1-8 せんぱいは家におひとりなのですね
「もうすぐせんぱいのおうちですね」
放課後。
俺と霞音は学校のやつらに見つからないように、すこし回り道をして家路についていた。
「もうすぐ――せんぱいの、おうちですね」
アスファルトの歩道をふたり並んで歩く中、霞音が繰り返した。
その言葉どおり、まもなく俺の家に到着する。
「ん。ああ、そうだな」
「このままだと、さようならになってしまいますね」
「なってしまうな」
「……むう」
淡々と返していたら、霞音が頬をちいさく膨らませた。
「ん? どうしたんだ、霞音」
霞音はどことなくもじもじとしながら言う。
「いえ、その……そういえば、なのですが。ひさしくせんぱいのお家に伺っていないなと思いまして」
「ああ、言われてみればそうだな」
小さい頃はよく互いの家を行き来して遊んだものだが。
中学に入った頃――ちょうど霞音が俺のことを〝せんぱい〟と呼び出したあたりからは、すっかりそれもなくなった。
(ちなみに俺自身は今でも家庭教師の時に蝴蝶家に邪魔しているが、霞音の部屋には入っていない)
「だれか家族の方はいらっしゃるのでしょうか?」
「あ、いや。今は親父の長期出張先に母親がついていって、しばらくは留守だ」
「ということは――今はせんぱいは家におひとりなのですね」
などと話していたら俺の家の前に着いた。
ちら、ちら、と霞音は俺と家のドアを見比べながら何かを言いたげにしている。
そんな様子から、俺はどうにか彼女の意図を察して、
「あー……なんだ。寄ってくか?」
「え?」
「久しぶりに、うちに。……せっかくだからな」
なにが〝せっかく〟なのかは自分でもさっぱり分からなかったが。
「仕方ありません。せんぱいのお誘いであれば、お邪魔することにいたしましょう」
プライドの高い霞音姫様には、どうにか満足いただけたようで。
霞音はぴこぴこと頭上の髪の毛を揺らしながら、俺の後ろをついて家の敷地を跨いだのだった。
♡ ♡ ♡
「ふうん。意外です。思ったよりも片付いていますね」
俺の部屋に入った霞音が言った。
「昔はもうすこし散らばっていたような気がしますが」
昔、といってもそれは小学生のときの話だ。
あの頃は戦隊物のキャラクターグッズなど、色鮮やかなモノが多かったせいで『ごちゃっ』とした印象を受けたのだろう。今はシンプルなトーンの家具や雑貨で統一されているため、当時と比べればスッキリした印象に見えるはずだ。
「なんだか殺風景です」
うむ。そうとも言うな。
「……つまらないです」
霞音は唇をむすんでつづける。
「せっかくお掃除でもしてあげようと思っていましたのに」
「ん? なんだって?」
「いえ、なんでもありません」
すこしの沈黙。
時計の針の進む音が周囲の空間に満ちた。
なんだか急に『霞音が俺の部屋にいる』という事実を意識して気恥ずかしくなってくる。
沈黙に耐えきれなくなった俺は、頭をかきながら言った。
「あー。なんだ、適当に座っててくれ」
「……あ、せんぱい。どちらに行かれるのですか?」
「客人が来てるんだ。お茶菓子のひとつでも出さないとな」
「お茶菓子……は、まさか……!」
ぴこん、と霞音の頭上の毛が跳ねた。
「あ……こほん。いえいえ、どうぞ私にはおかまいなく」
口ではそう言っているものの。
彼女の周囲には『ぷりんぷりんぷりんぷりんぷりん――』と思考がだだ漏れになっていた。
「まったく。さすがにこれは察するまでもなく分かるぜ」
俺はつぶやきながら2階の自分の部屋をあとにして階段をくだった。
確か今冷蔵庫にプリンはなかったはずだ。
近くのコンビニで買ってくるとするか。
♡ ♡ ♡
プリンと、あとは足りていなかった日用品をさくっと買って家に戻った。
台所でペットボトルからグラスにお茶を注ぎ、丸盆の上にプリンと一緒にセットする。
「しかし……なんだか拍子抜けだな」
俺はひとりごちた。
幼馴染で腐れ縁だとはいえ、今現在は〝カレシカノジョ〟の恋人関係(仮)なわけで。
そんな関係性の男女が家で〝ふたりきりになる〟なんて、それこそ【どきどき案件】でしかないと思ったのだが……。
当事者のひとりである霞音は平常心というか、あまり気にしているそぶりはみえなかった。
「むしろ、俺のほうが緊張してるかもしれないな……」
俺はいち思春期男子として劣情的に高鳴る胸の鼓動を感じながら、階段をのぼっていった。
「霞音は俺のことを好いてくれてるみたいだが、その割に男である俺の部屋にあがっても平然としていて――案外、あいつの好きも〝友達としての好き〟の延長程度なのかもしれないな」
そんなことを考えながら2階の俺の部屋に戻ると、扉がわずかに開いていた。
ノックをする前に隙間から中の様子をふと覗いてみる。
「ん? あいつ、なにしてるんだ……?」
みると霞音はなにやらそわそわと落ち着かないそぶりで、部屋のあちこちを右往左往していた。
机の上に置かれた小物や、本棚の本を手に取ったりしている。
やがて部屋の隅の収納タンスの前に立つと――その引き出しに手をかけた。
(おいおい、まじでなにしてるんだよ……!)
俺は思わずごくりと息をのんだ。
声をかける機会をすっかり失ってしまい、ドアの前から動くことができない。
『――あ』
あ、と小さく霞音がつぶやいた。
彼女は引き出しの中にあった畳まれた布をひとつ手に取る。
『…………』
そして霞音は。
おそるおそるといった様子で――ゆっくりと広げた。
『……っ!』
それは俺の下着だった。
霞音は一瞬驚いたように短く息を吸った。
そのあと、じいっと紺色の布を食い入るように見つめる。
(おいおい、まさか――)
完全に嫌な予感しかしなかった。
『せんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱい――』
俺の下着を前にして、ぶつぶつと俺の名前を連呼する霞音の瞳の色はもはや正気にない。
(っ! それ以上は、まずい……!)
さっきは霞音は俺の部屋に来ても〝平常心〟で。
好きの種類も〝友達としての好き〟程度かもしれないと言ったが――
今の霞音の様子をみるに。
どうやらそれらの発言は徹底的に訂正する必要がありそうだった。