3-32 触れる唇を押しつけた
日記帳から溢れた想いを受け止めたあと。
俺はベッドで眠りつづける霞音に口寄せた。
なんてことはない。つまりはキスだ。
夢見姫症候群。
夢と現実の区別がつかなくなる症状が悪化し、未だ眠りつづけているお姫様を起こすには。
彼女にとって〝大好きな人〟の体液に含まれる興奮物質――つまりは王子様とのキスが必要みたいで。
ま。俺が王子様だなんて。どこまでも烏滸がましいとは思うのだが。
それでも――俺の大好きなお姫様にとって王子様になら。
なれたら光栄だ、なんてことも俺は思う。
「……っ」
ぴくり。彼女の身体が震えるのが分かる。当然だ。
今の俺と霞音の間には、紙一枚すらも挟まる余地はない。ゼロ距離だ。
霞音の唇は、すこしひんやりとしていた。
胸部の上下に合わせて、彼女の呼吸が伝わってくる。
気恥ずかしさから思わず口を離そうとするが、俺はどうにかそれを押し止める。
頭の中がじっとりと熱を持つ。
だけど心臓は不気味なくらいに静かだ。
静かだが――熱く。強く。沸騰しそうな血液を全身に向かって押し出していく。
その熱はやがて霞音の唇へと伝わる。伝わる。伝わる。
どくん。どくん。どくん。
俺の中から霞音の中に向けて。
様々な恋にまつわる感情が。ありとあらゆる愛に関する想いが。
――流れ込んでいく。流れ込んでくる。
ふだんの素振りから。日記帳に書かれた言葉から。
俺は霞音の想いをもう充分に受け取った。だけど。
それだけじゃ足りない、と俺は思う。強欲に思う。
それだけじゃ足りない。もっと。俺は。
現実の世界の霞音と――恋をしたい。愛をしたい。
もしかするときみは今。目を覚まそうとしないきみは今。
見ている夢の中で。見てきた夢の中で。
どこまでも理想的な恋愛をしているかもしれないけれど。
それを現実だと錯覚して、幸せを噛み締めているかもしれないけれど。
夢の中で生きていこうとしているかもしれないけれど。
そんな夢の中の恋愛は、どこまでいっても非現実だ。
俺は。俺は。
きみと。霞音と。この現実で。
はじめての恋愛の一瞬一瞬を。
揺れる炎のような幸せを。
一緒に重ねていきたい。
そう、思ったから。
――眠ってる場合じゃ、ないだろ。
俺はそんな想いをこめて。
わがままなお姫様に。わがままな王子様として。
触れる唇を、つよく、つよく――押しつけた。
♡ ♡ ♡
ゆっくりと時間が経って。
俺は唇を離した。
「…………っ」
ごくりと喉を鳴らす。
たまらず唇に手の甲をあてる。
そこに残った霞音のぬくもりを。余韻を――ぐるぐると熱を持つ頭の中でたしかめる。
脳内が熱い。身体が熱い。心が熱い。
視界はぐるぐると回っている。ぼうっとして焦点が定まらない。
熱にあてられたように身体がふらふらしている。倒れそうになる。
このままじゃいけないと思って、俺は窓際に近寄り、カーテンを開けて。
すこし外の空気にあたろうと、その窓を開け放した。
その瞬間。
「……んな!?」
ぶわり。
夏の夜にふさわしくない、どこか強烈な風が部屋の中に吹き込んできた。
カーテンがぱたぱたと激しく音をたてる。
霞音のいる世界から吹いてきた風だ、と俺は思った。
旋風は部屋の中の様々なものを飛ばした。
机の上に置かれていた紙が舞い散る。
軽めの什器がかたかたと動く。
ハンガーにかけられていた服が揺れる。
棚から小さな木製の箱のようなものが落ちた。
地面にぶつかった反動でその蓋が開く。
小さなオルゴールだった。
中から繊細な金属音で音楽が奏でられた。
その音に気を取られていると、ぱちり。
壁側のスイッチが反動でオフになった。
電気が消える。
部屋は一瞬、青い闇に染まる。
「あ」
俺は気配を感じて振り返る。
そこには。
「……っ」
まぎれもない。蝴蝶霞音が。
ベッドの上で上半身を起こしてこちらを見ていた。
つややかな髪を風ではためかせて。
窓から射す月明かりを白磁の肌に映して。
宝玉のような瞳を夜の青に濡らして。
とても幻想的な光景だった。
まるで神話の世界を描いた絵画のような――
思わず言葉を失った。夢かと思った。しかし。
「――せん、ぱい?」
彼女は。
現実的に。
声を発した。
「っ」
気を抜けば溢れそうになる様々な想いを俺は呑み込んで。
霞音に向かって。俺とのキスで目を覚ました霞音に向かって。
「――やっと会えたな。お姫様」
と。今この瞬間だけ。
王子様みたいに言ってやった。




