆をローテーブルの上に置いた。
「ほらよ。ご所望だった例のブツだ」
「あ、ぷりん――」
プリンを目にした霞音はそれまでの動揺を引っこめて、目をきらめかせた。
「せんぱい、もしかすると、わざわざ買いに行ってくださったのですか……?」
「ああ」と俺はうなずいた。
霞音はそこで眉を下げて、そっと頬を膨らませる。
「せんぱい、そこまでしていただかなくても大丈夫でしたのに。私はがまんくらいできました」
「しかしお前の顔には『ぷりんが食べたい』と書いてあったぞ?」
「そ、それはそうかもしれませんが――せんぱいと一緒にいられる時間のほうが、」
「ん? 俺と……?」
「あ……な、なんでもありませんっ」
慌てた霞音はごまかすように目の前のプリンを手に取った。
「いただきます。せっかくせんぱいが買ってきてくださったのですから」
丁寧に両手をあわせてからスプーンで表面をすくう。とろんと揺れる黄色い塊を、霞音はゆっくりと口に運んだ。
「ん。――とてもおいしいです。ありがとうございます」
「それならよかった」
俺はテーブルに頬杖をつきながら、プリンを愛おしそうに食べる霞音の様子を見守る。
この短い時間に予想だにしない〝イロイロなこと〟があったが……ともかくこうして霞音が幸せそうならそれで円満だ。そういうことにしておこう。
「あ、せんぱいの分のお飲み物が」
きっと自分の想像以上に喉が乾いていたのだろう。
俺のグラスのお茶はすぐに底をついた。
「なくなっちまったな。せっかくだしコーヒーでも淹れてくるかな」
「あ、こーひーでしたら、よろしければ私が」
霞音が胸の前に手を置いて言った。
「ん、いいのか?」
「はい。家庭教師のときと同じです。台所、お借りしますね」
と霞音は言って、とてとて階段をおりキッチンの方へと向かった。
俺が蝴蝶家で絵空さんに家庭教師をしてもらっているときも、その休憩時間には霞音がコーヒーを毎回淹れてくれる。それは昔からのひとつの約束事のようになっていた。
「お待たせしました、せんぱい」
しばらくして、カップを持った霞音が戻ってきた。
俺の前に置かれたそれには、かすかに湯気が立つ茶色がかったコーヒーが入っている。
「おう。さんきゅ」
「熱いのでお気をつけください」
俺はカップを手にとってゆっくりと口に運ぶ。
その様子を、霞音はすこし不安めいた表情で見つめてくる。
「いかがでしょうか……?」
なんてことはない。豆の種類が違うとはいえ、いつもの霞音がいれてくれるコーヒーだ。正直な話をすると、俺にとってはすこし薄い。しかし――
これはこれで、もちろんアリだ。
「ああ、おいしいよ」
と俺が言うと、霞音は安心したように顔を緩ませたあと、『こほん』とひとつ咳をして、
「当然です。せんぱいのために私がいれたこーひーなのですから」
いつものように得意げな、それでいてどこまでも幸せそうな顔を浮かべてきた。
「これからもたくさんいれさせてくださいね――せんぱい」
「……っ。お、おう」
これからも、という単語と霞音の微笑みにたまらずどきりとした。
まったく。こいつは自分の発言のうち、どこまでが自覚的なのだろうか? 時に恋愛漫画の中でだって言わないような浮ついたセリフを、どこまでも無邪気に俺に向かって投下してきやがる。
「さんきゅな……たのしみに、してる。これからも」
いろいろと耐性のない俺にとっては、赤くなった顔を腕で隠しながらそんなふうに返すのが精一杯だった。
「はい――せんぱいのご要望でしたら、仕方ありません」
すこし上からないつもの霞音の態度も。
今日この瞬間はすこし可愛げのあるものに見えた。
こんなのはすこし傲慢な考えかもしれないが、絵空さんに言われたとおり。
――霞音が俺のことを好きなヒントは、前々からあったかもしれないな。
なんてことを俺は思った。