4-7 蝴蝶霞音の夢 ②
なんにつけても、悪いことはできないように世の中はできている。
机の上で眠れる霞音に密やかに〝キス〟をしようと顔を近づけたところ――
ぱっ。と。
霞音が目を覚ましたのだった。
「っ!」
思わず見開いた俺の目と。
霞音の寝ぼけなまこが、ぱちりと合った。
「……?」
霞音は一瞬ふしぎそうに目を細めたあとに、
「~~~っ!? せん、ぱいっ……!?」
と慌てて飛び起きた。
「ど、どうしてこちらに……!」
「あ、いや、これは、その、なんと、いうか」
俺はしどろもどろになりながら後ずさる。
霞音は机の上に開きっぱなしになっていた日記帳に気がついて、慌てて閉じた。
「……みましたか?」
俺は首を振った。
霞音は疑い深い視線を向けてくる。
「では……私の部屋に勝手に入って、一体なにをされようとしていたのですか?」
霞音は日記帳を掌で覆いながら、問い詰めるような視線できいてきた。これが最後通牒ですよ、というように。
「そ、それは……」
俺は覚悟を決めて、
「き――キスを。しようと、してた」
と。正直に言った。
そうしたら――
「……っ!?」
霞音がぽふんと顔から蒸気を吹き出した。
頭上の髪の毛はぴいんと伸びている。
「な、なにを考えているのですかっ……!」と霞音は眉をひそめた。「このあとは、姉さんの家庭教師ですよ? その前に、き――きすをする、だなんて」
ふじゅんです、いけません、などと顔を赤くしてつぶやく霞音に向かって、俺は補足する。
「あー……一応、なんだが。絵空さんからも、連絡はあった」
視線を机の上にある霞音のスマホに向けてやる。
霞音はそれに気付いて、画面をタップ。通知を確認した。
確認して――
「……っ!?」
ふたたびぽふふんと湯気を噴出させた。
頭上の髪の毛は激しく左右に振れている。
「な、な、な……!」
霞音はぶんぶんと首を振って。
きっ、と俺をにらんで。
「そ、それで。姉さんの言うとおり――い、いちゃいちゃしようと、私の部屋にやってきたのですか……?」
なんだかひどく誤解があるような気もしたが……。
俺はふうと息を吐いて。もはやどうにでもなれ、という気分で。
「ああ――そうだ」
霞音のおかげで手慣れた『霞音のことが大好きな彼氏』の演技で、堂々と言ってやった。
「っ!」
霞音がますます目を丸くした。
俺はごくりと喉を鳴らしてから、おもむろに霞音に近づくと。
彼女の顎を、くい、と。
持ち上げてやった。
至近距離で互いの目線が交錯する。
「せせせ、せん、ぱい……?」
霞音は頬を紅くしたまま、目をぐるぐる回している。
べつに。ここで止める必要なんてない。俺は前とは違う。
俺の中で生まれた感情――〝霞音とキスをしたい〟という衝動は。
霞音のことが〝大好きだ〟というどうしようもない情熱は。
演技なんかじゃ。
もう、ない。
だったらその想いを。
現実にしたって――
「霞音……」
しかし。
霞音はしばらく葛藤したような素振りの末に。
「~~~~~……だ、だめ、ですっ!」
などと。
俺のキスを、拒んだ。
「……あ」
そこで俺ははっと気づいた。
(しまった……やりすぎた)
自分の欲求ばかりを優先して、〝霞音の想い〟を考えることができていなかった。
俺はキスをしたいと思った。
しかし――霞音は違った。
恋は俺という思春期男子を決定的におかしくさせてしまう。
自分の中に生まれた原初的な衝動をおさえることができず、本能のままに動いてしまった。
一番大切な、霞音の想いを無視して。
そんなことも分からないようじゃ、やっぱり俺は恋愛初心者のままだ。
「す、すまんっ! 今のは……忘れてくれ」
俺は慌てて霞音から距離を取った。
「さ、先にリビングで予習をしてくるっ」俺は上ずった声で言う。「……勝手に部屋に入って悪かった。霞音もゆっくり――」
「ち、ちがいますっ」
「え?」
しかし。
部屋から立ち去ろうとした俺のことを。
「……ちがうんです」
霞音は止めてきた。
おずおずとした様子で彼女は切り出す。
「き、きすは――そのあと、姉さんにどんな顔をすればいいか分かりません」
「あ……」
なんてことはない。
霞音は俺と同じような不安を抱えていたのだ。
すくなくとも霞音から拒否されたわけではないということに安堵の息を漏らす。
霞音はごくりと喉を鳴らしてからつづけた。
「で、ですので。きすはだめですが、そのかわり――ぎゅう、でしたら」
「……うん?」
霞音は俺に向かって正対して。
両手を小さく広げながら繰り返す。
「ぎゅう、でしたら――いいですよ?」
「……な」
しばらくの沈黙の後に。
霞音の両手を広げたポーズが、『俺とのハグ』を示すジェスチャーだと気付いて。
「~~~っ……!」
俺の脳内が、一転して歓喜の色に染まった。
「そ、それともっ……」
霞音はどこか不安げにしながら言う。
「ぎゅうは、いや、ですか……?」
い や な わ け な ど。




