4-6 蝴蝶霞音の夢 ①
ぴんぽん、とチャイムを鳴らしたが。
「……反応がないな」
インターフォンからはなんの反応もなかった。
心配になってスマホでカレンダーを確認してみる。
間違いない。今日は絵空さんによる〝家庭教師〟の日だ。
一緒に授業を受けるもうひとり――霞音に連絡をしてみるも、既読はつかない。
会場である蝴蝶家の前でしばし立ち尽くしていると、タイミングよく絵空さんからメッセージが入った。
――『ユウくん、ごめんね』
――『大学の予定が長引いちゃって……』
――『(汗をかいている犬のスタンプ)』
どうやら遅刻の連絡らしかった。
――『おうちにあがって待っててくれる?』
――『霞音ちゃんもいるはずだから』
――『よかったら先にふたりでいちゃいちゃしていてちょうだい』
――『事前の準備も兼ねて、ね?』
――『(激しく抱きしめあう熊と兎のスタンプ)』
「っ!?」
まったく。この人は。
「このあと彼女の姉さんから家庭教師を受けるっていうのに、事前に妹といちゃいちゃなんてできるわけないじゃないですか……」
どんな事前準備ですか、と俺はため息を吐く。
仮にいちゃいちゃしたとて、そのあとに絵空さんにどんな顔を向けて家庭教師を受ければいいのだ。
「冗談……と思いたいが、そう思えないところが絵空さんの怖いところだよな」
家庭教師の前に空いた時間を使って俺たちが『いちゃいちゃ』することを、絵空さんは本当に望んでいるかもしれない。
なにせ、絵空さんは俺と霞音の恋(――そして、その果ての家族成就)が〝夢〟だと言っているのだ。
しかし。
どれだけ家族からの公認が出ていようが、実の妹である霞音といちゃいちゃしてから何食わぬ顔で『絵空さん、ここの微分方程式の解はどうすればうんぬん』と質問するだけの図太さは、まだまだ恋愛初心者の俺は持ち合わせていない。
しかも。
相手はあの絵空さんだ。質問に対しては『ああ、そこはね。先週に教えた公式を使って――あら? 今気づいたのだけれど……なんだか、ユウくんから〝霞音ちゃんの匂い〟がするわね』などとゆさぶりをかけてくる可能性だってある。
そのあと『あら? そういえば逆に霞音ちゃんからは〝ユウくんの匂い〟がするわ。どうしてかしら。あらあらあら?』などという追撃をなされれば俺のライフはもうゼロだ。
顔を真赤にして蒸気を吹き出す霞音の姿も目に浮かぶようだぜ。
「……ふう。想像だけでひどく疲れるな……」
こんな想像、決して現実にはしてはならないと俺はつよく思った。
あくまで家庭教師は家庭教師。恋は恋、だ。
互いの家を行き交うような関係性だからこそ、そのふたつはきちんと分けておかないとな。
ともかく。
絵空さんから連絡が入ったことで、ひとまずの状況は理解できたのだった。
「インターフォンに霞音が出ないのも気になるところだが……絵空さんが言うなら先にあがっておくか」
ドアに鍵はかかっていなかった。
玄関には霞音の靴がきれいに揃えられて置かれている。どうやら家には帰ってきているらしい。
「あー……おじゃま、します」
なんとなく居心地の悪さを感じつつも、俺は靴を脱いでリビングへと向かった。
♡ ♡ ♡
「霞音ー? いるか?」
霞音の部屋のドアをノックしてみても返事がなかった。
いよいよ心配になり、俺はゆっくりとノブを回してみる。
「……霞音? あ」
なんてことはない。霞音はいた。
机の上につっぷすようにして眠っている。
「なんだ、寝てたのか」
近寄ると静かに呼吸をしているのが分かった。
どうやら例の日記を書いていた途中で眠ってしまったらしい。
机の上には書きかけのページが開きっぱなしになっている。
「ん……日記、か」
そういえば霞音と現実で〝お付き合い〟を始めてから、例の日記は見ていない。
(『俺の誕生日』などという分かりやすすぎる暗証番号が鍵になっていることは知っていたが)
「うん?」
そこでふと気づいた。
鍵つきの引き出しは開きっぱなしになっていたが……番号が変わっている。俺の誕生日じゃない。
「っ……まじ、か。こうなるとすこし、話が変わってくるな」
べつに。
暗証番号なんて、それこそ霞音の自由ではあるのだが。
それが誕生日という〝俺に関わる数字〟だったからこそ――そこからの変更はなんだか寂しさを覚えてしまった。
「ま、自分勝手にもほどがあるんだがな……」
そこは思春期の恋愛の渦中にある器の小さな男子高校生のサガだ。
どうして彼女の暗証番号が彼氏の誕生日から変更されたのか――その理由が気になってしまう。
「変更された数字は――あ」
その数字を見て。
俺はふっと安堵した。なんだ、と短くあたたかな息が漏れる。
そのとくべつな数のならびの意味に、俺はすぐ気付いた。
なんてことはない。その4桁は。
「俺たちの〝付き合った記念日〟……か」
頭がかあっと熱くなるのを感じた。たまらず顔を手の甲で覆う。
やっぱり。どうしようもなく。
目の前で無垢な天使のように眠る、俺の自慢の彼女は。
――付き合ったあとだって、とっても分かりやすいままらしい。
「……うん?」
つづいてふと。
開きっぱなしになっていた日記帳のページが見えた。
そこには霞音の、どこかあどけない可愛らしい文字で。
これで日記をつけるのは最後にしよう、というような旨とともに。
――『もう、夢も現実も同じですから』
なんて言葉が。
つづられていた。
「霞音……っ」
ああ。だめだ。と俺は思う。
霞音の想いにあてられて。溢れる〝大好き〟に曝されて。
心臓が跳ねる。全身に幸福感が広がる。魂が震える。
これが恋愛の音なんだと――本能が俺に訴えかけてくる。
「……っ」
そうしたら、もう。
衝動は止まらない。
俺は机の上ですやすやと眠る霞音の。
その天国に咲く花のように清らかな唇に向かって。たまらず。
キス。を。
しようと。
顔を近づけたところで――
霞音がぱちりと、目を覚ました。




