4-8 蝴蝶霞音の夢 ③
「きすはだめですが――ぎゅう、でしたら」
なんて言いながら。
霞音は両手をおずおずと開いて俺を求めてきた。
「いや、ですか……?」
「いやなわけないっ!」
俺は喰い気味に言った。
すこし口調に力が入りすぎたかもしれないが……今はそんなことを気にしている場合じゃない。
「で、では……どうぞ」
霞音は上目遣いをして、自らの体を差し出すようにちょこんと胸を張ってきた。
「あ……じゃあ。失礼、します」
俺はなぜか敬語になりながら、霞音へと近づいていく。
「はい。どうぞ、です」
霞音は気恥ずかしそうに視線を左右に泳がせている。
抱き合うこと自体は、これまでも何度かしていたが……。
それでも、こうしてあらためてするとなると新鮮でひどく緊張してしまう。
「……」「……」
互いにしばし無言になりながら。
霞音との距離を一歩ずつ縮めて。
鼻から深く息を吸って。吐いて。
俺は彼女の小さな体を――ぎゅうと抱きしめた。
「……んっ」
霞音の体が腕の中でぴくんと震えた。
吐息と一緒にどこか妖艶な声が漏れる。
その仕草のひとつひとつが愛おしい。
俺の脳内はまたまともな思考を失いかける。
けれど。
「――せんぱい?」
今度はきちんと自制をした。また霞音のことを考えず自分勝手になってしまうところだった。
もっと抱きしめていたいという欲求をどうにか鎮めて、俺は霞音から手を離した。
「ふむ。……ありがとな」
俺は頬をかきながら、誤魔化すように言った。
「これでもう、満足だ」
「……ほんとう、ですか?」
「え?」
霞音はどこか不服そうに頬を膨らませて言う。
「私は――まだまだです」
「な……?」
「これだけでは、ちっとも足りません」
霞音はふたたび両手を開いて。
俺のことを求めてきた。
「も、もっと――ぎゅうって、してください」
そうしたら。
今度はもう。我慢なんて。できなくて。
理性とか。本能とか。考えられなくて。
「~~~~……! 霞音っ!」
俺は。ぎゅう。と。
霞音の体に思い切り手を回した。
「……やっぱり、だめです」
「え?」
「これだけではたりません。もっと。もっとです。もっと――してください」
そんなふうにねだる霞音が。どうしようなく可愛くて。愛おしくて。
俺は霞音の望み通り。俺自身の望み通り。
その小さく暖かな身体を。
ぎゅうと。抱いて。抱いて。抱きしめた。
「もっと」「もっとです」「まだまだ足りません」
そうしたら今度は。
霞音の方から。両手を俺の背中に回して。
ぎゅう、と。抱いて。抱いて、抱き返した。
「せん、ぱい――」
「霞音っ……!」
霞音は俺の胸元に顔を埋めるようにしている。
ワイシャツ越しにもぞもぞと動く感触がなんだかくすぐったい。
「せんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱい――」
霞音は俺のことを何度も繰り返し呼んでくれている。
頭がどうにかなりそうだった。
――否、このときには既になっていたのかもしれない。
「……」「……」
そうして永遠にもつづくような時間の末に。
ぶるり、と。
「「あ」」
お互いのスマホが鳴った。絵空さんだ。
「……もう少しで、着くみたいだな」
俺は名残を惜しみながら体を離す。
当然離れたくはない。もっと触れ合っていたい。
一秒でも長く。一秒でも多く。
しかし――ここでひとまずは時間切れだ。
「つづきは、また今度だな」
俺は悪戯に笑って言ってやった。
「…………」
霞音はうつむくようにしている。
前髪が顔にかかって、その表情は読み取れない。
「そ、そういえば……先週の絵空さんからの宿題、難しくなかったか? 答え合わせが楽しみだな」
軽く服装をととのえてから、俺は霞音の部屋をあとにしようとした。
その背中を。
「――せん、ぱい」
霞音が。唐突に。
くい。と。
引っ張ってきた。
「ん? ――なっ!?」
そして振り向きざまに。
霞音は首に手を回して俺のことを抱き寄せると。
その桜色の唇を。
俺の唇に。
押し付けた。
「~~~~っ……」
声にならない声で俺は叫んだ。
なんてことはない。
これは誰がどう見たって。
――接吻だった。
「か、霞音っ……のわっ!?」
霞音に押されるように後ずさっていると、途中で足を引っ掛けて。
そのまま背中から近くにあったベッドへと倒れ込んでしまった。
必然的に。俺と密着していた霞音も体も一緒についてくる。
あの保健室の時と同じように。霞音が俺の上に覆いかぶさるような形になった。
「お、おい……霞音?」
しかし。その時と決定的に異なるのは。
霞音の瞳の中が、どこまでも〝現実の光〟で満ちているということだけだ。
「き、キスはっ」
俺はどうにか喉から声を絞り出した。
「だめじゃ、なかったのか……?」
しかし。霞音は。
そんなことは構わないといった様子で。
ふたたび俺の口に唇を押し当ててくる。
「っ……」
霞音の呼吸は乱れている。それが唇を通して伝わる。
目はとろんと熟した果実のように濡れていて。頬は微かに汗ばみ朱色が差している。
「せんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱい――」
繰り返し溢れでる想いにあてられて。
俺はそれを拒否することなんて。できるはずもなく。
「霞音っ!」
今度は俺の方から。
霞音の桜色の唇にキスをした。
「「……っ」」
何度も。何度も。何度も。
繰り返しても。足りない。足りない。足りない。
もっと。もっと。もっと――
互いの息遣いが交じわる。粘液が交じわる。興奮物質が交じわる。
きみという現実は、もう夢からはとっくに覚めている。
それなのに。だからこそ。
――足りない。
と俺は思った。俺たちは思った。
「せんぱい――すき、です」
そんなもの。
どうしたって。
俺だって。
「好きだ。――大好きだ」
互いに互いを求め合う。本能で求め合う。魂で求め合う。
劇的な心音が重なる。全身に熱い血液を押し出していく。
もうきみしかみえない。もうキミしか見えない。
そうして。
幾度めかも分からない口づけの最中。
「霞音っ!」
「せんぱい――」
その恋の熱量の最高到達点で――
がちゃり。と。
無情に。
部屋の扉が開いた。
「ごめんなさいね、ふたりとも。ようやく帰って来られたわ――あ」
『あ』などではない。
そこにはどこまでも予定調和的に。もはや必然的に。
霞音の姉・蝴蝶絵空さんが、立っていた。
「「っ!?」」
身体を慌てて離すもすべてが手遅れだった。
もはや言い訳のしようもない。
「あら、あらあらあらあら――」
たっぷりとした間があったあとに。
絵空さんは宝くじでも当たったかのような笑顔を浮かべて部屋から去っていった。
「ふたりとも、ごゆっくり~♡」
夢なら覚めてくれ、と俺は思った。




