3-30 ユウくんはもう、決めたのね
「絵空さん……っ」
「……ユウ、くん」
蝴蝶家の扉を開けてくれたのは絵空さんだった。
「だ、大丈夫? ずいぶんとふつうじゃない様子だけれど」
絵空さんは心配そうに言った。
無我夢中でここまで走ってきて、勢いのままに蝴蝶家のインターフォンを鳴らした。
息は激しく切れたままだし、汗でびっしょりと服が肌に張り付いている。
たしかに。ふつうじゃないかもしれないな、と俺は申し訳なく思った。
「そ、それよりっ……霞音は、……大丈夫、ですか」
俺は息を落ち着かせながら言った。
絵空さんは首を振って、「変わらず、ずっと眠ったままなの。とてもしずかに。まるでこのまま目を覚まさないことを望んでいるみたいに」
「そう、ですか」
それでも。
やることはもう、決まっている。
「ユウくんは……もう、決めたのね」と絵空さんが見透かすように言った。
「――はい」と俺はうなずいた。つよく。はっきりと。「分かりましたか」
「分かるわよ」と絵空さんは言った。「だって、あの子と同じで――ユウくんもとっても分かりやすいのだもの」
俺はなんだか気恥ずかしくなって頬をかいた。
目を逸らすと家の表札の下に彼女の名前を見つける。
絵空さんが言うあの子。俺がここまで来た理由。覚悟を決めたその相手。
眠り続けていてもなお、霞かな音を俺に届けてくれるきみ。
俺はようやく、白い月の下にたどり着いた。
「…………ごめん、なさい」
「え?」
ふと視線を戻すと。
絵空さんがぽろぽろと涙を流して泣いていた。
「ど、どうしたんですか、絵空さん……!」
絵空さんは嗚咽をたてながら、顔を掌で覆った。
「ごめんね、ごめんなさい。あたし、とってもわるいことしちゃったの」
「わるい、こと……?」
状況が飲み込めず眉を寄せていると、絵空さんはとつとつと語り始めてくれた。
「ほんとうはね、霞音ちゃんの病気のこと――本人に隠す必要はなかったの」
「……っ!」
絵空さんは顔をあげずにつづける。
「あたし、霞音ちゃんの想いを、知ってたから。その強い気持ちを。ずっと小さいときから。知ってたから。だからこそ――その想いを、成就させてあげたくて」
霞音の強い想い。
俺が言うのも野暮な話ではあるが、それはきっと――俺への恋心のことだろう。
「だからね、今回の病気のこと――ちょうどいいって思って。あの子はとっても素直じゃないから。このままだと、一生――一生よ? 想いを伝えることができないんじゃないかって思って。それってとっても悲しいことだから。だから……病気のことを本人に隠して、きみたちのこと、くっつけようとしたの。霞音ちゃんの想いを、ユウくんに届けたくて」
「……そう、だったんですね」
絵空さんは顔を背けたままうなずく。
「ごめんなさい、あたし、どうしたらいいか分からなくて……本当に、ごめんなさい」
「……謝らないでください」
俺はそっと絵空さんの肩に手を置いて首を振った。
「ううん……ごめん、なさい……また霞音ちゃんにも、謝らなくちゃ」絵空さんは声を震わせて言う。「でもそのためには――眠ったままの霞音ちゃんを、起こしてあげないといけなくて」
俺は無言でうなずいた。
そうだ。夢の世界から帰らずにいる、困った眠り姫様を。
俺は目覚めさせなければならない。そのためにこの現実までやってきたのだ。
いくつもの夢を捨てて。なりふりかまわず。1秒でも早く。だったらもう。
――やることは、決まっている。
「よかったら、なのだけれど」鼻をひとつすすってから絵空さんが言う。「霞音ちゃんの病気のこと、ユウくんの口から、伝えてあげてくれる――?」
俺は堂々と答える。
「はい――もとから、そのつもりで来ました」
俺がこの場所まで来た理由。たったひとつの理由。
それは、霞音が見つづけている夢を〝現実〟に変えるためだ。