4-3 蝴蝶絵空の夢
ぴろん、と。
枕元に置いてあった俺と霞音のスマホが同時に震えた。
「あ……姉さん」
霞音の姉――絵空さんからのメッセージだった。
俺と霞音、絵空さんの3人のトークルームにきている。
――『忙しいところごめんなさい』
――『朝ごはんができたわよ』
――『(熊が全力でスクワットしてるスタンプ)』
どうして全力スクワットのスタンプかは分からなかったが……ドジっ子属性の絵空さんのことだ。押し間違えでもしたのだろう。
(それよりも、最初の『忙しいところ』という文面にいささかの含みを感じて冷や汗が背中を伝った。一体絵空さんはナニに『忙しい』と思ってるんだ?)
「そういえば、お腹が空きました」と霞音がお腹をさすった。「せんぱい、期待されて良いですよ。姉さんの作る朝ご飯は、世界一美味しいのです」
霞音はまるで自分のことを誇るように胸を張って言った。
「そ、そうか……それは楽しみだな」
「はい。それではご一緒に――あ」
霞音はそこで何かを思い出したように口をあけた。
「ん?」
「あ、いえ――せんぱい、先にリビングへ行っていてください」
「ああ。別に良いが……どうしたんだ?」
霞音はすこし迷うようにして、視線を窓側の机の方に向けた。
「日課を、思い出したのです」
「日課? ……あ」
霞音の言う日課が、例の『日記』のことを指していると俺は察したが――
なんとなく、ここは気付いていないふりをしておくことにした。
「そ、そうか。わかった。ゆっくりでいいぞ」
「すぐに終わります。よかったら、先に姉さんと食べていてください」
俺は首を振って、「いや。せっかくの機会だ。霞音が来るまで待つさ」
「…………」
霞音はそこで俺のことをじいと見つめてきた。
「ん? どうした?」
「もう一度、仰ってください」
「?」
「名前です。――もう一度、お願いします」
「あ、ああ。……霞音。これで、いいか……?」
それはなんてこともない。
付き合う前にだってしていた、名前を呼ぶというなんでもないように思える行為だったが。
「えへへ――はいっ。それで良いです。ありがとうございます」
なんて。
あらたまって頬を赤らめながら言われると。
なんだか俺も胸が熱く、かきまわされる気分になるのだった。
「そうか、満足してもらえてよかったぜ。……あ。……霞音、は?」
「はい?」と霞音は首をかしげた。
「霞音は……呼んでくれないのか? 俺の名前」
なんて。
すこしだけ催促をしてみたのだが。
「そ、そうですね。それはまだ、もうすこし――おあずけですっ」
なんて照れくさそうに頬をかいて、霞音ははにかむのだった。
「それでは、また後ほど。――あ。覗いたらだめですからね?」
すまん、もう覗き済みだ、なんてことはもちろん言わなかった。
♡ ♡ ♡
「あらあら。昨日はお楽しみだったみたいね」
リビングにやってきた俺のことを、絵空さんは『うふふ』と笑顔で迎えてくれた。
片方の掌を頬に当てて、口元は好奇を抑えきれないように緩んでいる。
「っ! べ、べつに、お楽しみだなんて……」
と思わず否定しようとしてみたが。
「ふうん。霞音ちゃんとは、楽しめなかったの……?」
「あ、いやっ、それはっ……か、からかわないでください!」
俺なんかよりも数枚上手な絵空さんには、何を言っても敵わなさそうだった。
「うふふ。いずれにせよ、うまくいったみたいでよかった」と絵空さんは安堵の笑みをこぼす。
「あの……ありがとうございました」
絵空さんは『うん?』と首を傾げた。
「いろいろと、気を遣わせてしまい」
もとを正せば、こうして霞音と無事に結ばれたのも。
夢見姫のことを霞音に黙っていた絵空さんのおかげかもしれない。
そうでなければ、あの霞音(――と、加えてどこまでも恋愛に関して鈍感で初心者な〝俺〟)のことだ。
あのままじゃ絵空さんが懸念していたように、一生お互いの〝両想い〟に気づけなかった可能性だってある。
それに――
「昨日のことも……あれ、わざとですよね?」
昨日。
まさに絵空さんが俺と霞音のことで協力してくれた一件を思い出す。
昨夜の告白事変がひと段落したところで。
ひとまずは霞音が目を覚ましたことを絵空さんに報告しにいこうとすると――絵空さんの姿が家のどこにも見当たらなかった。
スマホで連絡を取ろうとしてみると、俺に対して怒涛のメッセージが入っていた。
――『ごめん! 急用を思い出したの!』
――『今夜は友達のおうちに泊まるわね』
――『良かったらユウくんは、そのままうちに泊まっていって?』
――『ほら。おうちに病み上がりの霞音ちゃんひとりだと心配じゃない?』
――『だから、そのおもりも兼ねて――ね?』
――『帰るのは明日の朝遅い時間にするから』
――『それまで霞音ちゃんのこと――よろしくね』
――『(夕陽に背を向けて郷愁に浸ってる熊のスタンプ)』
などと。
半ば強制的に俺のことを蝴蝶家に泊まらせたのだった。
だが。しかし。
そのおかげで――俺は霞音と思う存分〝愛〟をたしかめあうことができたわけで。
「ありがとう、ございました」
ぺこん。と。
俺は頭を下げて感謝を伝えた。
「うふふ。お礼を言うのはあたしの方よ――いろんな意味合いにおいて、ね」
「え?」
絵空さんの含みのある言い方に首をひねっていると。
ぱたぱたぱた、と廊下から足音がきこえてきた。霞音だ。
「お待たせ、しました……あ」
リビングに入ってきた霞音が、絵空さんの顔を見てぴたりと止まった。
「おはよう、霞音ちゃん」
絵空さんは相変わらずたまらなく嬉しそうな笑顔を浮かべたまま、手をひらひらと振っている。
「ね、姉さん――」
視線を泳がせ、しどろもどろしている霞音に向かって。
絵空さんはわざとらしくきいた。
「なにか、姉さんに〝言うこと〟はないのかしら?」
「!」
霞音はぴくんと身体を跳ねさせたあと、おずおずと語り始める。
「え、ええと、……私……その、せ、せんぱいと、……」
「なあに? もにょもにょしてて聞こえないわよ?」
霞音は意を決したように息を吸って。吐いて。
「そ、そのっ――せんぱいとっ、お、お付き合いすることに……、なりましたっ」
つづいて、ぽふん。
頭から蒸気を噴き出した。
絵空さんは『あらあら』とそんな様子を見ながら、一言。
「そう――おめでとう。本当によかったわね。夢が現実になって」
「……う、うぅ……ありがとう、ございます」
ちなみに俺だって。気恥ずかしいのはまったく同じで。
霞音の隣でギネス級のトマトよりも真っ赤に顔を染めていた。
♡ ♡ ♡
絵空さんの朝食は、霞音が自慢するだけあって、とても美味しかった。
メインの料理は『エッグベネディクト』? とかなんとか、ひどく噛みそうな名前を絵空さんが教えてくれた。
(実際に霞音も『え、えっぎゅ――えっぎゅぷにゃっ――と、とにかく美味しい卵の料理ですっ』と噛みまくった末に言うのを諦めていた)
片付けも終わって、3人で霞音が淹れてくれたコーヒーを飲んでいたら、絵空さんがとつとして言った。
「あのね――私、ユウくんのこと好きよ」
俺と霞音はコーヒーを吹き出した。
「げほっ、げほっ……な、なにを言い出すんですか、絵空さん!?」
隣では霞音もむせている。
しかしどうしたって言葉の真意が気になるのだろうか、絵空さんの方を半ば睨みつけるように視線を向けていた。
「あ、私ったらいけない。勘違いさせちゃったかしら」
絵空さんは口の前に掌を当てて『あらまあ』と確信犯的にとぼけながらつづける。
「違うの。私からユウくんへの好意は――そうね。家族みたいなものかしら」
「か、家族、ですか……?」と俺は胸をさすりながらきく。
「ええ、そうよ。ユウくんって昔から、弟みたいに可愛いのだもの」
その言葉をきいて、霞音はすこしだけ安心したように『ほっ』と眉間の皺を解いた。まったく、相変わらず分かりやすいやつだ。
絵空さんはつづける。
「いつかね? ユウくんが私の〝本当の弟〟になってくれたら嬉しいなあって。昔からずっと思っていたから。だからこのまま――私の〝夢〟を叶えてちょうだいね?」
絵空さんはそんなことを言って、どこまでも確信犯的に笑んできた。
「……っ」
やれやれ。言わんとすることはつまり――恋人関係の最終着地点のことであろうが……。
それは付き合って初日のカップルには、あまりに荷が重すぎる。
案の定、霞音は『せ、せんぱいと、家族に……それはつまり、そういうことなのでしょうか……ぷしゅう……』と頭から湯気を噴出させていた。可愛いか!
「……ったく」
だけれど。そんな霞音の。最愛の彼女の様子を見ていたら。
――いつか家族になることだって。
「……やぶさかじゃないに、決まってるじゃないですか」
「うん? ユウくん?」
つぶやくように小さく――しかし強く吐かれた俺の言葉を。心情を。
絵空さんは問い返した。
「あ、いえ。ええと――」
やっぱりそれは、まだまだ高校生の俺には重い言葉ではあったけれど。
今の俺なら、言い過ぎくらいでちょうど良い気もした。だからこそ。
絵空さんから学んだ確信犯的な笑顔で――言ってやった。
「全身全霊で、絵空さんの〝夢〟を叶えてみせます」




