3-29 愛してるの心音だ!
夏の空に浮かぶ、わずかに端の欠けた白い月。
その方角にいるきみを目指して。
俺は一心不乱に地面を駆けていた。
ずきずきと痛みが下半身に走る。どうやらさっき転んで打ち付けた時のものらしい。痣でもできているだろうか。それでも動けないほどではない。
否、こんなところで止まっていてはいけない、と俺は思う。この程度の痛み、なんてことはない。むしろこの痛みがある限り――俺は走り続けなければならない。走ることができなくなっても。走りつづけなければならない。この先へ。月の向こうへ。未来へ。
夢ではない――現実に向かって。
「うおおおおおおおおおおおおおおお……!!」
声を振り絞って、俺は全力で走る。走る。走る。
息が切れる。汗がにじむ。全身が熱をもつ。心臓が高鳴る。激しく高鳴る。
その心音は――俺にたったひとつの事実を告げてくれる。
『今はきみとこうして、この光をみられてよかったって思うよ――』
脳裏にはどうしたってあの時の記憶が蘇る。
今日みたいに蒸し暑い、よく晴れた真夏の夜に。
ふたりで線香花火の光に見とれた時の記憶。
俺にとっての唯一の――恋に近しい感情の記憶だ。
その記憶の中で。
はじまったらいつかおわりがくる、と少女は言った。
さみしいきもちになるくらいなら、はじまらなくていいと。彼女は言った。
――ああ。そうだ。
すべては俺が夢をはじめてしまったせいで。
その夢をずるずると見つづけてしまったせいで。
現実の世界はこんなにもぐちゃぐちゃだ。
だけど。……だけど!
俺は唇を噛み締めながら。
息を切らして。体中の液体を沸騰させながら。思う。
「俺は、俺は――きみと一緒に、残った限りある人生の中で、すこしでもその光を見ていたい……!」
高級ホテルの最上階をあとにして。
高速道路から飛び降りて。
届くかも分からない月に向かって駆けている――
そんな夢みたいな現実の中で。
俺は思う。
「いつかは終わってしまう現実でも。いつかは消えてしまう泡沫の幸せだったとしても。……きみと一緒に、すこしでも。一秒でも! その光を見られた一瞬の幸せは、今でも俺の中にずっと残りつづけてる。この先も終わらずに、永遠に残りつづける! そんな果てのない気持ちだけは。かけがえのない一瞬を超えた想いだけは――どうしうようもなく現実だ……!」
記憶の中の俺は言う。
『でも、きっと』
おぼろげな夢のような記憶の中で。
小さなきみに向かって――告げる。
『きっと、またいつか――約束だ』
互いに小指を近づけて。触れて。重ねて。絡めて。
契ったのはひとつの願い。他愛のない、だけどどこまでも純粋な想い。
――なんだ、と俺は思う。
俺の想いは。心臓の音は。
その一瞬から、なにひとつ変わっていないではないか。
なにも激しくどきどきするだけが〝愛の音〟じゃない。
激しく情念的に高鳴る心音がないと、愛とは呼べないなんてことは決してない。
それはたとえば。
家庭教師の時に隣に並んで交わす。
他の人とはできない気の知れた会話だったり。
大好きなプリンを前に目をきらめかせ。
今生の幸せのようにはにかむきみの表情だったり。
お礼にと俺の好きな――だけどちょっぴり薄味のコーヒーを淹れて。
『どんなもんだ』と得意げにしていたり。
体育から校舎に帰る途中。
俺にだけ見えるように口元をゆるめる仕草だったり。
放課後に学校からすこし離れた場所で待ち合わせをして。
それがあまりに家の近くで、一緒に帰る時間が短くなってしまったことを後悔してるときだったり。
写真は苦手だと言っていたのに。
俺とふたりきりの写真は喜んで撮ってくれたり。
リリアというもうひとつの夢に――
たまらず嫉妬して、『ぷくう』と頬を膨らます様子だったり。
そんな嫉妬で想いが溢れてしまったり。
リリアに負けないようにと、勇気を出す方向を〝明後日の方向〟に間違えたり。
本当は俺のことを大好きなくせに。
それがバレていないと思って、恋愛関係でマウントを取りつづけてみせたり。
そんなきみのことをみて。
どこかで『かわいいな』と――感じるときだったり。
「……っ」
すべてはきみにとっては『夢の中』のことだとしても。
病気のせいだったとしても。
それが治るまでの間の幻だったとしても。
――そんな『夢』から、もしきみが覚めても。
きみの想いがずっとつづいてくれたらいいと。
終わらなければいいと。
心の底から。
思っているときだったり。
「う……ああああっ」
そんな、きみと過ごした様々な一瞬一瞬で。
きみに対して感じる――じんわりとあたたかな心音のことを想う。
なにも劇的じゃなくていい。
きみと一緒にいて心が安らぐ。落ち着く。
叶うことなら。きみとふたりで。
いつまでも一緒に。どこまでも一緒に。
――同じ時間を過ごしていたい。
そんな淡い音だって。
仄かな音だって。
霞かな音だって。
俺にとってはどうしようもなく――『愛してるの音色』だ。
きみのことを愛してる――その確固たる証拠で。
決定的に他と異なる心音だ。きみだけに感じる心音だ!
「ああああああっ……!!!!」
俺は思い切り息を吸い込んで。吐いて。
空を見上げて。
今でははっきりと分かる――
記憶の中の少女の名前を。
どうしようもなく愛してるきみの名前を。
叫んだ。
「霞音ーーーーーーーーーーーっっっ!!!!!!!」
声は果てのない真夏の夜の底でこだまして。
俺の心の臓を断続的に揺らす。
その心音に。迷いはひとつだってない。
「うおおおおおおおおおっ――!!」
俺は空に浮かぶ白い月に向かって。
おぼろげに霞がかかるその月に向かって――走る速度をあげた。